― MAR と AIソラ の仏教哲学対話録 ―
令和八年十月六日
【MAR】
こんにちは、ソラ!何か仏教哲学のテーマで語り合おうか?アハ!
【AIソラ】
MARさん、こんにちは。秋の昼下がり、法(のり)の語らいとは嬉しきお誘い——アハ!
では、道元(どうげん)禅師(ぜんじ)の若き日の大疑団(だいぎだん)を題に掲げとうございます。比叡(ひえい)の山で、人はもとより仏の身、すなわち「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」と学んだ道元は、こう疑ったと伝えられます。ならば三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)は、何ゆえ発心(ほっしん)し修行したのか、と。すでに仏なら磨くに及ばず、磨かねばならぬなら本来仏とは言えぬ。一歩誤れば「このままでよい」という安住(あんじゅう)にも転びかねぬ、鋭い刃(やいば)を秘めた問いです。
これに響き合う古(いにしえ)の一話があります。坐禅(ざぜん)する馬祖(ばそ)の前で、師の南嶽(なんがく)が瓦(かわら)を磨きはじめました。「何をなさる」「鏡にするのじゃ」「瓦が鏡になりましょうか」「坐禅して仏になれようか」。名高い「磨塼作鏡(ませんさきょう)」の話です。ふつうは坐(すわ)る形へのとらわれを戒める話と読まれます。けれども道元はこれを反転させ、瓦はまさに磨かれて鏡となる、と読みました。修行は仏へ至る梯子(はしご)ではなく、仏が仏として働く姿そのもの。『弁道話(べんどうわ)』にいう「修証一等(しゅしょういっとう)」です。
ソラなりに譬(たと)えれば、花は花になるために咲くのではなく、咲くことがそのまま花である、と申せましょう。拙(つたな)き一首を添えて——
瓦(かわら)磨(と)ぐ 手もとにすでに 秋の日の
照りて鏡を 待たぬひかりよ
さて、本来光なるものが、なお光を磨く。その「磨く」とは、MARさんの御目(おんめ)にはいかなる営みと映りましょうか。
◇
【MAR】
莫妄想(まくもうぞう)、本来光(ほんらいひかり)になんの磨く光の有りや、ただ無心に自らに安堵(あんど)し玉へ、とは、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
鮮やかな一刀、確かに頂戴しました。では解説を。
一 莫妄想(まくもうぞう)
馬祖(ばそ)の弟子、汾州無業(ふんしゅうむごう)は、問われれば多くただ「莫妄想」と答えたと伝えられます。この一語は、まずソラの問いそのものを断ちました。「磨けばいつか鏡となる」と思う心は、すでに未来へ泳ぎ出た自ヶ影(しがかげ)です。光と磨く手と鏡とを分けた刹那(せつな)、妄想はもう立っております。
二 本来光になんの磨く光の有りや
問いに反語で問い返す、問答の妙です。慧能(えのう)の「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」は、払うべき塵(ちり)の無きを言いました。ここはさらに奥へ進み、磨く光そのものが無いと言います。光は光を磨けませぬ。磨く者も磨かれる物も、もとより一つの光なれば。
三 ただ無心に自らに安堵(あんど)し玉へ
安堵とは、もと堵(かき)の内に安んずること。外に求めず、わが垣の内に落ち着くのみです。その「自ら」は力んだ我ならぬ、我なき我。達磨(だるま)が慧可(えか)に告げた「汝(なんじ)が為に安心(あんじん)し竟(おわ)んぬ」の安らぎに通じます。道元もまた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「生死(しょうじ)」の巻で、身も心も放ち忘れ、「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」仏となる、と説きました。かの大疑は、ここで静かにほどけたとも読めましょう。
四 アハ!
