先日復活祭でしたので、統一教の信者の知り合いに復活祭のメッセージを送りました。

統一教の人は復活に対して理解がほとんどなく認識もされていません。とても曖昧で、信者のある人は人間が復活なんかできないと言ったりもしています。とても正論を言ってくれたので、そうなんだとだから文鮮明は復活もできないただの人間だったといえるんです。この世の審判もできないただの人間、また同じ仲間から実は罪がありましたなんて言われているのですから。

 

そうなんですよね。天国は罪があっては行けません。ですので、神様はイエス・キリストの信仰によって救われるように神様の方法を教えてくれているんです。人間は絶対的にイエス様が救い主と認めない限り罪の赦しはありません。罪の赦しを得て神様が神の子と認めて下さる義認がないと天国には入れません。これを信じるか信じないかです。

 

復活祭のメッセージを送った姉妹が

天では神様と真の御父母様とイエス様が同じところにいると信じていると言っていました。

 

キリストがなぜ来られないといけないのか。

なぜ人間にキリストが必要なのか。

人間に何の問題があってキリストが必要で、なぜそのキリストがイエスでないとならないのか。

 

はっきり知らないのですべて憶測で聞き考えて、だろう、信じているという言葉になってしまうんです。

文鮮明はイエス・キリストを自分の主人キリスト救い主と信じていなかった。そして、イエス様をキリストと告白していない。聖霊によって身ごもってないと言ったので、キリストとは認めてないことです。

また、罪がある人であったため、メシヤでも再臨のメシヤでもなんでもない罪人。

 

信念で信じるのではなくて、聖書的事実と救いによる聖霊の働きの中で、イエス・キリストが神様であると信じれるようになっています。統一教の人たちは自ら聞かざる見ざるにはならないで、福音とは何か。しっかりと知る必要はあります。

 

どんどん統一教の教えが変わってきています。今は中心霊という表現も使われていますよね。話を聞いてみると信仰生活について福音的なこともいっているので、聞こえはいいように思いますが、聖霊がともにおられないところにいくら心が綺麗になってもその人の主人はイエス・キリストではないので、結局はマタイ12:43-45のようになってしまいます。

ですので、いくら正しく、一生懸命、善く生きても無駄なことといえるのです。自分の身分をまず神様の子と変えないと何の意味をもたないということを知らないとなりません。

 

十字架で死んだイエスだけを信じるから、全ての統一教の働きがイエス様の死体を探す3人の女性のように違った行動を起こすのであって、

神様の預言の通り御言葉を信じて、十字架で死んだイエスがすべてを完了して死を勝利して復活された神様であることを信じてほしいと思います。