何か切なる思いが合って
神様の声を聞く
イエス様の声を聞く
神様と出会う
イエス様と出会う
このように願う人もいます。
どうやって声を聞き、どうしたら出会えるのでしょうか。
そのために多くのクリスチャンは必死になって祈ったりします。断食の祈りまでして神様の御声を聞こうとします。
韓国の牧師先生は山に登って主の声を聞かせてくださいと祈る方もいるわけです。
自分がクリスチャンで神の声を聞きたいと叫び本当に祈っている時に声が聞こえたら、これは神の御声だと断定するでしょう。
自分がクリスチャンでイエス様の声を聞きたい出会いたいと叫び真剣に祈っていたら声が聞こえ、姿も見えたら、これはイエス様だと断定するでしょう。
また、クリスチャンでないある人が神社に行って願い事をしたら願いが叶ったとしたら、神社の神が叶えてくれたと断定するでしょう。
自分が見ようとすること、聞こうとすること、叶ってほしいと自分が思う事が実際にそのようになったように思う事はクリスチャンでも未信者でもあり得る事です。
クリスチャンが新天地や異端に行ってしまう理由はいろいろありますが、
このように神秘的な体験をして異端に行く人もいるということです。
神様とはどんな方でしょうか。
神様は神から離れ堕落した罪人である私たちにいつも質問していることがあります。
「あなたは、どこにいるのか。」創3:9
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」マタイ16:15
神様の御心がはっきりわからないと、神様は私たちにこのようにいつも質問されます。
その神様の御心とはどうしたらわかるのですか。
ヨハネの福音書の1章の1節には 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
今現代の私たちに神様の御言葉として与えられているのは聖書です。神様の特別啓示として人間に与えられた御言葉が聖書であることを信じるのなら、神様の御心を知ることが出来るようになっています。そして、そのみ言葉を持って神様の御心を伝えてくれるところが教会であり礼拝です。
なぜ異端に行くのでしょうか。聖書を神様の御言葉と信じれないからです。自分が信じたい、信じれるところだけ信じ、それ以外はどこか不足な部分疑問のある部分として自分の基準で判断、人間の基準で判断しているので信じれないからです。
アダムとエバは神様の御言葉であった 「食べたとき、あなたは必ず死ぬ。」という御言葉を信じませんでした。ですので、食べれたのです。ことばは神とともにある事をアダムとエバは信じませんでした。
堕落した人間に下さった神様の御言葉はキリストでした。そのキリストがイエスだと神様は聖書ではっきりと私たち人間に伝えています。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」マタイ16:15
イエス様が人間救済に条件が満たされなくて、文鮮明に願いを託すほど不足なキリストだったのでしょうか。かりに神様が神様ご自身が成しえなかった摂理を罪ある人間に任せるほど神様は無能なのでしょうか。
神様がキリストを送り、人間の罪のいけにえとして十字架上で完全に完了したのなら完了したのであって、ほかの償いは全く必要ないのです。それを信じれなく、そのキリストを自分の人生の中で体験できず答えを完全に出せてないので、他のキリストを求めたり、何か聞こえの良いものがあるとその声に従ってしまうのです。
そんな惑わしに合わないように聖書をとおして神様は御言葉を下さいました。そしてそのみ言葉を信じるようにと言っているのです。
福音とは何か。
なぜキリストなのか。
そのキリストでなければならない人間の問題とは何なのか。
そして、その人間の問題と自分とどんな関係があり、キリストとどんな関係があるのか。
クリスチャンは確実に答えを出さないとなりません。完全に答えを出してしまえば、何時間も主よと叫びながら神の御声を、イエス様の御声を求めなくても、自分の人生の中で御言葉とともに、私の中にともにいる聖霊様が導き教えて下さるのです。
神秘の世界観で神を求めた結果、文鮮明、韓鶴子同様 クリスチャンが統一教に行く人がいたわけです。
神様は聖書のみことばを読みこれを心に留める者は幸いだとおっしゃいました。聖書はイエス・キリストのことを伝えて下さっています。
聖書が書かれた理由は「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)なのです。
他の名前ではいのちによる救いはあり得ないという事を知っていただきたいと思います。