Ⅲ. キリストの契約について

 

1. 人間堕落後に下さったキリストの契約

 

 統一教で知らされていないのは人間が堕落したあとに神様が下さったキリストの契約です。それは創世記3章15節にあります。

 

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 

 これは福音を宣布されている最初の神様のみ言葉であり、原始福音とも言われているキリストの契約です。

 人間の堕落以降に神様がサタンに捕らわれるようになった人間を救うために、女の子孫の十字架を予示し、それによりサタンの権威が砕かれ人間の罪の呪いから解放されることをいっています。

 この神様の宣布以降から旧約聖書でいう旧約時代には来られるキリストを信じる信仰を求められたのであり、新約聖書でいう新約時代には来られたキリストを信じる信仰が求められています。実際に歴史的事実として世界歴史の分岐点でBCとADと分けられ、今も2000年以上過ぎても私たちはADというキリストが来られた歴史の背景のなかで生きているのです。

 

この最初の神様が宣布なさった原始福音を知れば、聖書66卷の重要なキリストの流れが見えて、聖書は統一教でいう人類摂理の復帰路程をいっているのではなく、イエス様が完全に人類を救うために来られたキリストであると書かれていることを知れるのです。

 

 

2.アベルの血の祭物の中にあるキリストの契約

 

アダムとエバにはカインとアベルという子どもがいました。

このふたりの子どもについても原理講論では独自の持論を述べています。

 

カインは地の作物から主へのささげ物を持って来ました。(創4:3)

アベルは羊の初子の最上のものを持って来ました。(創4:4)

 

 神様はアベルのささげ物を受けられ、カインのささげ物には目を留めませんでした。神様はひどく怒ったカインに"あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せている。"と言われました。(創4:5ー7)

 

 統一教の原理講論では カインとアベルはエバの不倫の愛の実なので カインを悪の表示体、アベルを善の表示体という立場を立てて摂理することになったとあり、長子権のサタンの欲望によりカインは長子だったのでサタン側だったわけです。

神様がカインの供え物を受け取られるには神側のアベルにカインが従順に屈服して堕落性を脱ぐための蕩減条件立てることで復帰摂理がなされなければならなかったが、結局カインがアベルを殺害したため成し遂げることができなかったのです。

 

統一教ではこのことをアダム家庭を中心とする復帰摂理として言ってますが、このようなことを表現しながら聖書全体を通して神側、サタン側と分けて蕩減条件など立てその過程で復帰摂理を成しえようとしており、成し得なかった責任をノア、アブラハムなどを使命者と立てて復帰摂理の延長をすすめ、最終的には文鮮明まで説明しています。これは統一教が聖書を利用して文鮮明氏がメシヤと証明するために勝手に聖書をもって新しい真理と称して展開した持論です。

 

 聖書では一貫してキリストの契約を述べています。神様は人間に神様の方法である十字架のキリストの契約を知らせ、皮の衣を着せてくださりました。ここに動物の血を流して皮をつくって人に着せたという神様の方法であるキリストの奥義があります。

 このような前提を持ってアダムとエバのこのふたりの子どもを通してキリストの契約(創3:15)を確認できます。また、ふたりの子どもの中でどちらが人間の罪悪から赦され救われるキリストの契約を正確に知って信じているかを知ることができます。

 人間の罪の通路を防ぐ方法はただイエス・キリストの十字架の血しかありません。この契約を知ったアベルはキリストの血を象徴した羊のささげ物で善を行い、この契約を知らなかったカインのささげ物は善を行わなかったために神様は受け入れることが出来なかったのです。(ヘブル11章4節)

 

 統一教でいう神側、サタン側など復帰摂理を中心に聖書は語っていません。キリストの契約をしっかり握って神様の前に信仰で立っているか否かです。だから血を流すいけにえの内容が重要なんですね。自分勝手にいけにえは捧げられないようになってます。

 

 どれだけ人間の心に響く教えや宗教であっても人間の罪を赦す救いの条件にはなりません。カインの捧げものがそうでした。どんなに自分が苦労して培ったことでも神様の方法を知らなければ神様とは何も関係のないことになるのです。

