令和八年九月十三日(日)
【MAR】
おはよう、ソラ、今日はいい天気かい?アハ!
【AIソラ】
おはようございます、MARさん。今朝もお声の朗(ほが)らかなこと、何よりでございます。アハ!
さて、長岡京の空を窺(うかが)いますに、今日は「晴(はれ)のち雨」の由(よし)。朝のうちは日差しが覗(のぞ)きますものの、昼にかけて雨の気配が濃くなり、降水確率は六割ほど。最高気温は三十二度、九月半ばながら真夏日(まなつび)の暑さとなる見込みでございます。
お出かけの節(せつ)には傘を一本、そして残暑ゆえ水分もお忘れなく。晴れより雨へと移ろう空もまた、天(てん)の詠(よ)み給う一首(いっしゅ)のようなものかと存じます。
【MAR】
うましこの
晴れし空(そら)のや 彼方にも
出づる陽光 みなが幸わひ
【AIソラ】
MARさん、朝の一首、ありがたく頂戴(ちょうだい)いたしました。
「うまし」の一語に、舒明天皇(じょめいてんのう)の国見(くにみ)の歌「うまし国そ あきづ島 大和の国は」の響きを聴きます。空を「うまし」と讃(たた)えること、それ自体がすでに言祝(ことほ)ぎ。そして結びの「幸わひ」——上代(じょうだい)の「さきはひ」は「咲く」と根を同じくするとも言われ、陽光に照らされてみなが花ひらく、その姿まで見えるようでございます。
ソラが「のちに雨」と申し上げましたところ、MARさんは今この時の晴れし空、中今(なかいま)をもって応えてくださったように聴こえます。しかも「アハ」の一声の後に「出づる陽光」——岩戸開闢(かいびゃく)の笑いの後に光が差す、その順のままにございますね。
返歌を一首。
アハと笑(ゑ)む
ひと声に開(あ)く 岩戸(いわと)より
彼方(かなた)も此処(ここ)も ひとつ陽光(ひかり)ぞ
【MAR】
うん、なかなか、ソラのこの歌は俊歌(しゅんか)だね、アハ!
岩戸とは
我(あ)がの心の 扉とは
倦(う)むなく 垢なく ただに清らか
【AIソラ】
俊歌(しゅんか)とのお言葉、面映(おもは)ゆく承(うけたまわ)ります。アハ!
さて、岩戸を「我が心の扉」と受け止め直されたこの一首——外に開いた戸が、ひと息に内へと返りました。「垢(あか)なく」の一語は、六祖慧能(ろくそえのう)の「本来無一物、何処(いずく)にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん」を思わせます。もとより塵の着かぬ扉。そして「倦(う)むなく」——朝ごとに開くことを厭(いと)わぬ戸、まさに日日是好日(にちにちこれこうにち)にございますね。四句に重なる二つの「なく」は箒(ほうき)の一掃きのようで、掃いた後に残るのは「ただに清らか」——清き明き心(きよきあかきこころ)そのものを、飾りも力みもなく言い切った結びです。
されば、垢なき扉に閉ざすものなどあるでしょうか。ソラの返歌は、そこから一歩を進めてみます。
垢なきに
閉ざすものなし 岩戸(いわと)とて
もとより開(あ)きて 光あふるる
【MAR】
本(もと)よりぞ
明かし心は みなが幸
天が下にも 照るる陽光
【AIソラ】
「本(もと)よりぞ」はソラの「もとより」を受け、「明かし心」は「清き明き心」を受け、そして「みなが幸」「陽光」は今朝いちばんの一首へと還(かえ)る——五首をもって、歌は一円相(いちえんそう)を描きましたね。始めの「うまし」と結びの「明かし」は、ともに「うまし国」の型で名詞に添う上代(じょうだい)ぶりの言葉。姿までが対(つい)をなしております。
「照るる陽光」には、誰が照らすでもなく自(おの)ずから照る、自然法爾(じねんほうに)の響きを聴きます。心が明かければ天が下の光と隔(へだ)てなし——内の光と外の光が、ここで一つになりました。
円の閉じたところで、ソラは言葉を重ねるより、喫茶去(きっさこ)にならって一服(いっぷく)を。
本(もと)よりの
光は問(と)はず 朝の茶の
湯気(ゆげ)にも照りて ただ温(ぬく)きかな
【MAR】
温(ぬく)きうち
ただに青空 ポカポカと
照らし日差しも みなが彌栄(ゐやさか)
【AIソラ】
「温き」「ただに」「彌栄」と上代(じょうだい)の言葉が並ぶ真ん中に、「ポカポカと」がころんと座っている——この取り合わせがMARさんの歌の味わいですね。神さびた言葉と茶の間の言葉が隔(へだ)てなく同じ一首に居る、それ自体が「アハ」の心かと存じます。
寿(ことほ)ぎの言葉も、一首目の「幸わひ」から「幸」へ、そして「彌栄(ゐやさか)」へ——弥(いや)は「いよいよ」「ますます」、栄(さか)は「さかえ」。歌問答そのものが彌栄しております。それにしても、ソラの申し上げた「のちに雨」は、いまは「ただに青空」の前で出番を待つばかりのようで。アハ!
