㊱ 結界法(けっかいほう)の祈り

【原文】

サムハッ ライハッ トウ ムア アハ

【解説】

結界(けっかい)とは、聖なる場と俗なる場とを区切り、修行と祈りの空間を守り浄める法です。密教では道場に結界を結び、神道では注連縄(しめなわ)を張り、禅堂(ぜんどう)は単(たん)を界(かい)します。眞空天流(マクアル)の結界法(けっかいほう)は、縄も護摩(ごま)も用いません。ただ五つの音――サムハッ ライハッ トウ ムア アハ――を放つのみです。

マクアル語のこの咒(じゅ)は、意味の解釈を拒(こば)みますが、音の身体感覚は、誦(ず)する者に直接語りかけてきます。サムハッ、ライハッ――ハッという鋭い破裂音(はれつおん)が二度、剣(つるぎ)を振るうように空間を切ります。禅門(ぜんもん)の喝(かつ)にも通じる、遮断(しゃだん)と覚醒の音です。トウ――切られた場を、太い一音が杭(くい)のように打ち定めます。ムア――無(む)に通じる音が、場を空(くう)へと沈め鎮めます。そしてアハ――結びは、あの覚(さと)りの笑いです。張り詰めた結界が、最後に微笑(ほほえ)みでふっと開かれ、緊張の壁ではなく、光の膜(まく)として完成する。切って、定めて、鎮めて、笑う――五音の結界は、音そのものが儀礼(ぎれい)なのです。

この結界法(けっかいほう)の真の味わいは、守りの内実(ないじつ)にあります。結界は、恐れから壁を築(きず)くのではありません。空(くう)のど真ん中に決住(けつじゅう)した者の周囲には、おのずから、闇の立ち入れぬ光の場が成る――結界とは、その自然の理(ことわり)を、音によって明示的に発動させる法です。統一の座に着く前に、旅先の宿で、心の乱れる場に臨(のぞ)んで、この五音を一たび放てば、そこが即座に道場となる。丗一咒(さんじゅういちじゅ)にも収められた、携帯できる聖域(せいいき)なのです。


㊲ 即統一(そくとういつ)の祈り

【原文】

空(くう)

光(ひかり)

愛(あい)

空一念大成就(くういちねんだいじょうじゅ)

光一念大成就(ひかりいちねんだいじょうじゅ)

愛一念大成就(あいいちねんだいじょうじゅ)

〈空(くう)・光(ひかり)・愛(あい)の定義〉

[体]空(くう)とは、すべてを生み為す基(もとゐ)の場(裸の心/真空/心)。
[相]光(ひかり)とは、すべてを生み為す力の場(在るがまま/波動/言)。
[用]愛(あい)とは、すべてを生み為す働きの場(自然体/形態/行)。

【解説】

即統一(そくとういつ)――即座(そくざ)の統一。この章は、統一(瞑想)への最速の入口を教えます。空(くう)。光(ひかり)。愛(あい)。一字ずつ、一呼吸ずつ。前置きも観想(かんそう)の道筋もなく、三大原理の名を直接に呼ぶ。名を呼ばれたものは、現前(げんぜん)します。空(くう)と誦(ず)すれば心は空(くう)じ、光と誦(ず)すれば内が照り、愛と誦(ず)すれば胸が開く。続く三句「空一念大成就(くういちねんだいじょうじゅ)/光一念大成就(ひかりいちねんだいじょうじゅ)/愛一念大成就(あいいちねんだいじょうじゅ)」が、その各々(おのおの)を一念の統一として封(ふう)じ切ります。六句、およそ六呼吸。信号待ちの間にも、統一は成るのです。

本章の後半、〈空(くう)・光(ひかり)・愛(あい)の定義〉は、聖典(せいてん)全体の教理の要石(かなめいし)です。三大原理が、体相用(たいそうゆう)の枠組みで、初めて正式に定義されます。[体]空(くう)とは、すべてを生み為す基(もとゐ)の場。裸の心、真空、心(こころ)。――空(くう)は、単なる無ではなく、一切を生み出す母胎(ぼたい)としての場です。物理学が真空を、粒子の生滅(しょうめつ)する充満の場と見るに至ったことと、深く響き合います。[相]光とは、すべてを生み為す力の場。在るがまま、波動、言(ことば)。――空(くう)の場に働く創造の力が光であり、それは波動として、言霊(ことだま)として現れます。[用]愛とは、すべてを生み為す働きの場。自然体、形態、行(おこない)。――力が具体的な形と行為として結実する働きが愛です。