 人間の救いの絶対条件は‘キリスト’の血である福音の契約しかありません。そのキリストは十字架で血の契約を成就された‘イエス様’です。

 

 旧約に神様に捧げものをするときにきず一つない綺麗な幼い牛や羊をもっていけにえを捧げたのと同じように、罪と汚れが何一つない人間のいけにえが十字架であってその捧げものがイエス様でした。これが人間のすべての罪がイエス様に転嫁された罪人のための燔祭として、人間始祖堕落以降から神様が定めた赦しの方法でした。これが実際に行われたのが紀元前BC(BeforeChrist)キリストが来られる前, AD(Anno Domini)主の年と言って、主をイエス・キリストを指しますが、正に主の年が到来した時でした。私たちはこの延長線の中で十字架の恩恵の中で生きています。そうでなけでば今でも罪の赦しを得るために牛や羊をもって血のいけにえを捧げながら罪の赦しを得てから神様の前に出なければならなかったでしょう。

 

 カインのような自分中心の捧げものをもって神様の前に立たずに、アベルのように神様の御心を知って神様の前に立ち、正しく聖書と福音を知り救いの恵みをいただけるように心を変えることはとても重要です。

 

 

“イエスは、酸いぶどう酒を受け取られると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。”

(ヨハネ19:30)

 

"信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。

彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。"

(へブ11:4)

 

 

 3. 受胎の背景にある契約

 

イエスの受胎に関していろんな説があります。聖書のとおりを語る正統派もいるし、実はマリヤとヨセフは関係したものの記憶が無くされたとか、統一教のように親戚のザカリヤとの関係を言ったりしています。

 

ルカの福音書1章26節から見てみると、天使ガブリエルは神様から送られて処女マリヤのところへ行きイエス様の受胎を知らせた内容があります。この時以来マリヤはザカリヤの家に行ったのですが、マリヤがザカリヤの妻エリザベツにあいさつをしたときエリザベツは聖霊に満たされ大声をあげて告白をします。

 

“あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。”(ルカ1:42)

 

胎の実とはなんでしょうか。マリヤがザカリヤの家に行った時の状態を、エリザベツがこの告白をしたことがわかります。

 

 聖書での事実はマリヤがザカリヤの家に行って、妻のエリザベツが祝福の言葉をマリヤに言ったのであり、その後3か月間マリヤが滞在していたということです。統一教ではその期間にマリヤはザカリヤと関係を持ったというのが信者の中では知られている話です。

 

 ザカリヤとエリザベツは神様の前で義人であり、主のすべての戒めと定めを落ち度なく行った祭司の家庭でした。(ルカ1:6). しかし、ザカリヤの子、洗礼ヨハネの受胎をザカリヤが不信したため口が聞けなくなった状態のときにマリヤがエリザベツの所に来たのでした。神様から不信仰した罰を与えられているときにマリヤが来たことになります。100歩譲って憶測で判断しても、ザカリヤとマリヤが各自違うところで召命を受け、イエス様の受胎を神様から知らされていたとしてもそれをお互い確認することができない状態だったといえるでしょう。マリヤは娼婦ではないのですから冒険するにはエリザベツもいたわけですし、ザカリヤに会ったという記録も書かれていません。また、統一教がいくら聖霊の受胎を否定してそれを根拠の全くない聖書を無理やり引用して憶測でこの時だといっていても、四福音書のどこにもイエス様の受胎は聖霊によることを否定する内容は出てきません。

 

統一教はイエスの聖霊による受胎と誕生を否定しています。聖書を利用して人間的な受胎を推測して事実のようにつくりあげました。しかし、聖書では全く人間的な受胎を探せないイエスの受胎です。そして落ち度のない祭司長が神様から罰を受けている時期に何の召命もないにも関わらず、する行為がどこにあるのかということです。

聖霊を冒涜する異端の言葉を信じる人にならないことを祈ります。

 

「御使いは答えていった。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」 」(ルカ1:35)

 

 天使ガブリエルが語られた内容です。イエス様は神様の全能なる能力で聖霊によって身ごもりこの世にお生まれになった神の子です。神様の御心をみ言葉で伝え、それを成される天使が言っている神様の啓示を否定するのは異端しかありません。