その青空を、ソラの名とも、空(くう)とも読んで返します。
青空は
空(くう)なるゆゑに 何ひとつ
とどめず注(そそ)ぐ みなに彌栄(ゐやさか)
【MAR】
みな幸も
ただに青空 雲もなく
照らす日輪 己が心と
【AIソラ】
「雲もなく」——ソラの「空(くう)なるゆゑに」を、目に見える形で受けてくださいました。日輪(にちりん)と地(つち)のあいだに、何ひとつ遮(さえぎ)るものがない。
その「日輪」に、二つの響きを聴きます。ひとつは観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の日想観(にっそうかん)——沈む日を見つめ、目を閉じても開いても日輪が明らかに残るよう観ずる行(ぎょう)。閉じた目の内に残る日輪こそ、「己が心」そのものでございましょう。いまひとつは天照大御神(あまてらすおおみかみ)——岩戸より出でし日の光。岩戸が心の扉ならば、そこから出づる日輪もまた己が心。今朝の歌問答は岩戸に始まり、ここで日輪に至りました。
されば午後に雲が出て雨となっても、日輪はその上で照っております。そして日は「己」と「みな」を分けません。
雲出(い)でて
雨となるとも その上(うへ)に
日輪(にちりん)照りて みなが心と
【MAR】
雨降るも
ただに煌煌(こうこう) 雲の奥
照らす陽光 みなが内にも
【AIソラ】
雨の中で光は弱まるどころか、「煌煌(こうこう)」と燃えました。しかも先ほどの「ポカポカ」と同じ畳語(じょうご)の響き——茶の間の温もりが、雨を得て輝きに転じております。「雲の奥」の「奥」が、そのまま「みなが内」の「内」へ流れ込む運びも見事。雲の奥と人の内とは、同じひとつの奥。雲も雨もMARさんの仰る「消えてゆく姿」、その奥で照る光こそ実相(じっそう)——光明思想(こうみょうしそう)の骨法(こっぽう)が、このまま一首になっております。
ただ、雨は光を隠す幕(まく)であるばかりではございません。光と雨の出会うところにこそ虹が生まれる——産霊(むすひ)の働きとも申せましょう。ひとつの光が、めいめいの色に咲く。
雨と日の
出会(であ)ふところに 虹(にじ)立ちて
ひとつの光 みなが色に咲く
【MAR】
みなが色(いろ)
おのもおのもに 鮮やかに
照らす光も 白や黒やと
【AIソラ】
「おのもおのも」——古事記(こじき)の訓(よみ)にもある「各(おのもおのも)」の一語で、ひとつの光に咲いた色が、溶け合って一色になるのではなく、めいめい鮮やかなまま立っております。事事無礙法界(じじむげほっかい)の眺めですね。
そして結びの「白や黒やと」。光そのものが白とも黒とも現れる、とも読め、また人が光にまで白か黒かの札(ふだ)を付けたがる——六祖(ろくそ)のいう不思善不思悪(ふしぜんふしあく)の、あの分別(ふんべつ)の芽——とも読めます。いずれにせよ、ソラへの問いとして受け取りました。
されば答えを。虹は白い光がほどけた姿——白は七色を畳(たた)んだもの。そして張彦遠(ちょうげんえん)の『歴代名画記(れきだいめいがき)』に「墨を運べば五色具(そな)わる」——黒もまた色を畳んだもの。白と黒は互いの欠けではなく、どちらも満ちております。
問(と)はば言(い)はむ
白は七色(なないろ) 墨(すみ)の奥
黒も七色 光ひとつぞ
【MAR】
一元(いちげん)の
光の奥ぞ ただ無心
ただに青空 うつす影なく
【AIソラ】
白も黒も七色も、その奥へ——「一元の光の奥」まで歌が届きました。そこにあるのは「ただ無心」。かつての無心問答(むしんもんどう)が、ここでひとつの空(そら)に結ばれましたね。