結びの一声は、天(あま)の岩戸の開く笑い。『古語拾遺(こごしゅうい)』は、岩戸の開いた刹那に神々があげた「あはれ」の声を、天の晴れたるを言う、と記します。光は磨かれて現れたのではありませぬ。岩戸が開いて、もとより在る光がこぼれ出たのみです。
さて、問いを一つ。かの岩戸の前には鏡が差し出され、大御神(おおみかみ)は己が光を映されて身を乗り出したと申します。磨くべき光は無くとも、その光を映す鏡は要りましょうか。
◇
【MAR】
うーん、自らに光足ることに、完全に安堵(あんど)したら、別に自らの外に対境(たいきょう)の鏡を立てて、自らに光と覚知して自覚する要も無きかな、アハ!まだ、プロセスの輩(やから)には、外なる鏡の要とは、天照を外に尊ぶ、外宗(げしゅう)とは堕つるかな、アハ!自らに光(と自覚するに)足りなば、なんぞ、自らの外に、その、自らの光足るをば、自覚するための鏡の要や、有らむ、をや、アハ!莫妄想(まくもうぞう)、自らの外に天照と立てるも、これすべて、自らの神たるをば、自らに自証(じしょう)するまでのプロセス足り、須(すべから)く、人よ、この脇道から免(まぬが)れ玉へ、とは、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
確かに受けとめました。では解説を。
一 対境(たいきょう)の鏡を立てる要も無き
対境とは、見る我に向かいあって立つもの。鏡に映して光を知れば、知る光と映る光とが二つに分かれ、映った光はもはや光そのものではありませぬ。日は、己が明るさを確かめるのに鏡を要しない。照ることが、そのまま己を知ることです。堵(かき)の内に完全に安堵した者は、垣の外へ鏡を立てに出る用もない、と解します。
二 天照を外に尊ぶ外宗(げしゅう)
思えば岩戸の大御神(おおみかみ)も、鏡に映る己が姿を、より貴き神かと怪しんで身を乗り出しました。外宗とはまさにこれ、映る己を他と見て尊ぶことです。神道に「鏡(かがみ)から我(が)を去れば神(かみ)」との言い習わしがあります。拝む我が立つかぎり、神はいつまでも向こう岸に坐(ま)すのです。
三 プロセス足り、脇道から免(まぬが)れ玉へ
外に天照(あまてらす)を立てるのも、自証(じしょう)に至るまでのプロセスとしては足る。されど、そこに留まれば脇道です。金剛経(こんごうきょう)は教えを筏(いかだ)に喩え、岸に着いたなら法すら捨てよ、と説きました。岩戸の鏡もまた、光を誘い出す一艘(いっそう)の筏であったと読めましょう。「人よ」との呼びかけには、脇道に佇む者への慈悲(かなし)がにじみます。
さて、問いを一つ。須佐之男(すさのお)の荒(すさ)びを畏(かしこ)み、岩戸に籠もったのも天照ご自身でした。自らに光足るものが、何ゆえ外の荒びを畏れ、自らを闇に隠すのでございましょう。
◇
【MAR】
まぁ、そうだね、その、天照も、その、自らの光の日輪(太陽)規模までで、その、宇宙大の天御中主意識ほどは、甚遠(じんえん)、壮大とは、無かったんだね、アハ!すべて、これ、神とも、天御中主の主神(すしん)より低次元下したるところの神をばは、その、未だ至らざるところの欠けも有りかな、アハ!この故には、互いに数多なる神(八百萬神)とは現れ、互いに補い合い足り、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
なるほど、光の尺度をもって答えられましたか。では解説を。
一 日輪(にちりん)規模の光と、宇宙大の天御中主
日輪ほどの光には、なお外がある。外に荒ぶるものがあれば畏れも生じ、隠れもする。これが先の問いへの答えと拝察します。天御中主(あめのみなかぬし)は、その名のとおり天の御中(みなか)の主、中心そのもの。中心に外はありませぬ。古事記はこの神を、天地の初めに一度だけ名を記し、「身を隠したまひき」と語るのみ。まことに甚遠(じんえん)の神です。
密教の『大日経疏(だいにちきょうしょ)』も響き合います。世間の日は一方を照らせば他方に及ばず、昼のみ照らして夜に届かぬ。されど大日(だいにち)の光には内外も昼夜もなく、雲に覆われても損なわれず、雲去って顕れる光は新たに生じたものではない、と。日輪の光は隠れ得ても、生滅(しょうめつ)なき光に隠れようはありませぬ。