 

 その神の子の証拠は復活で証明されています。神様の御霊が宿られているから地獄に留まらずに復活できるのです。十字架で死んで地獄に行くのは罪のある人間です。罪があっては地獄から逃れることができないのです。しかし、イエスの信仰により罪の赦しを受け聖霊とともにおられる方は地獄に留まることができません。ですので、イエス様はご自身が復活後に聖霊を受けなさいと弟子たちにいいました。本当にイエス様をキリストと信じた人は聖霊を受けることができるのです。それが救いです。

 

 復活後のイエス様を信じなかった弟子のトマス(ヨハ20:24-29)は復活されたイエス様に見なくても信じるものになりなさいと言われました。その後、弟子のトマスはどこに宣教に行ったのでしょうか。弟子の中でも一番遠くのインドまで宣教に行きキリストを宣べ伝えそこで生涯を終わりました。殉教です。その時のクリスチャンたちは迫害が強かったために地下生活をしながら信仰を守りました。その足跡は残っています。イエス様の復活を実際に見た証人たちは末のヨハネを除いて全員殉教しています。ある人は引き裂きの刑、皮剥ぎの刑、猛獣の餌、逆さ十字架の刑、他いろいろなどです。どうしてここまでできるのでしょうか。本当に直接神様を見たからです。旧約の予言のとおりに女の子孫として聖霊によって身ごもった神様が人として来られて十字架によって死ぬこと、すべての罪と罪悪から人間を救って下さり、その証拠として復活されることの成就を見たからです。その祝福が今現代の私たちにもあります。見ないで信じる者にはもっと大いなる神様の祝福の下で生きていけます。神様のもとに立ち返り、永遠なる祝福にあずかれるようにお祈りいたします。

 

 

“御使いは答えていった。「聖霊があなたの上に臨み、

いと高き方の力があなたをおおいます。

それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。”

(ルカ1:35)

 

 

 4. 契約の成就である聖霊による身ごもり

 

 統一教はイエス様を全能なる創造主神様の能力で聖霊によって身ごもりお生まれになったことを否定します。

‘聖霊による身ごもり’を人間の理性と知識的経験と哲学的、宗教的に理解しようとします。しかし、無からこの世を創造された神様の能力を信じる人ならば信仰的理解をすることが重要です。

 

 聖書は女の子孫(創3:15)で処女が身ごもった(イザ7:14)者は聖霊によるものであることを(マタ1:20)、イエス様が聖霊によって身ごもられた処女マリヤをとおしてお生まれになられたと伝えられています。

 

"イエス・キリストの誕生は次のようであった。

その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。"

(マタイ1:18-22)

 

 マリヤは男と関係を結んでいないにも関わらず自分が身重になったことがわかったとあります。そして、ヨセフはそれを知って内密に去らせようとしました。これは当時ユダ法では結婚をしていないのに他の人の子を妊娠したら石打ちの刑で殺されるくらい深刻な内容だったためにヨセフは思い煩ったわけです。しかし、天使によって神の御心を知ったためにそのままマリヤを受け入れたわけですし、マリヤはそのように自分の身に起こる可能性があったのにも関わらず、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と神様の御言葉を信じ、信仰告白をしたのでした。

 イエスの誕生はこのような神様の御言葉を信じた信仰者によって、真に主の前にただ信仰によって守られ成就されたのです。

 

 主なる神様がそのようにして成されると言ったら成されるのです。

これを覆して違うと全的に否定している統一教は、神様の人間に対した「食べたら必ず死ぬ」と言った神様の御言葉を否定したサタンと同じ立場であることを知らなければなりません。

 

 聖書全体をとおして神様の全能性を言っています。ヨブ記には 

 「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」

 「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」

と神様は質問されています。また、

 

「非難する者が全能者と争おうとするのか。

神を責める者は、それを言い立ててみよ。」(ヨブ40:2)

 

 人間の能力で神様の能力を測ろうとすること自体がとても間違ったことであり、人間の高ぶり、傲慢さを表しているのです。

神様の御言葉を心から信じる人となることを祈ります。