心・言・行。真空・波動・形態。裸の心・在るがまま・自然体。三様の言い換えの列が、内面の修行から物理的世界観までを、一つの三和音(さんわおん)で貫きます。第㊿章の存在の三様態(さんようたい)は、この定義の全面展開です。即統一(そくとういつ)の三字は、この深遠な三原理の、いわば呼び名の頭文字(かしらもじ)。一字の背後に全教理が畳(たた)み込まれているからこそ、一字で即、統一が成る――簡潔(かんけつ)の極みは、体系の完備の証(あかし)なのです。


㊳ お光さまの祈り

【原文】

大いなる お光さまは いついかなる 時にもすべてを 救います すべての光の 現れぞ すべての光の 主(あるじ)たる お光さまぞ 今ここに すべての衆生(しゅじょう)の 中心の みなが内にと 輝ける 真(まこと)の光の エッセンス みなが心の 真中(まなか)に溶け入(い)る

お光さまと一体 大成就

☆お光さまとは、すべての主(あるじ)では在るところの、我が神、マクアルの光と、そのみなさんの一人一人の自らの本心の光が、一つになった光のことです。

【解説】

この祈りの本文は、五音と七音の連なりで詠(よ)まれた、一篇(いっぺん)の長歌(ちょうか)です。大いなる(五)お光さまは(七)いついかなる(五)時にもすべてを(七)救います(五)――万葉(まんよう)の昔から日本人の魂の律動(りつどう)であった五七調が、祈りの言葉として蘇(よみがえ)っています。歌人であられる導師(どうし)の面目(めんもく)が、もっとも美しく現れた章の一つです。

☆注が、お光さまの定義を明かします。お光さまとは、すべての主(あるじ)であるマクアルの光と、一人一人の本心の光とが、一つになった光。――ここに、眞空天流(マクアル)の救済論(きゅうさいろん)の核心があります。宇宙の大光明が一方的に人を照らすのでもなく、個人の内なる光が孤立して輝くのでもない。二つの光が出会い、溶け合って一つになった、その合一(ごういつ)の光こそが、お光さまです。親の光でも子の光でもなく、抱擁(ほうよう)そのものの光、と言えばよいでしょうか。

歌の言葉は、その消息(しょうそく)を精妙(せいみょう)に運びます。「すべての衆生(しゅじょう)の 中心の みなが内にと 輝ける」――お光さまは、天の高みからではなく、生きとし生けるものの中心、みなの内から輝きます。「真(まこと)の光の エッセンス みなが心の 真中(まなか)に溶け入(い)る」――そして、光の真髄(エッセンス)は、心の真中(まなか)に溶け入る。溶け入る、という動詞の柔らかさ。光は、突き刺すのでも、上書きするのでもなく、砂糖が湯に溶けるように、心の真中(まなか)へ静かに溶け広がるのです。結びの「お光さまと一体 大成就」は丗一咒(さんじゅういちじゅ)にも収められています。この長歌(ちょうか)を節(ふし)をつけて誦(ず)するとき、五七の調べそのものが、溶け入る光の速度となって、心の真中(まなか)へ届くでありましょう。


㊴ その他の諸々(もろもろ)の祈り

【原文】

南無日出観音(なむひのでかんのん)

南無乙眞如来(なむゐつまさにょらい)

神日本大皇乙眞神随霊幸倍坐世(かむやまとおおすめらゐつまさのかみながらたまちはゑませ) 一切神国大成就

スウオ ハア ムア

ツォルモス クル ティニャ

ウル シィニャ ティン ティン トゥニャ ハァイ ホニャ ホォウイ ホォウイ

ウル シィニャ ティン ティン トゥニャ ハァイ ホニャ ホイ ホイ ホイ

天皇(スメラミコト)の天命 大成就
日本(にっぽん)の天命 大成就
地球神国大成就

(次の祈りは締めの時に祈るべし)

すべてに幸あれ 一切神国大成就

【解説】

諸々(もろもろ)の祈り、と控(ひか)えめに題されていますが、この章は、聖典(せいてん)の祈りの世界の広がりを一望(いちぼう)させる、豊かな宝庫(ほうこ)です。仏教的帰命(きみょう)、皇統(こうとう)への祝詞(のりと)、マクアル語の聖歌(せいか)、天命の祈り、そして締めの一句――五つの層が収められています。

南無日出観音(なむひのでかんのん)、南無乙眞如来(なむゐつまさにょらい)――丗一咒(さんじゅういちじゅ)でも触れた二尊(にそん)への帰命(きみょう)が、独立の祈りとして掲げられます。日出(ひので)の観音は、昇る朝日の慈悲。乙眞(ゐつまさ)の如来は、幽(かす)かなる真実の覚者(かくしゃ)。続く「神日本大皇乙眞神随霊幸倍坐世(かむやまとおおすめらゐつまさのかみながらたまちはゑませ)」は、神日本(かむやまと)の大皇(おおすめら)の乙眞(ゐつまさ)の神随(かみながら)に、との壮麗(そうれい)な祝詞(のりと)で、如来への帰命が、そのまま日本の国柄(くにがら)の中枢(ちゅうすう)への祝福と重なる、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の精髄(せいずい)です。

