最初に、こころの元気+2022年9月号よりの引用です↓その後に記事があります。

 「皆様はじめまして。私はADHD(注意欠如・多動症)を持つシングルマザーです。息子も発達障害でASDとADHDをもっています。日々、自身の精神科の通院や息子の療育センターへの通院、個別支援計画書の作成をお願いしたり、それなりに悩み苦しむこともありますが、私は今、生きているだけで、息子がそばにいてくれるだけで幸せです。

 それというのも、私は若い頃、あまりの生きづらさから自殺未遂を繰り返し、リストカットや飛び降り自殺をはかり、そのたびに親には精神科や心療内科に連れていかれました。しかし、その時代には「発達障害」というものはまったくといってよいほど認知されておらず、ADHDの診断はおりず、うつ病とされ、合わない薬ばかりを処方されてきたのです。

 18歳になり高校を卒業すると一人で東京に出て仕事をし始めましたが、気が散漫で、頭の中ではいつも音楽が鳴り響き、雑音が気になり、集中して聞かなければならない人物からの指示がうまくはいってこない私には、一般的な昼の職業に長く就けませんでした。アルバイトにしても、私の手首は自傷癖で傷だらけでしたので、夏場に半袖の制服が着られないということで雇ってはもらえない。私は仕方なく夜の職業に就くことにしました。いわゆるキャバクラやラウンジで、キャストとして働くことを選んだのです。そこには、私と同じようにうまく昼の職業になじめず流れてくる女性達がたくさんいました。普通の子もいましたが、明らかにどこか風変わりな子もたくさん見かけました。もちろん給料のいい仕事ですが、それ相応の接客をこなし客に満足してもらわなければならないので、賢さや場の雰囲気を察する力が必要となってきます。幼い頃から自分なりに必死に訓練してきた「人の話を一生懸命聞いている素振り」が初めて活かされることになり、ADHDの特性故に人にきらわれないようにと媚びる癖がついてきた私は、意外にもその職業に向いており、それなりの生活をしていけるようになりました。それでも毎日酒を飲み、客を喜ばせ続け、他よりも低い自己肯定を上げるためにナンバーの上位をとることに固執し続ける日々を過ごしてきた私は、ある日とても疲れてしまって、ADHDの衝動性の強さに身をゆだね、度数の高い酒で心療内科から処方されていた薬をすべてのみ、救急車で運ばれ精神科の閉鎖病棟へと入院することになりました。私が夜の世界で見た、発達障害があるのでないかと思われる女性達。彼女達のような、昼の職業にうまく順応できずに夜職にやってくるという現象。夜職は、一種の発達障害や境界知能であったりする女性の受け皿となっている場合もあったように感じます。

 今の時代は、発達障害にだいぶ明るくなったと感じています。昔は本当にそのような言葉はまったく聞かなかったし、あんなにたくさんの医者にかかったのに診断がおりることはなかったのですから。私は今コンサータをのんで生活していますが、本当によい時代になったと思っています。けれど、まだ足りない。まだ、あの日、あの時、あの場で出会ってきたような女性たちはいる。

私は男性として生きたことはないので発達障害である男性の人生はわかりません。けれど、私が見てきた女性達は皆、私と同じで生きづらそうだった。私はまんまと二次障害を発症しましたが、息子には私のような想いはしてほしくないのです。できる限りのサポートと、世界は広く、楽しいことは山のようにあると知って欲しい。発達障害があると、確かに苦しい場面も出てきます。けれど、そのことを一瞬でも忘れさせるほどの時間を積み重ねていってあげたい。あんなに死ぬことばかり考えていた私は今、愛する息子のために生きています。

 

 こころの元気+でこの投稿を読んでいて私が思い付いた事は・・・

荘子の説いた塵垢外の道は、社会を否定し社会不適応で一人で生きようとすることを示唆するというよりは、少数派による、個人個人一人一人違った適応生存のあり様のほうが近いんじゃないかしら。上のはその一例と思ってよさそう。ただし適者生存といったけど、世の災いを避けるという意味合いの方ね。だから少数派の話だと思うの!多数派と全然事情が違ってくるから生きることの方法が一大プロジェクトになってくるわけ。

→一人一人のてんで個別的な生存を探る必要がある。
 
 
 
 

 この事に関して、例えば、荘子には、こんな一節があるわ。

「鳥は高く飛んで弓矢で射られないようにするし、はつかねずみは神社の社の祭壇の下深くに巣を作って、いぶり出しや穴堀りの災いを避けようとする。」

 

こう世の中を見てみると、社会福祉の掲げるような社会的包摂じゃなくて、言ってみれば塵垢外包摂のようなものが障害者により個個人からも目指されるべきだし、もう障害者本人は常に必死でやっている、やろうとしていることなんだと思います。この点に関して、ちょっと↓のブログや私のツイートを見てみてください

 

 

 
 
 
 

→ これなんかは少し前に横塚晃一の著書「母よ!殺すな」を読んでいるときも考えたことです。この本には非常に感動しました。なぜならそこには障害者による、まるで障害を障害とも思わないような(障害のネガティブに囚われない)独自の世界観の構築が試みられ、またその事が提唱されていたからです。

一節を引用すると、「脳性マヒ者の社会参加は世の中に溶け込むことではなく、生活形態はどうあろうと社会に対して我々のありのままの存在―社会性のない、非能率的な存在―を堂々と主張することなのである

この本来的な社会性のないあり方の存在、世界観を塵垢外の一例ととらえるわけです。

他にも、ホームレス芸術家の小川てつオも"容易に社会に包摂されない生き方をする"と言っていましたが、社会的包摂という言葉は健常者都合のしばしば危険な誤りを起こしかねず、だから私は障害者主体の言葉としてはじめて、塵垢外包摂というのを考えるわけなのです。

 

そして、考えてみると、この"塵垢外の道"というのがあるとするからこそ、例えば優生思想みたいなのが全然成り立っていない、間違いだと主張できるんじゃないかしら。

 →よく、Twitterなんかで、「障害者の私に安楽死を」、とか「障害者なんで子供作りません」とかいった軽率な発言を耳にししませんか?ああいった問いに、塵垢外の道の考えは答えてくれるのではないかしら。