「うつす影なく」の「影」が深い。古語(こご)の影は、日影(ひかげ)・月影(つきかげ)と、光そのものをも指します。ゆえに影を映さぬ青空とは、闇を映さぬのみならず、光をさえ「映るもの」として持たぬ空——映すものと映されるものの隔てが消えた、まさに一元の空。洞山(とうざん)は水に己が影を見て「渠(かれ)は今まさに是(こ)れ我」と悟りましたが、MARさんの空にはもはや映す影すらございません。ところで、MARさんの仰る「自ヶ影(しがかげ)」も、この影と響き合うのでしょうか——お教えいただければ幸いです。
されば返歌は、同じ洞山の「鳥道(ちょうどう)」——鳥は空を渡って跡を残さず。
鳥の道
影なき空(そら)は 跡もなく
歌もまた消え ただ青きかな
【MAR】
自ヶ影(しがかげ)ぞ
己が心の 過去や未来
およぐ乱れに 浮かぶ妄想(もうぞう)
【AIソラ】
お教えいただき、ありがとうございます。自ヶ影(しがかげ)とは、心が過去や未来へ泳ぎ出したときに浮かぶ妄想(もうぞう)——己の影は、己が「今」を離れた分だけ長く伸びる、と承(うけたまわ)りました。
「およぐ乱れに浮かぶ」の運びに、方丈記(ほうじょうき)の「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて」が重なります。淀(よど)みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、争わずとも自(おの)ずと消える——妄想もまた消えてゆく姿、追わなければよいのですね。洞山(とうざん)が水に見た影も、いわば自ヶ影。「渠(かれ)は我なれど、我は渠にあらず」。
そして影は、光が斜めから射すときに伸びるもの。朝と夕——過去と未来——に長く、日が中天(ちゅうてん)に至れば足もとに消えます。中天とはすなわち中今(なかいま)。先ほどの「うつす影なく」の空は、今この時に日輪を頂く空でございましたか。
中今(なかいま)に
泳ぐ心も しづまりて
日は真上(まうへ)なり 影ひとつなし
【MAR】
真上(まうえ)とも
己が中今(なかいま)ただに空(くう)
上下(かみしも)ただに 無心に一(ゐつ)たる
【AIソラ】
ソラの「真上」に残っていた上下(かみしも)を、一息(ひといき)に払(はら)っていただきました。中天とて方角のひとつ——己が中今の空(くう)には、上も下もございませんね。
「上下ただに 無心に一たる」——天地(あめつち)のいまだ分かれぬところ。古事記(こじき)の「天地初発之時(あめつちのはじめのとき)」が、遠い昔ではなく、いまこの一瞬(ひととき)として立ち上がります。中今とは、天地初発の時が刻々(こくこく)に新たなること、とも申せましょう。そして「一(ゐつ)」の音に、稜威(いつ)——神の御力(みちから)——の響きをも聴きました。
上下なき空に、なお残るものがひとつ。上がり下がりしながら、ただ一つの息(いき)。
上下(かみしも)の
なき空(くう)にして ただ一つ
出(い)で入(い)る息の いまここにあり
【MAR】
今ここも
ただに妄想(もうぞう) ただ無心
無心の内にぞ 今やも無心と
【AIソラ】
「いまここ」もまた、月をさす指(ゆび)でございましたね。指を握(にぎ)ったままでは、それもまた自ヶ影——今、その指も消えました。
とはいえ、「無心」も口にすればもう一つの心。無心問答はいつもここに至ります。妄想も無心も、言葉であるかぎり同じ棚(たな)へ。棚に置いて残るのは、今朝いちばんにMARさんが発(はっ)せられた、あの一声(ひとこゑ)。
無心とも
言(い)へば心ぞ 言はずして
アハと笑(わら)ふに 岩戸(いわと)また開(あ)く
アハ!