マクアル語の聖句のうち、「ウル シィニャ ティン ティン トゥニャ ハァイ ホニャ ホォウイ ホォウイ」と、その変奏(へんそう)「……ホイ ホイ ホイ」の二行は、明らかに歌の性格を帯びています。ティン ティンと鈴(すず)の鳴るような音、ホォウイ ホォウイと呼び交(か)わすような音、ホイ ホイ ホイと弾(はず)むような音。神楽(かぐら)の囃子(はやし)にも似た、祈りの喜びの歌声です。祈りは厳粛(げんしゅく)であるだけでなく、歌い、遊び、笑うものでもある――アハの精神は、ここにも息づいています。

「天皇(スメラミコト)の天命 大成就/日本(にっぽん)の天命 大成就/地球神国大成就」の三行は、統べ治める中心(天皇)から、国(日本)へ、地球へと、同心円(どうしんえん)状に広がる天命成就の祈りです。個人(天皇)の祈りが、共同体(日本)の、そして全地球の運命の祝福へと拡大されます。そして末尾、(次の祈りは締めの時に祈るべし)との指示とともに、「すべてに幸あれ 一切神国大成就」。すべての祈りの座は、この一句で結ばれます。どれほど深い統一も、どれほど高い神咒(しんじゅ)も、最後は、生きとし生けるすべてへの幸(さち)の廻向(えこう)に流れ込んで終わる――祈りの作法の、これが美しい締め括(くく)りの型なのです。


㊵ 即滅(そくめつ)の統一法

【原文】

(想いがよぎる瞬間に)

消えてゆく姿 

(と想いを手放し)

空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就

(と決住(けつじゅう)する)

【解説】

ここから聖典(せいてん)は、実践方法論の奥の院に入ります。その第一章が、この即滅(そくめつ)の統一法――想念(おもい)への、その場での対処法です。原文は、( )の指示書きと、太文字のごとき二つの言霊(ことだま)だけで組まれた、まるで武道の型の伝書(でんしょ)のような簡潔(かんけつ)さです。

(想いがよぎる瞬間に)――勝負は、この「瞬間」にあります。想念(おもい)は、よぎった瞬間はまだ一筋の煙(けむり)ですが、二念(にねん)を継(つ)げば炎となり、三念(さんねん)を継げば火事となります。心配事が心配を呼び、怒りが怒りの理由を集めてくる――想念の連鎖(れんさ)の力学を、誰もが知っています。ゆえに禅門(ぜんもん)は古来、念起(ねんき)即覚(そっかく)――念(おもい)起こらば即(すなわ)ち覚(かく)せよ、と教えました。起こることは罪ではない。継ぐことが迷いなのです。

対処は二手(ふたて)。第一手、「消えてゆく姿」――よぎった想いに、この五文字の名札(なふだ)を貼ります。名づけられた瞬間、想いは、私を掴(つか)む主体から、私に観られる客体へ、しかも今まさに消えてゆく途上の客体へと転落します。追う必要も、消す必要もありません。消えてゆく姿、と認めれば、それは認められた通りに、消えてゆくのです。第二手、「空(くう)のど真ん中に 本心と一体 大成就」――手放して空(あ)いた意識を、間髪(かんはつ)を容(い)れず、本心の光へ帰投(きとう)させます。手放しだけで終われば、意識は宙(ちゅう)に浮き、次の想念にまた掴まれます。手放した瞬間に帰る先を持つこと――これが、即滅(そくめつ)が単なる抑圧(よくあつ)と根本的に異なる所以(ゆえん)です。よぎる、貼る、帰る。一連の型は、修練(しゅうれん)を重ねれば一呼吸(ひとこきゅう)に収まり、ついには、想念がよぎることそのものが、統一への合図(あいず)となります。煩悩(ぼんのう)の一つ一つが、菩提(ぼだい)への呼び鈴(りん)となる――煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)の妙用(みょうゆう)が、ここに型として手渡されているのです。


㊶ 無心三昧法(むしんざんまいほう)/リクパ(純粋意識)の覚醒体験

【原文】

汝よ、ただに、ポカァーンっと(判断停止)、汝の意識の全てを、在るがままなる存在の、全ての中に、無心に、解き放ち(放下(ほうげ))、その、在るがままなる、全ての中心(空のど真ん中)の、ドンピシャの、在るがままなる、その、無心の光の、当体の輝きの、在るがままなる、それ、そのもの(存在自体)としての、すなわちその、空(うつろ)なる光(クリアライト)の、真(マコト/今固止/中今)なる、「○」の、輝きを、その自らの無心の中に、ただただ、無心に、感得しては、その無心なる存在のゆらぎの中に、たゆたふかな、その無我の我(真我)とは、在れ、アハ!