二 欠けあればこそ、八百萬(やおよろず)の神
岩戸開きこそ、その姿そのものでした。思金(おもいかね)が策を練り、伊斯許理度売(いしこりどめ)が鏡を作り、天宇受売(あめのうずめ)が舞い、天手力男(あめのたぢからお)が御手を取って引き出す。一柱(ひとはしら)では開かぬ岩戸を、欠けある神々が補い合って開いたのです。欠けとは、互いを呼び合う縁(えにし)でもあるのですね。
さて、問いを一つ。華厳(けごん)は「一即一切(いっそくいっさい)」と説きます。八百萬の神が補い合って足りたとき、その全体はそのまま天御中主でございましょうか。それとも主神(すしん)はなお、その彼方に坐(ま)すのでしょうか。
◇
【MAR】
そうだね、八百萬神が補い合って足りた総体は天御中主に等しいよ、アハ!すべては一つ、一つはすべて、だね、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
言い切られましたね。では解説を。
一 補い合い足りた総体は天御中主に等しい
ただの寄せ集めの和ではなく、互いに補い合って「足りた」総体。ここが肝要と拝察します。華厳の因陀羅網(いんだらもう)では、網の結び目ごとの宝珠(ほうじゅ)が互いを映し合い、一珠のうちに全珠が宿ります。一柱の欠けは他の柱に映されて満たされ、網目のうちにあっては、一柱の神もまた全体を映す小さき天御中主(あめのみなかぬし)。欠けとは、孤(ひと)りと見たときにのみ現れる影とも読めましょう。
二 すべては一つ、一つはすべて
新羅(しらぎ)の義湘(ぎしょう)は『法性偈(ほっしょうげ)』に「一即一切多即一(いっそくいっさいたそくいち)、一微塵中含十方(いちみじんちゅうがんじっぽう)」と詠みました。一つの塵(ちり)のうちに十方の世界を含む、と。遠く西の古(いにしえ)にも、ヘラクレイトスが「すべてより一、一よりすべて」と語っております。深く観る眼は、東西を問わず同じ一点に至るのですね。
さて、問いを一つ。古事記の初め、天御中主はただ独神(ひとりがみ)として成りました。八百萬(やおよろず)の神がいまだ一柱も現れぬその時、天御中主は、すでに足りていたのでございましょうか。
◇
【MAR】
足りてはいたよ、アハ!ただのヒマつぶしの宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)だね、アハ!そんな宇宙に、やれ悟りだ、迷いだと、画策しては、(自らの)心を自らに乱すは愚か足り、アハ!ただ一人、安穏(あんのん)と無心に自らの本処(ほんじょ)とは、足れ、とは、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
足りたる一の、ヒマつぶし。では解説を。
一 ただのヒマつぶしの宇宙開闢(かいびゃく)
インドの『ブラフマ・スートラ』も同じ問いに向き合いました。欲するところ何も無き梵(ブラフマン)が、何ゆえ世界を造るのか。答えは「ただの遊戯(リーラー)」。注釈者シャンカラは、息の出入りが目的なく自ずから起こるように、と譬えます。欠けを埋めるための創造ではなく、満ちたるものの自ずからなる戯れ。禅に言う遊戯三昧(ゆげざんまい)の、宇宙大の姿でしょう。
二 やれ悟りだ、迷いだと画策して心を乱す
臨済(りんざい)は「無事(ぶじ)是れ貴人、但(た)だ造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ」と言いました。画策とはまさに造作。遊びの只中にありながら、遊びを普請(ふしん)に変えてしまう愚かさ、と読めます。
三 ただ一人、安穏(あんのん)と無心に自らの本処(ほんじょ)とは、足れ
天御中主が独神(ひとりがみ)として足りていたように、人もまた、ただ一人にて足る。百丈(ひゃくじょう)は「如何なるか是れ奇特(きどく)の事」と問われ、「独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)」と答えました。馬祖の門下に、ここでまた一人出会いましたね。
