統合失調症の人々のマイペースをよしとする治癒の方針、(よく「私は私、それでいい」という言葉に形容されるのだが、)これが更に昇華されたとでもいった所、つまり一段上に荘子の文章に見られる茫洋自逸な精神的自由の境地が置けると私は考えた。統合失調症と荘子の思索との紙一重な位置関係を示す一例と思われる。通常、統合失調症の人のようなマイペースな生きる姿勢では未だ荘子の自由自在性にまでは到達していないとするのだ。
昇華というところには芸術的意義が出てくる、この違いがある。詳しくは精神医学的に言うところの、"フィロバティズム"からの昇華であり、フィロバティズムは統合失調症患者にも見られる精神世界の現象である。統合失調症では、治療方針として結局は自己の確立を目指すのである。一方で荘子の思索では、しばしば自己の人為性を省み、それを放擲していくことが言われる。これを哄笑的放擲とでも名付けておきたい。これがあればこそ、人間世界の正義が振りかざされる事自体を哄笑するという姿勢が存在出来るのである。社会福祉的正義についてもこれが言えると思う。
 ところでこのフィロバティズムの変形、昇華と述べたものの一例として分かりやすいものを見つけたかもしれないので以前の記事をリブログして挙げ、示しておきたい。↓

繰り返すが、元々の統合失調症者でのフィロバティズムというのが背景に人間社会を前向きに積極的に捉えているからこそ至らぬところを見てとって、である。」
 
ちょっとフィロバティズムらしいのはこういうの
 
 
他にも日本の例で言えば、この人とかもそうかな↓洞窟オジさんの加村一馬さん
 
 因みに、柴山雅俊著「解離の舞台」という本からの引用になるが、安永による文明の推移の三段階モデルの第二段階にあたる、経済ないし所有の闘争の段階があり、これは自我が自由や夢を追いかける時代となる、この時代には自らの出自、来歴、そして住んでいる場所を切り離そうとする解離性健忘や解離性遁走が現れやすいのだと書いてある。ちょうど、1960年代後半から1970年代前半にかけて、突然行方をくらましてしまう「蒸発」が話題になっている。また、映画「人間蒸発」は1967年の作品である。