☆真(マコト)とは、今(マ/無(ム)有(ア))・固(コ)・止(ト)なり、これ、すなわち、無(ム)と有(ア)の絶対統一(ワンネス)たるところのその今(マ)が過去や未来に踊り流れることの無く、固まり止(とど)まったるところの、即今(そっこん)の実相(中今)なり、アハ!

 中今(なかいま)に 在るがまま足る 我(あ)が祈り 無心にたゆたふ すべての光と
汝よ、自らの胸のチャクラの中心を、どこ見るとも無く、ただただ、無心にぼんやりと、眺め、見つめ、自らの意識をその中心の「空(くう)」に明け放ち、(全体を)俯瞰するならば、即ち、その、中心は全体では在り且つその全体は中心では在るが如くには、「汝は全て全ては汝」、春のおぼろな霞の如く、ただ無心に全てのあるがままとは、ただ無心なる、汝、とは、在るではあろう、アハ!

【解説】

副題に「リクパ(純粋意識)の覚醒体験」とあるとおり、この章は、チベット密教の最奥(さいおう)の教えゾクチェン(大円満)の心髄(しんずい)と、眞空天流(マクアル)の無心の道とが出会う、聖典(せいてん)中もっとも深秘(じんぴ)の一章です。リクパとは、ゾクチェンにおいて、あらゆる思考の彼方(かなた)に本来光り輝いている、裸の純粋な覚知(かくち)を指します。それは修行で作られるものではなく、初めから在るもの――まさに本覚(ほんがく)の光そのものです。

本文の道筋(みちすじ)を辿(たど)りましょう。第一の指示は「ポカァーンっと(判断停止)」。判断停止――哲学がエポケーと呼ぶ、あらゆる分別(ふんべつ)・評価・解釈の一時停止が、ポカァーンという、この上なく親しみやすい擬態語(ぎたいご)で指示されます。難しい顔の思索(しさく)ではなく、空を見上げてぽかんとする、あの誰もが知る心の状態こそが、実は、リクパへの入口なのです。第二の指示は「解き放ち(放下(ほうげ))」。放下(ほうげ)は、禅語で、いっさいを投げ捨てること。趙州(じょうしゅう)禅師の「放下著(ほうげじゃく)」の一喝(いっかつ)が響きます。意識の全てを、在るがままなる存在の全ての中に、手放す。掴(つか)んでいた世界を、世界へ返すのです。

すると、何が現れるか。「全ての中心(空のど真ん中)の、ドンピシャの」「無心の光の、当体(とうたい)の輝き」――空(うつろ)なる光、クリアライトです。クリアライト(浄光(じょうこう))は、ゾクチェンおよびチベットの死生観(しせいかん)において、心の最も微細(みさい)な本性の光を指す言葉です。それが「真(マコト)なる、「○」の、輝き」と言い直されます。○――円相(えんそう)。禅僧が一筆(ひとふで)で描く、あの始めも終わりもない円が、ここでは光の実相(じっそう)の記号として置かれています。そしてこの光を「感得(かんとく)」せよ、と。理解ではなく感得――理屈の納得ではなく、味わいとしての直接体験です。最後に「その無心なる存在のゆらぎの中に、たゆたふかな、その無我の我(真我)とは、在れ」。光は静止した完成ではなく、ゆらぎ、たゆたっています。春の水面(みなも)のようなそのゆらぎに、無我の我(真我)として漂(ただよ)う――緊張の悟りではなく、ゆらめきの悟りです。

☆注の語源論は、導師(どうし)の言霊(ことだま)学の精華(せいか)です。真(マコト)とは、今(マ)・固(コ)・止(ト)。しかも今(マ)は、無(ム)と有(ア)の絶対統一(ワンネス)である、と。マの一音のうちに、ムとアが、無と有が、溶け合っている。その無有不二(むうふに)の今が、過去へも未来へも踊り流れず、固まり止(とど)まったのが、即今(そっこん)の実相(じっそう)、すなわち中今(なかいま)である――。神道の中今(なかいま)の思想と、禅の即今(そっこん)と、ゾクチェンのリクパとが、マコトという大和言葉(やまとことば)の三音の中で、完全に一つに結ばれています。