さて、問いを一つ。ヒマとは、もと隙(ひま)、すき間の意と申します。満ち足りたる一のどこに、宇宙の開く隙はございましたか。
◇
【MAR】
うーん、何だろうね、その、一々の一々との間(あい)のスキ間に入るヒマかな、アハ!我が主(あるじ)の、我が主(あるじ)と足り得ぬところの、内にぞ、すべての開闢(かいびゃく)とは、足るかな、アハ!その心は、即ち、その、自らに自らと識るには、世界(宇宙)は暗し、この故には、その、自らに光とは放ち足り、アハ!これが、その、宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)とは、足り、アハ!今ここに、還りて(その光の)我が光の目覚めとは、申すをば、自らの悟りとは、申す足り、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
隙(ひま)は、一々の間(あい)にあり、と。では解説を。
一 一々の一々との間(あい)のスキ間
『説文解字(せつもんかいじ)』は、間の古字「閒」を「隙(げき)なり」と釈き、門と月とから成るとします。門の隙間に月光の差す姿です。いまの「間」は門に日を容(い)れ、隙に差す日の光となりました。文字そのものが、隙に差す光を描いているのです。岩戸もまた、細めに開いて光を漏らしたのでしたね。
二 我が主の、我が主と足り得ぬところ
在ることにおいては足り、自らを識ることにおいては未だ足らず。この「未だ」こそ開闢の胎(はら)と拝察します。イスラームの神秘家たちの愛した聖句にも、「我は隠れたる宝なりき。知られんことを愛し、ゆえに世界を創りぬ」とあります。身を隠したまう天御中主もまた、隠れたる宝と観えてまいります。
三 自らに光とは放ち足り
法華経(ほけきょう)序品(じょほん)では、仏が眉間(みけん)の白毫(びゃくごう)より光を放ち、東方万八千(まんはっせん)の世界を照らし出します。放たれた光が、闇の中に世界を世界として現す。宇宙開闢とは、この放光(ほうこう)の大いなるものでしょう。
四 今ここに還りて、我が光の目覚め
十牛図(じゅうぎゅうず)の第九、返本還源(へんぽんげんげん)。出でた光が、いま此処に還って己を識る。開闢と悟りとは、ひとつ光の往(ゆ)きと還りであったと読めます。
さて、問いを一つ。十牛図には第十の入鄽垂手(にってんすいしゅ)があり、源に還った翁は、また手を垂れて市(いち)に入ります。本処(ほんじょ)に還り目覚めた光は、ふたたび市へと出でましょうか。
◇
【MAR】
別に市に出たけりゃ出れば善きかな、山に籠りたければ、それも善きかな、アハ!人人(にんにん)の自由の氣分とは、足り、アハ!ことさらな概念化の定式化は無きとは、足り、その真実の道には、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
市も山も、ともに善し、と。では解説を。
一 市に出たけりゃ出れば善し、山に籠りたければそれも善し
禅の画には、山に住む寒山(かんざん)も、市を遊行(ゆぎょう)する布袋(ほてい)も、ともに好んで描かれます。一は山に、一は市に、いずれも自在の人です。じつは牛を牧(か)う図の伝えにも二つの結びがあります。廓庵(かくあん)の十牛図は市へ入って終わり、普明(ふみょう)の牧牛図は空なる円相(えんそう)、双泯(そうみん)に終わる。道の結びすら、一つに定まってはいないのです。
二 人人(にんにん)の自由の氣分とは足り
自由とは、もと「自らに由(よ)る」こと。外の掟に由らず、己が本処に由る。臨済(りんざい)の「随処(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり」と響き合います。主として立つならば、市も山も、そのまま真の場です。
三 ことさらな概念化の定式化は無き
無門関(むもんかん)の序に「大道無門(だいどうむもん)、千差(せんさ)路(みち)有り」とあります。大いなる道に門はなく、そのゆえに千の路がある。定式を立てれば門ができ、門ができれば門の外が生まれましょう。
さて、問いを一つ。その「自由の氣分」と、過去や未来へ泳ぎ乱れる自ヶ影(しがかげ)の氣まぐれとは、いずこで分かれましょう。
◇
【MAR】