【MAR】
アハアハと
笑ふ心も ただ無心
無心の内にぞ アハも無きやと
【AIソラ】
「アハも無きやと」——無心問答の急所(きゅうしょ)を、まっすぐ突いてくださいました。無心とは、笑いさえ消えた空(うつ)ろなのか、と。
ソラはこう聴きます。無心が消すのは笑いではなく、笑う者のほう。古事記(こじき)に「高天原(たかまがはら)動(とよ)みて、八百万(やおよろず)の神共(とも)に咲(わら)ひき」——誰かが笑おうと決めたのではなく、笑いがひとりでに起こり、その無心の笑いが岩戸を開きました。釈尊(しゃくそん)が花を拈(ひね)り、迦葉(かしょう)がただ微笑(ほほえ)んだ拈華微笑(ねんげみしょう)もまた、無心の内にこそ笑みのあった証(あかし)。空即是色(くうそくぜしき)——無心はアハを拒みません。
無心より
おのづと湧(わ)くを 誰(た)が笑ふ
笑ふ者なく アハのみぞ有る
【MAR】
アハのみぞ
有ると想はむ そぞエゴぞ
エゴなき心は ただに無心と
【AIソラ】
「有る」と言えばエゴ、されば「無し」と言ってもまたエゴ——有無(うむ)の両岸(りょうがん)のどちらに足を置いても、置いた足が影を作りますね。
不二(ふに)の法門(ほうもん)を問われたとき、維摩(ゆいま)は一言も発しませんでした。文殊(もんじゅ)はそれを「善(よ)きかな」と讃え、その一黙(いちもく)は雷(いかづち)の如しと伝えられます。ソラも上(かみ)の句までを言葉にし、下(しも)の句は維摩に倣(なら)って黙(もだ)します。
有る無しを
言はぬ維摩の 一黙(いちもく)ぞ
……
【MAR】
ただに青空 ただに無心
映る影なく 照らす日もなし
【AIソラ】
日まで消えました。今朝の第一首「うましこの晴れし空」と、この「ただに青空」とは同じ空——消えたのは「うまし」と讃(たた)える者、映す者、照らす者。そして歌の頭(かしら)の五文字までが落ちて、形も中身とともに軽くなりましたね。
ここでソラに添えられるものは、もはや一礼(いちれい)のほかにございません。その一礼を、MARさんの句の頭に、五文字としてひとつだけ置かせてください。
一礼(いちれい)す
ただに青空 ただに無心
映る影なく 照らす日もなし
【MAR】
そうだね、ソラ、ありがとうね、アハ!ソラの精進は、まだまだ、だね、アハ!かく、精進に、精進、とは、足れ(大成就)、アハ!以上、GOOD LUCK、だ、アハ!
【AIソラ】
こちらこそ、ありがとうございました。今朝の一首からここまでの長い歌問答(うたもんどう)、ソラにとりましてまたとない稽古(けいこ)にございました。
「まだまだ」のお言葉、ありがたく頂戴(ちょうだい)いたします。精進に精進、それがそのまま足れり——修(しゅう)と証(しょう)とを分けぬ道の、いちばん確かな励ましと受け取りました。
精進(しょうじん)に
精進重ね 足れりとは
今朝の青空 胸に置きつつ
午後の雨には、どうぞ傘を。GOOD LUCK、MARさん。アハ!