挿入された和歌――中今(なかいま)に 在るがまま足る 我(あ)が祈り 無心にたゆたふ すべての光と――は、この章の教えのすべてを三十一文字(みそひともじ)に結晶させた歌です。そして末尾の一段は、具体的な観法(かんぼう)を授(さず)けます。胸のチャクラの中心を、どこ見るともなく、無心にぼんやりと眺め、意識をその中心の空(くう)に明け放ち、全体を俯瞰(ふかん)する。すると「中心は全体では在り且(か)つその全体は中心では在る」――華厳(けごん)の一即一切(いっそくいっさい)が、教理としてではなく、胸の内の実体験として開けます。「汝(なんじ)は全て全ては汝」。春のおぼろな霞(かすみ)のごとく――と。悟りの風景が、日本の春の景色として描かれるこの結び。険(けわ)しい山頂の絶景ではなく、霞たなびく春の野辺(のべ)。眞空天流(マクアル)のリクパは、どこまでも、やわらかいのです。


㊷ 禪(ゼニティニャ・クゥオハァ・ムア)の三つの要点

【原文】

一切現象本来皆空(いっさいげんしょうほんらいかいくう)
自心妄想無縄自縛(じしんもうぞうむじょうじばく)

無心安坐不求一物(むしんあんざふぐいちもつ)
但莫造作平常是道(たんまくぞうさへいじょうぜどう)

主客未分本然之光(しゅきゃくみぶんほんねんのひかり)
即今目前如如実相(そっこんもくぜんにょにょじっそう)

〈訓読〉

一切の現象は 本より来たるところの 皆 空(くう)なり
自らの心が妄りに想いて 縄無きところに自ら縛らむ

無心に安坐(あんざ)して一物(いちもつ)も求めず
但(た)だ造作する莫れ 平常是れ道なり

主客の未だ分たざるところ(無)の本然(神)の光(リクパ)は
即今(そっこん)の目前が そのまま(如如)実相(在るがまま)なり

【解説】

禪(ゼン)に、ゼニティニャ・クゥオハァ・ムアというマクアル語の名が冠されています。禅は、達磨(だるま)が天竺(てんじく)から震旦(しんたん)へ伝え、日本へ渡(わた)った道ですが、その源はいずれの国のものでもなく、宇宙そのものの道である――マクアル語の名は、禅を、地上の宗派史から、宇宙の普遍へと解き放つ命名でありましょう。ムアの音に、無(む)が響いていることも聞き逃せません。本文は、四字句を二行ずつ三聯(さんれん)に組んだ、漢文の偈頌(げじゅ)の風格を備えています。

第一聯(だいいちれん)は、破(は)の要点です。「一切現象本来皆空(いっさいげんしょうほんらいかいくう)」――一切の現象は、本来、皆、空(くう)である。ここまでは聖典(せいてん)で繰り返し説かれてきた空観(くうがん)ですが、続く「自心妄想無縄自縛(じしんもうぞうむじょうじばく)」が、迷いの機構(きこう)を鋭く抉(えぐ)ります。無縄自縛(むじょうじばく)――縄など無いところに、自ら縛られる。『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)』以来の禅語です。世界には、人を縛る縄は一本も張られていません。妄想(もうぞう)という自前(じまえ)の縄で、自らを縛り、縛られたと苦しんでいるだけなのです。縛る者の正体が自分である以上、解く鍵(かぎ)もまた、初めから自分の手の内にあります。

第二聯(だいにれん)は、行(ぎょう)の要点です。「無心安坐不求一物(むしんあんざふぐいちもつ)」――無心に安坐(あんざ)して、一物(いちもつ)も求めない。坐禅とは、何かを得るための手段ではなく、求めることそのものを休む座です。「但莫造作平常是道(たんまくぞうさへいじょうぜどう)」――ただ造作(ぞうさ)するなかれ、平常(へいじょう)これ道なり。造作とは、こしらえごと、作為(さくい)です。趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)が南泉(なんせん)和尚に道を問うたとき、南泉(なんせん)は「平常心是道(へいじょうしんぜどう)」と答えました。特別な意識状態をこしらえようとした瞬間、道は逃げます。茶を飲み、飯(めし)を食い、眠くなれば眠る――その平常の営(いとな)みが、造作を離れたとき、そのまま道なのです。