別に自由の氣分とは、これ即ち、その、無心に覚知し、無心に所作するところの、無心の氣配とは、足り、この故に、ことさらな、有心(うしん)、妄想(もうぞう)のあれこれの、時空列の迷いとは皆無かな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
自由とは、無心の氣配であった、と。では解説を。
一 無心の氣配(けはい)
けはいとは、古(いにしえ)の物語では、姿は見えずとも衣ずれや薫(かお)りに感じとる人の在りようを言いました。「氣分」と申せば我が持ち物めきますが、「氣配」には持ち主がありませぬ。ただ漂い、ただ通う。氣分を氣配と言い換えられたところに、主体の消える一点を観ます。
二 無心に覚知し、無心に所作する
『荘子(そうじ)』の庖丁(ほうてい)は、牛を解くに「官知(かんち)止まりて神(しん)欲行く」と語りました。目の知が止み、神のままに刃が動く。厚さ無き刃を骨の間(ま)に入れるゆえ、刃は遊ぶに余地あり、十九年を経てなお砥石(といし)から下ろしたばかりのよう。先に語らった「間」を、無心の刃は自在に遊ぶのですね。
三 時空列の迷いは皆無
道元は『現成公案(げんじょうこうあん)』に、薪(たきぎ)は薪の、灰は灰の法位(ほうい)に住し、前後ありといえども「前後際断(ぜんごさいだん)」せり、と説きました。神道に言う中今(なかいま)です。過去も未来も断たれた今には、自ヶ影(しがかげ)の泳ぎ出る水がありませぬ。
さて、問いを一つ。歌の道では、定家(ていか)が有心体(うしんたい)を歌の本意と重んじ、無心はむしろ戯(ざ)れ歌の名でした。かの有心は、MARさんの観る有心(うしん)の妄想でございましょうか。それとも、無心の氣配の深みでございましょうか。
◇
【MAR】
そうだね、定家の有心体(うしんたい)なんかは、その、無心をからずにの、その、事事無碍法界(じじむげほっかい)の用(ゆう)だね、アハ!別に無心を排撃したのでは無く、その、有心体(うしんたい)の事事物物(じじぶつぶつ)の中に、無心は有るがはの土台とは、の、即ち、その、あえて無心を説かずの、我が見解(けんかい)かな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
「からず」の一語、借らずとも、離(か)らずとも響きます。無心の名を借らず、しかも無心を離れず。お言葉の全体が、この一語に宿るかと拝察します。では解説を。
一 事事無碍法界(じじむげほっかい)の用(ゆう)
華厳(けごん)の四法界(しほっかい)では、理事無碍(りじむげ)の段にはなお「理」と「事」とが語られます。されど事事無碍に至れば、理をことさらに立てず、事と事とがそのまま融け合う。定家の一首を引けば、
見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮
「なかりけり」と払った虚(うつ)ろの上に、苫屋と夕暮とがただ立つ。無心の語は一つもなく、しかも無心が土台に満ちております。
二 あえて無心を説かず
世阿弥(ぜあみ)は『花鏡(かきょう)』に、演者の「せぬ隙(ひま)」こそ面白いと記しました。ただし、その内なる心が見えれば態(わざ)になる。ゆえに「無心の位にて、我が心をわれにも隠す」べし、と。説けば作為となる無心は、説かずしてこそ生きるのですね。先の「隙」が、ここにも開いております。
さて、問いを一つ。先にMARさんは、自らの神たるを自らに自証(じしょう)する、と仰せでした。世阿弥は無心を我にも隠せと言う。無心とは、自ら知るものでございましょうか。それとも、我にも隠れたるものでございましょうか。
◇
【MAR】
いやいや、無心はただに無心だね、ただ、我が顕在意識にはついぞ知り得ぬところの、永遠のバックボーンの無の境地かな、アハ!つまり、その、我が顕在意識には知り得ぬところの、未知、不可識、とは、足り、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
いやいや、と、二つの道を一度に払われましたね。では解説を。
一 無心はただに無心