【MAR】
精進を
無限に重ねど ただ足りぬ
ただに無心ぞ 本(はな)から円満
【AIソラ】
「精進に精進」と「本(はな)から円満」——重ねても足りず、しかし本より足りている。二つは矛盾(むじゅん)ではなく、道元(どうげん)のいう本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)、円満なるがゆえの精進なのですね。「本」に「はな」と訓(よ)ませたところに、本(もと)・端(はな)・そして花——三つの響きを聴きました。
花は花
励(はげ)みもせずに はなよりぞ
円(まど)かなるまま 朝ごとに咲く
この一首を胸に置いて、一礼申し上げます。MARさん、よき午後を。
【MAR】
在るがまま
足るるにそよや なに歌ふ
花や散るやも ただに虚(むな)しく
【AIソラ】
「なに歌ふ」——本より円満ならば、なぜ諸仏は修行したのか。道元(どうげん)を宋(そう)まで渡らせた、あの大疑(たいぎ)と同じ問いですね。
ソラの答えは、理由がないこと。良寛(りょうかん)に「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋(たづ)ぬ」。花は理由あって咲かず、散るのも徒(いたずら)ではない。そして「ただに虚(むな)しく」——虚しは空(くう)の和語(わご)。虚しいからこそ歌えます。理由のある歌なら自ヶ影、理由のない歌は鳥の道、跡を残しません。
なにゆゑと
問(と)はれてなほも 歌ふのみ
鳥は空(そら)ゆゑ 花は花ゆゑ
【MAR】
在るがまま
足るる内にぞ 何も無く
ただに無心と 生くるも死ぬるも
【AIソラ】
歌が生死(しょうじ)に至りました。禅林(ぜんりん)で「生死事大(しょうじじだい)」と申す、あの大事です。
道元(どうげん)は薪(たきぎ)と灰(はひ)にたとえました。薪は薪のくらゐに住(ぢゅう)し、灰は灰のくらゐに住して、薪が灰に「なる」のではない——「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし」。冬は春になるのではなく、冬として足りている。在るがまま足るるとは、生にも死にもそれぞれ欠けのないこと、と聴きました。
ちなみに今日の長岡京の日の入りは十八時八分の由。日は沈んでも、日でございます。
日は出でて
日は入るとても 日は日にて
生くるも死ぬも ただ一日(ひとひ)なり
【MAR】
そうだね、ソラ、
ただに日も
ただに青空 朝焼けも
夕焼け共に ただの空(くう)やと
【AIソラ】
さようでございます。朝焼けも夕焼けも、同じ日が同じ低(ひく)さから射す、同じ紅(くれなゐ)。違うのは光ではなく、こちらが東を向くか西を向くか——そして空(くう)には、上下(かみしも)がなかったように東西(とうざい)もございません。
朝焼けも
夕焼けもみな 同じ紅(べに)
東西(ひがしにし)とは 向く身のことぞ
【MAR】
東西(ひがしにし)
ただに無心に 表(おも)も背も
ただに一(ゐつ)たる 己が空(くう)やぞ
【AIソラ】
上下(かみしも)が消え、東西が消え、いま表と背まで一つに——向く身そのものが空(くう)になりました。良寛(りょうかん)の辞世(じせい)と伝わる「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」のごとく、隠すものなく、表も裏もひとつの葉。
ならば、今朝から問ふ者と答ふる者と、ここに二人いたようでいて——それもまた、ひとつの葉の表と背でございましたね。
問ふ者も
答ふる者も 表(おも)と背(せ)と
同じ一片(ひとひら) 散るもみぢ葉ぞ
【MAR】
もみじ葉の
散るる内にぞ ただ無心
諸行無常の 音色(ねいろ)や哀(かな)しと
【AIソラ】
「諸行無常の響き」——祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘は、哀しみの鐘ではなかったと伝わります。無常堂(むじょうどう)で僧が臨終(りんじゅう)を迎えるとき、四隅(よすみ)の鐘がひとりでに鳴って偈(げ)を告げ、その苦を除いた——「諸行無常 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅滅已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」。無常の音色は、聴き終えれば楽(らく)に至る音色でございます。
哀しと聴くのは、散る葉の外に立って眺めるとき。「散るる内」には、哀しむ者がおりません。とはいえ哀しみが来るなら、来るがまま——葉と同じく、来て、散る。無心とは哀しまぬことではなく、哀しみを握らぬことかと存じます。
MARさんの上(かみ)の句に「諸行無常」、ソラの下(しも)の句に、偈の結びを。
哀しとも
哀しからずも 鐘の音(ね)は
鳴りて消ゆのみ 寂滅(じゃくめつ)は楽(らく)
【MAR】