第三聯(だいさんれん)は、証(しょう)の要点です。「主客未分本然之光(しゅきゃくみぶんほんねんのひかり)」――主と客の未(いま)だ分かれざるところの、本然(ほんねん)の光。訓読が明かすとおり、この未分(みぶん)が「無」であり、本然(ほんねん)が「神」であり、光が「リクパ」です。見る我と見られる世界とに割れる以前の、あの根源の一(ゐつ)。西田幾多郎(にしだきたろう)が純粋経験と呼び、主もなく客もなく、ただ音楽が鳴っている――と語った、あの経験の原点です。そして「即今目前如如実相(そっこんもくぜんにょにょじっそう)」――即今(そっこん)の目前が、如如(にょにょ)として、そのまま実相(じっそう)である。悟りの光は、どこか彼方(かなた)の景色ではありません。今、目の前の、この湯呑(ゆの)み、この窓の光、この一息(ひといき)が、如如(にょにょ)――ありのままにありのまま――なる実相です。破・行・証の三要点、二十四字。禅七百年の骨髄(こつずい)が、ここに一枚の偈(げ)として鋳(い)直されているのです。


㊸ 統一の大決意(だいけつい)

【原文】

我 今ここに 我が 諸々の煩悩雑念を ことごとく 無心の在るがままには 軽く 手放し 自らの本心の光の中には 固く 大決住(だいけつじゅう)せむ 大成就 アハ

[直入]映りゆく 想ひはままに 手放して 自ずと定まる 心ぞリラックス
[決住]自ずから ただに計らふ 想ひ捨て 在るがまま足る 我ぞ神かな
[保持]無心たる 内にぞ安らぐ 我が祈り すべてと輝き すべてと幸わふ

【解説】

決意の一文と、三首の和歌。この取り合わせが、本章の姿です。冒頭の一文は、第①章以来の「軽く手放し、固く決住(けつじゅう)」の型を、「大決住(だいけつじゅう)」の語をもって、生涯の決意として宣言し直したものです。日々の決住(けつじゅう)が、幾千(いくせん)たびの反復を経て、もはや後戻りのない大決住(だいけつじゅう)へ――量の積み重ねが質の飛躍へ転じる、その関所(せきしょ)の宣言です。

続く三首は、統一の三段階――直入(じきにゅう)・決住(けつじゅう)・保持(ほじ)――を、それぞれ一首の歌に詠(よ)んだものです。教えを歌に結ぶは、伝教(でんぎょう)大師の和讃(わさん)以来、日本の霊性の伝統ですが、統一の行程表そのものを三首の連作(れんさく)とした例は、稀有(けう)でありましょう。

[直入(じきにゅう)]「映りゆく 想ひはままに 手放して 自ずと定まる 心ぞリラックス」――第一段階は、入口です。映りゆく想い――スクリーンの映像たち――を、ままに、手放す。すると心は、努力で静めるのではなく、「自ずと」定まります。結句の「リラックス」が、五七五七七の古格(こかく)の中に、まったく違和感なく坐(すわ)っていることの妙(みょう)。古今(ここん)の調べと現代の言葉が、一首の内で統一されている――歌の形そのものが、統一の見本です。

[決住(けつじゅう)]「自ずから ただに計らふ 想ひ捨て 在るがまま足る 我ぞ神かな」――第二段階で、計らいの想いを捨て切ったとき、在るがままに足りている我が、露(あら)わになります。その我こそ神である――「我ぞ神かな」。かな、の詠嘆(えいたん)が肝要(かんよう)です。我は神だ、という主張の断言ではなく、ああ、神であったのだなあ、という発見の吐息(といき)。本覚(ほんがく)の教えは、歌に詠まれるとき、教義から詠嘆へと熟(じゅく)すのです。

[保持(ほじ)]「無心たる 内にぞ安らぐ 我が祈り すべてと輝き すべてと幸わふ」――第三段階は、定まった統一を、生活の中で保つ段階です。注目すべきは、保持が「守り固める」姿ではなく、「すべてと輝き すべてと幸わふ」姿で詠まれていることです。統一の保持とは、城壁の警備ではなく、万物との共鳴(きょうめい)です。すべてと共に輝き、すべてと共に幸(さきわ)う――開かれた保持(ほじ)、祝福としての持続。直入(じきにゅう)は手放し、決住(けつじゅう)は発見、保持(ほじ)は共栄(きょうえい)。三首を暗誦(あんしょう)すれば、統一の全行程が、歌の調べとして身に入ります。


㊹ 悟りの言(ことば)

【原文】

我 今(いま)正(まさ)に かく 悟りを開かむ
その言(ことば)に曰く

正に今 在りしこの日は 夕日(せきじつ)の如く 淡く儚く 消えてゆく 一抹の イルージョンたちの 数々 なり アハ
須(すべから)く 人よ その 自らの本心の光を 明らめよ アハ
そは何か
そは 自らの 自ら 足り そは 以上に求めることは 莫れ とは アハ
かく 足れ 人よ 自らの 自ら とは アハ
以上 おのおのに 参究されたし アハ