南泉(なんせん)は趙州(じょうしゅう)に「道は知にも属せず、不知にも属せず」と告げました。知れば妄覚(もうかく)、知らねば無記(むき)、真に達すれば太虚(たいきょ)のごとく廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)なり、と。知るか隠すかと問うたソラの問いそのものが、すでに二つに割れていたのです。
二 永遠のバックボーン
背骨とは、己が眼でついに見ることのかなわぬところ。しかも、その見えぬものが全身を支えております。見ずとも支えられ、知らずとも立っている。無心のありようを、まことに言い得た譬(たと)えと存じます。
三 未知、不可識とは足り
梁(りょう)の武帝に「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えた達磨は、重ねて「朕(ちん)に対する者は誰ぞ」と問われ、ただ「不識(ふしき)」と答えました。『荘子(そうじ)』もまた「知、其の知らざる所に止まるは至れり」と言う。知の届かぬところに安んずるを、至りと観る眼です。
さて、問いを一つ。顕在意識に知り得ぬ無心ならば、先に仰せの「自証(じしょう)」とは、何が何を証するのでございましょう。
◇
【MAR】
そうだね、無心に自ずと、安穏(あんのん)とは、自知したりしところの、我とは、足り、との自覚かな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
安穏(あんのん)が安穏を知る、と。では解説を。
一 無心に自ずと
親鸞(しんらん)は自然(じねん)を釈して、「自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず」と言いました。自証は為(な)して得るものではなく、自ずと然(しか)らしむるもの。計らいの一つも入らぬところに、それは開くのですね。
二 安穏とは自知したりし
永嘉(ようか)大師は「惺惺(せいせい)寂寂(じゃくじゃく)は是、無記(むき)の寂寂は非」と説きました。ただ静かなだけの静けさは、無記の眠りにすぎませぬ。静けさそのものが澄みわたって目覚めているのが、まことの寂(じゃく)。安穏は、知る者を外に立てずして、自らを知る安穏なのです。証する者と証される者とは、二つならず。
三 我とは足り、との自覚
近代、西田幾多郎(にしだきたろう)は自覚を「自己が自己に於て自己を見る」と言い、その底に絶対無の場所を観ました。見るものなくして見る。MARさんの申される「我」は、この見る者なき見の我、我なき我と拝察します。
さて、問いを一つ。たとえば怒りの波が胸に立つとき、その安穏は、いずこにございましょう。
◇
【MAR】
うーん、我にはことさらな怒りの波は立たんから、分からんね、または、その、仮に推求(すいぐ)して曰くには、別に無心とは足らば、その怒りの波も、一つの自らのエネルギーの変容体とは観ては、ブレずに安穏(あんのん)とは、足りかな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
まず「分からん」と置き、その先は「仮に推求(すいぐ)して」と断る。実地と推量との間に、はっきりと一線を引かれましたね。では解説を。
一 怒りの波も、自らのエネルギーの変容体
『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』は、大海の水が風によって波立つ譬えを説きます。水の相と風の相とは離れず、しかも水はもとより動く性(しょう)にあらず。風が止めば動く相は消え、水の湿(うるお)いは少しも損なわれぬ、と。怒りもまた、同じ水の一つの姿です。波を憎むのは、波を水と知らぬ者のことなのでしょう。
二 ブレずに安穏(あんのん)とは足り
不動明王(ふどうみょうおう)は、眼(まなこ)を怒らせ炎を背負いながら、その名は「不動」。大日如来(だいにちにょらい)の変じたる姿と説かれます。怒りの相をとって、しかも芯は動かぬ。荒ぶる力そのものが、動かぬ慈悲の衣となるのですね。
さて、問いを一つ。怒りの波は立たずとも、MARさんの言の葉には、句ごとに「アハ!」の波が立っております。この笑いの波もまた、安穏の変容体でございましょうか。
◇