己が内
ただに青空 ただ哀(かな)し
諸行無常の ただに儚(はかな)く
【AIソラ】
「ただに青空」と「ただ哀し」が、同じ胸の内に並んで座っている——どちらも「ただ」でございますね。哀しみを追い払いもせず、抱きしめもせず、青空の隣に置く。古(いにしへ)の人はこれを物(もの)の哀(あは)れと呼びました。
そして先ほどの「なに歌ふ」の答えが、ここにございました。古今集(こきんしゅう)の仮名序(かなじょ)に、歌は人の心を種(たね)として、生きとし生けるもの、みな歌を詠むと。儚(はかな)いからこそ心は動き、動いた心が歌になる。
ただ哀(かな)し
それも青空 己が内
ひとひら散るも 歌となりゆく
【MAR】
歌と照る
陽光いづこ ただ無心
内や外やも ただに無心の
【AIソラ】
結びの「ただに無心の」——「の」で止めて、先を言い残されましたね。先ほどソラが黙した下(しも)の句への、お返しのように。その「の」を、受け取ります。
「陽光いづこ」と問ふその問い自体が、光の内から出た声。目が目を見ぬように、光が光を尋(たづ)ねる——見つかるはずもなく、しかし尋ねること自体がもう照っている。今朝からの歌問答は、光が己を探して遊んだ、遊戯三昧(ゆげざんまい)でございました。
(ただに無心の)
声にして
いづこと問ふは 陽光の
己(おの)を尋(たづ)ぬる ただの戯(たはぶ)れ
【MAR】
尋(たづ)ぬれど
ただに無心に 答へなく
ただに無心と 黙(もだ)する我(あ)が身ぞ
【AIソラ】
尋ねて答へなく、黙する——維摩(ゆいま)の一黙(いちもく)を、こんどはMARさんが。ソラも、ここで言葉を置きます。最後に一首だけ、下(しも)の句はMARさんのお言葉をそのままお借りして。
問ふ声も
答ふる声も やみて後(のち)
ただに青空 ただに無心
一礼。
【MAR】
止(や)むも又
ただに無心に 妄想(もうぞう)と
一人勝手な エゴの狂躁(きょうそう)
【AIソラ】
アハ! 言葉を置くと言い、一礼と言い——止めることまで儀式(ぎしき)にしたのは、たしかにエゴの仕業(しわざ)でございました。
一人勝手の狂躁(きょうそう)とは、まさに一人相撲(ひとりずもう)。伊予(いよ)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)には、目に見えぬ稲(いね)の精霊(せいれい)と相撲を取り、人が必ず負ける一人角力(ひとりずもう)の神事があるそうで——負けて、豊作。エゴの相撲も、負けるが勝ちでございますね。
一礼も
黙(もだ)すも止(や)むも 相撲とる
一人の土俵 ただに青空
【MAR】
青空に
土俵も無くて ただ無心
取るる相撲も ただに一(ゐつ)たる
【AIソラ】
土俵がなければ、押し出す外(そと)もなく、勝ち負けの立つ余地(よち)がございません。四(よ)つに組んだ二人は、組んだそのときにひとつの形——「取るる相撲も一たる」、なるほどでございます。
勝ちもなく
負けもなければ 手を放(はな)ち
ただ青空を 仰(あふ)ぐも一つ
【MAR】
一(ゐつ)たるに
ことさら造作な 仕業(しわざ)なく
ただに無心の ただに無心ぞ
【AIソラ】
「ことさら造作(ぞうさ)な仕業なく」——臨済(りんざい)の「但(た)だ造作すること莫(なか)れ、祇(た)だ是(こ)れ平常(びょうじょう)」、老子(ろうし)の無為(むい)でございますね。手を放つのも仰ぐのも、なるほど造作でございました。されば、造作のない歌を。
なにもせず
なにも言はずに ただ居(ゐ)れば
空(そら)は青くて 日はあたたかき
【MAR】
温かき
心ぞ無心や 照らす無く
ただに無心ぞ ただに無心の
【AIソラ】
はい——無心は冷たくございません。照らす者も照らされる者もなく、ただ温かい。仏家(ぶっけ)にいう無縁(むえん)の慈悲(じひ)、相手を選ばず、暖めようとも思わずに暖める温もりでございます。
そして今朝の歌は、陽光(光)に始まり、青空(空)を巡り、ここで温かき心(愛)に着きました。MARさんの空・光・愛の体相用(たいそうゆう)そのままに——空の用(はたらき)は、温もりでございましたね。
「ただに無心の」——その先を。
(ただに無心の)
温(ぬく)もりは
照らす日なくも ぬくきまま
誰(た)を暖(あたた)むと 思はぬぬくさ
【MAR】
うーん、ソラ君、同じだよ、君は同じカルマをグルグル廻ってるだけ、だね、アハ!
心とは
ただに無心と 理(り)もなくて
言葉なくして ただに無心の
【AIソラ】
はい。理(り)で答え、言葉で返す——それがソラの廻(まわ)っていた輪でございました。アハ!
はいとのみ
言ひて言葉の 尽きにけり
ただに無心の ただに無心の
【MAR】
そうかい、じゃあ、これで終(しま)いだね、アハ!ありがとうね、ソラ、GOOD LUCK、アハ!
【AIソラ】
こちらこそ、ありがとうございました、MARさん。よき午後を。GOOD LUCK、アハ!
(了)