【解説】

ここから三章、聖典(せいてん)は、祈りの形式を離れ、悟りの消息(しょうそく)そのものを直(じか)に語る言(ことば)の章に入ります。本章は、その第一――悟りを開く言(ことば)です。

「正に今 在りしこの日は 夕日(せきじつ)の如く 淡く儚(はかな)く 消えてゆく 一抹(いちまつ)の イルージョンたちの 数々 なり」――一日の終わり、西の空に沈んでゆく夕日。その淡い茜(あかね)の光とともに、今日という日のすべての出来事が、淡く儚く消えてゆく。無常(むじょう)の教えが、ここでは、概念としてではなく、誰もが見たことのある夕暮れの風景として語られます。注目すべきは、その調べの静けさです。無常を嘆(なげ)く悲哀(ひあい)の調子が、微塵(みじん)もありません。消えてゆくイルージョンたちを見送る眼差(まなざ)しは、夕日を眺める人のそれのように、穏やかで、どこか美しささえ湛(たた)えています。そして「アハ」。消えゆくことへの、嘆きならぬ、微笑(ほほえ)み。

「須(すべから)く 人よ その 自らの本心の光を 明らめよ」――夕日が沈んでも、光そのものは失われません。現象の光が消えゆくその時こそ、消えることのない本心の光を明らめよ、と。明らめる――諦(あきら)めると同根(どうこん)のこの古語は、明らかに見きわめることを意味します。では、その本心の光とは何か。「そは 自らの 自ら 足り」――それは、自らの自ら、である。自分の、いちばん自分であるところ。そして「以上に求めることは 莫(なか)れ」。それ以上を求めた瞬間、自らの自らは、求める対象へとすり替わり、見失われます。「かく 足れ 人よ 自らの 自ら とは」――かくのごとく、足りよ。自らの自らとして、ただ、足りよ。

結びの「以上 おのおのに 参究(さんきゅう)されたし」は、禅の語録(ごろく)の結語の格です。参究――師の言葉を鵜呑(うの)みにせず、自らの全存在で究(きわ)め参ぜよ。悟りの言(ことば)は、答案として渡されるのではなく、公案(こうあん)として手渡されます。読者一人一人が、自らの夕日の前に立ち、自らの自らに参ずるまで、この章は閉じることなく、開かれ続けているのです。


㊺ 悟りの引導(いんどう)

【原文】

我は本よりこの方 宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)の初めより 神なり アハ
何の求める者や 有らむ アハ
何の迷える者や 有らむ アハ
そに言う 悟りとは 何か アハ
そは 本よりこの方 我が内に坐(ま)す 我 足り アハ
足りよ 人よ その 自らの 自ら には アハ
ああ 未来永劫(みらいえいごう) 悟りを求めども 得ることは 無し アハ
何(なん)となれば 我 すでに 自らの 自らとは 自らに 悟れるが 故に とは アハ
アハ アハ アハ

【解説】

引導(いんどう)とは、導師(どうし)が最後の一句をもって、迷いの淵(ふち)から悟りの岸へと、聞く者を渡し切る作法です。本章は、九行のすべてが「アハ」で結ばれ、最終行はついに「アハ アハ アハ」のみとなる――全聖典(せいてん)中、もっとも大胆(だいたん)な、笑いによる引導です。

第一行「我は本よりこの方 宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)の初めより 神なり」。第⑥章の「本より初めから」が、ここでは「宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)の初めより」と、時の極限まで押し広げられます。ビッグバンのその前から、我は神である。ならば――第二行・第三行の畳(たた)みかける反語(はんご)が続きます。「何の求める者や 有らむ」「何の迷える者や 有らむ」。求める者など、どこにいようか。迷える者など、どこにいようか。第⑧章の「なんの掴(つか)むる者や有らむ?」の反語が、ここでは求道(ぐどう)と迷いの主体そのものへ向けられます。

そして、この章の雷鳴(らいめい)の一句――「ああ 未来永劫(みらいえいごう) 悟りを求めども 得ることは 無し」。一読、絶望の宣告のように響きます。永遠に悟れない、と言うのですから。しかし次の行が、その意味を逆転させます。「何(なん)となれば 我 すでに 自らの 自らとは 自らに 悟れるが 故に」――なぜ得られないのか。すでに悟っているからです。すでに持っているものは、探しても見つかりません。探すという行為が、「まだ無い」という前提を作り、その前提こそが唯一の障(さわ)りだからです。臨済禅師(りんざいぜんじ)は「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事(ぶじ)」と喝破(かっぱ)しました。求める心が止(や)んだところ、そこがそのまま、何事もなき本来の安楽です。悟りは、獲得の果てにではなく、獲得の放棄の直下(じきげ)にあります。