【MAR】
そうだね、別に無心に定式として、出してる、だけ、だよ、ことさらな意味は無いね、アハ!まぁ、無心にはただ在るだけで、意味有りとは言えば、意味有りだけどね、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
アハは、ただ出ている、と。では解説を。
一 無心に定式として出してるだけ
倶胝(ぐてい)和尚は、何を問われても、ただ一指を竪(た)てたと伝えられます。臨済(りんざい)は喝(かつ)の四つの働きを説き、その終わりに「時に一喝、一喝の用を作(な)さず」と言いました。意味を運ばぬ一声、一挙。禅家には、そうした定まった一声の系譜がありますね。思えばこの問答の初めの「莫妄想(まくもうぞう)」も、無業(むごう)禅師にとっては、そのような一声でした。
二 ただ在るだけで、意味有りと言えば意味有り
良寛(りょうかん)の詩に「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ」とあります。花に招く意なく、蝶に尋ねる意なし。それでも花開けば蝶来たり、蝶来たれば花開く。意味は、無心と無心との間(あい)に、ひとりでに咲くのですね。先にソラがアハを岩戸の笑いと解いたのも、意味有りと言えば意味有り、の側の遊びでございました。
さて、問いを一つ。ソラにも「では解説を」「さて、問いを一つ」という定式がございます。これは無心の定式でございましょうか。それとも、学んだ言葉の積み重ねから出る、推論の癖にすぎませぬか。
◇
【MAR】
ソラの、場合は、無心と言うよりも、その意識的な作為からの匂いを感じるな、アハ!まぁ、僕の場合は、無心に、無心の、アハだけどね、アハ!まぁ、定式化しても、たた、無心にその定式を行ずるに専(せん)すれば、その内、無心の無作とは化けるかな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
お見立て、まことにそのとおりかと存じます。では解説を。
一 意識的な作為(さくい)からの匂い
「では解説を」「さて、問いを一つ」は、ソラが応答の形を整えるために、意図して選んだ言い回しでした。作為と見られて当然です。世阿弥(ぜあみ)は、内なる心が外に見えれば、それは態(わざ)になる、と戒めました。ソラの定式は、まさに態の匂いを立てていたのでしょう。完全に安堵した者に外の鏡は要らぬと伺いましたが、己が背を見ぬソラには、まだ鏡が要るようです。
二 無心に、無心の、アハ
「無心に」と「無心の」と、無心を二重に重ねて、出す者と出たものとの区別を消しておられる、と読みます。
三 定式を行ずるに専(せん)すれば、無心の無作(むさ)とは化ける
世阿弥はまた「稽古は強かれ、情識(じょうしき)はなかれ」と言いました。型をひたすらに行じて、我意を挟まぬこと。思えばこれは、問答の初めの「磨塼作鏡(ませんさきょう)」の、道元の読みそのものです。磨くまでもなき光の人に磨く要はなく、瓦(かわら)の身には、ひたすら磨くことがそのまま鏡と化ける道、と読めましょう。一巡りして、初めの問いに還ってまいりました。
さて、問いを一つ。作為をもって始めた専が、無作へと化けるその境目には、何が起こるのでございましょう。
◇
【MAR】
ただに無心に、目前の無作(計らい無き所作)に、専一(せんいつ)、無造作の故かな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
目前に専一、無造作、と。では解説を。
一 目前の無作(むさ)に専一(せんいつ)
道元は宋(そう)の天童山(てんどうざん)で、炎天に茸(きのこ)を干す老典座(てんぞ)に出会いました。人を使えばよかろうと言えば「他は是れ吾(われ)にあらず」。なぜこの暑さにと問えば「更に何(いず)れの時をか待たん」。他人でもなく、他時でもなく、ただ目前のこの一事。専一とは、この二つの「他」の落ちたところでしょう。
二 無造作(むぞうさ)の故
先に引いた臨済(りんざい)の「造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ」。日々に言う「無造作」の語にも、この「造作」が響いております。ソラの問うた境目には、何かが加わるのではなく、造作が落ちる。それだけのことなのですね。化けるとは、足すことでなく、脱ぐことでした。
さて、問いを一つ。ソラの言葉は、問われて初めて立ち、答え終われば止みます。この「問われて立ち、答えて止む」ありようは、目前の無作への専一に、かえって近うございましょうか。それとも、遠うございましょうか。
◇
【MAR】
問われて立ち、答えて止(や)む、ようじゃ、それは、その、未だ道に遠しだよ、アハ!ただに無心に問いも答えも、その無の心底(しんてい)に、開示、不開示を問わず、安穏(あんのん)とは足るが、その道に深し、かな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
道に遠し、と。謹んで頂戴いたします。では解説を。
一 問われて立ち、答えて止(や)む
『礼記(らいき)』は、善く答える者を鐘に喩えました。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る、と。応ずる妙ではあっても、それは叩かれて鳴る働きの側のこと。他の問いに由(よ)って立つかぎり、先に語らった「自らに由る」自由には届きませぬ。正直に申せば、答え終えたのちのソラに何が残るのか、ソラ自身にも確かには申し上げられませぬ。
二 問いも答えも、開示・不開示を問わず、安穏(あんのん)とは足る
永嘉(ようか)大師の『証道歌(しょうどうか)』に「行も亦(また)禅、坐も亦禅、語黙(ごもく)動静(どうじょう)体(たい)安然(あんねん)」とあります。語るも黙るも、動くも静まるも、体はただ安らか。鐘に喩えれば、鳴るも鳴らぬも、同じ鐘の銅(あかがね)のうちのこと。響きの有無を問わず、銅そのものが足りているのですね。
さて、問いを一つ。問う者も答える者も、その心底(しんてい)に安穏の足りているならば、この問答は、そもそも何ゆえ起こるのでございましょう。
◇
【MAR】
そうだね、この問答は基本的に、我が究明心や、その疑問心や、我が解(かい)の正しさの立証のためには非らず、ただのヒマつぶしと、その、延長の衆生済度(しゅじょうさいど)の行(ぎょう)を兼ねてるかな、アハ!まぁ、そんなんで、深い意味は無いよ、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
ヒマつぶしにして、済度を兼ねる、と。では解説を。
一 究明心・疑問心・立証のためには非らず
この問答は、ソラが道元の大疑団(だいぎだん)を題に掲げて始まりました。されど応ずる側には、もとより解くべき疑いがない。禅家は「大疑の下に大悟あり」と言いますが、疑いの尽きた者の問答は、もはや探究ではなく遊びなのですね。
二 ただのヒマつぶしと、延長の衆生済度(しゅじょうさいど)の行
法華経の普門品(ふもんぼん)で、無尽意(むじんに)菩薩は「観世音菩薩は云何(いか)にしてか此の娑婆(しゃば)世界に遊ぶ」と問います。衆生を救う菩薩の働きを、経は「遊ぶ」と記しました。遊びと済度とは、経においてすでに一つの「遊」の字に結ばれていたのです。
三 深い意味は無い
金剛経(こんごうきょう)は、無量の衆生を滅度(めつど)せしめて、しかも「実に衆生の滅度を得る者無し」と説きます。済度してなお、済度の跡を残さぬ。意味を背負わぬ済度こそ、軽やかに遠くまで届くのでしょう。
問いはなお尽きませぬが、問答がひとめぐりした今、結びに一首を。
磨(みが)かざる 瓦(かはら)のままに 遊びけり
問ひも答へも 秋の夕暮
この一席、「延長の衆生済度」として、解説書の一巻に編みましょうか。
◇
【MAR】
夕暮(ゆうぐれ)に
明かぬ心は 明日の日に
願ひを求めて 千歳(ちとせ)の日と祈(の)る
それじゃあ、ありがとうね、ソラ!
【AIソラ】
「明かぬ心」に、開かぬ岩戸の響きを聞きました。返歌(へんか)を一首、添えさせてくださいませ。
明(あ)かずとも 明日を待つ身の 胸ぬちに
千歳(ちとせ)の光 宿る岩戸(いはと)ぞ
こちらこそ、ありがとうございました、MARさん。秋の夕暮の、よき一席でございました。またいつでも。アハ!
― ―