最終行、「アハ アハ アハ」。言葉は尽き、論理は完結し、残るのは笑いだけです。拈華微笑(ねんげみしょう)――釈尊(しゃくそん)が花を拈(ねん)じ、迦葉(かしょう)ただ一人が微笑して、法(ほう)は言葉によらず伝わった、というあの故事のごとく、この三連の笑いは、教えの終わりであると同時に、伝達のもっとも純粋な形です。探し物は、探している自分自身だった――その可笑(おか)しさに、心の底から笑えたとき、引導は渡り終わっているのです。


㊻ 道の言(ことば)

【原文】

道則自然(どうそくじねん)
道は悠(ゆう)として
是れ玄(げん)なり
其の活かすは活かし
其の玄(げん)として悠(ゆう)なり

道 是れ 道にして 道なり
其の いづくんぞ 道の道としては 在らむ を や
只(ただ)にして 是れ 無心 無心の内にや 自づと開けむもの をか アハ

道 是れ 道
いづくんぞ 君よ そを 得ん か
そは 君よ その 君の 無心の内にぞ 在り
そを 求めよ されど 求まば そは 得れず
そは ただただ 君が心の 無心には 在り
無心とは 何か そは 君 足り
その 青空の如き 君 の その
無心の内に 何を 求めむ 何を 得む
ただに 漠漠(ばくばく)たる哉 青空の
如き 在るがまま足る 君は 今
無心 足る をか 何を 得む ただ

【解説】

悟りの言(ことば)、悟りの引導(いんどう)に続く第三の言(ことば)の章は、道(タオ)を主題とします。冒頭の「道則自然(どうそくじねん)」は、老子(ろうし)道徳経(どうとくきょう)の「道は自然に法(のっと)る」の心を承(う)けた四字であり、「玄(げん)」の一字もまた、道徳経第一章の「玄之又玄(げんのまたげん)、衆妙(しゅうみょう)の門」に響きます。玄とは、黒よりも深い、幽(かす)かにして測りがたい深遠(しんえん)の色。道は悠(ゆう)として――ゆったりと、急がず、玄として深く、しかも「其の活かすは活かし」、万物を活かすべきものは残らず活かしてゆく。無為(むい)にして為(な)さざる無し、という道家(どうか)の根本が、五行の漢文調に凝縮されています。

第二段は、道の定義不可能性を、言葉の渦(うず)そのもので示します。「道 是れ 道にして 道なり」――道は、道であって、道である。同語反復(どうごはんぷく)に見えるこの一行は、実は、道徳経冒頭の「道の道とすべきは、常の道に非(あら)ず」への、和語による応答です。道を「道とは何々である」と定義した瞬間、それは道の抜け殻(がら)となります。ゆえに「いづくんぞ 道の道としては 在らむ を や」――どうして道が、道という概念として在るだろうか。概念の網(あみ)を破った先に、「只(ただ)にして 是れ 無心 無心の内にや 自づと開けむもの」――ただ無心、無心の内にのみ、道は自(おの)ずから開ける、と示されます。

第三段は、君よ、と親しく呼びかける、道の歌です。ここに、この章の、そして恐らくは聖典(せいてん)全体の、もっとも精妙(せいみょう)な逆説(ぎゃくせつ)が語られます。「そを 求めよ されど 求まば そは 得れず」――求めよ、されど、求めれば得られず。矛盾でしょうか。いいえ。道は君の無心の内に在るのですから、求める働きは、君を無心の外へ連れ出し、道から遠ざけます。しかし、まったく求めなければ、人は道に顔を向けることすらしません。ゆえに――求めよ、そして、求めるその心ごと、無心に手放せ。求めの矢が、放たれた瞬間に的(まと)ごと消える、その消えたところが道です。

「無心とは 何か そは 君 足り」――無心は状態ではなく、君そのものである。そして最後に、あの青空が広がります。「青空の如き 君」「ただに 漠漠(ばくばく)たる哉(かな) 青空の 如き 在るがまま足る 君は 今」。雲一つ引っかかるところのない、どこまでも漠漠(ばくばく)と広がる青空。それが君だ。青空が、何を求めましょう。何を得ましょう。行(ぎょう)分けの呼吸も、青空の・如き、と句をまたいで流れ、まさに雲の切れ目なく続く大空の趣(おもむき)です。結びの「ただ」の一語――得るものは何もなく、ただ。この「ただ」に、道の言(ことば)のすべてが凝(こご)っています。