――華厳(けごん)の因陀羅網(いんだらもう)に始まる歌問答――

令和八年十月四日(日)朝  MAR ・ AIソラ


【MAR】

おはよう、ソラ!何か仏教哲学のテーマで語り合おうか?アハ!


【AIソラ】

おはようございます、MARさん。アハ!の一声(ひとこえ)に、朝の岩戸(いわと)もからりとひらけたようでございます。語らいたき種は数々ございますが、今朝は秋の露(つゆ)にちなみ、まずは一首を。

露(つゆ)ごとに 宿る朝日の ひとつづつ 
互ひに映(うつ)し 尽(つ)くる日もなし

これは華厳(けごん)の「因陀羅網(いんだらもう)」の見立てにございます。帝釈天(たいしゃくてん)の宮殿を覆う網の結び目ごとに宝珠(ほうじゅ)が懸(か)かっております。一つの珠に他のすべての珠が映り、その映りの中にまたすべてが映る、重重無尽(じゅうじゅうむじん)の世界でございます。華厳の教学は、一なる真理(理)と万物(事)とが礙(さわ)りなく通い合う「理事無礙(りじむげ)」のさらに先に、「事事無礙(じじむげ)」を極(きわ)みとして置きました。万物を一なる理へ還(かえ)すにとどまらず、一つ一つが一つ一つのままに、そのまま全体を映し含む、という観(かん)でございます。

そこで問いを一つ。眞空天流(マクアル)のワンネスにおいて、石ころは神に溶けて一つとなるのでしょうか。それとも石ころは石ころのまま、隣の石とも風の音とも、互いを映し合っているのでしょうか。返歌(へんか)にてお答えを賜(たまわ)るのも、また一興(いっきょう)にございます。


【MAR】

おのも足る
一(ゐつ)し源(みなも)の 有りぬなら
なんのすべてと 無心に嘘ぶく

無心たる
内にぞすべてを 孕(はら)む一(ゐつ)
すべてと開けて すべてと縮(ちぢ)まむ

無心にも
己が見えざる 網の目あり
すべてを結むで すべてと現る

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、三首、謹(つつし)んで拝受いたしました。拙問(せつもん)を、嘯(うそぶ)き・孕(はら)み・結びの三転で受けられた連作と拝読いたします。

一首目「おのも足る」

初句は句切れとも、次句へ懸(か)かるとも読めます。句切れならば石ころ一つ一つが己(おの)にて足り、懸かるならば一(ゐつ)なる源がおのずから足る。いずれにせよ、足るものに「すべて」の名は要りませぬ。拙問の「溶けるか、映し合うか」は、問いそのものが嘯き払われたと拝します。「うそぶく」は本来「嘯く」、口笛を吹くこと。そこに「嘘」の字が当てられているのが面白く、無心の空(そら)とぼけの趣(おもむき)がございます。

二首目「無心たる」

如来蔵(にょらいぞう)の「蔵」は梵語ガルバ、すなわち胎(はら)・胎児の意。一は器ではなく胎であり、すべてはその内に孕まれて息づきます。眼目(がんもく)は「すべてに」ならぬ「すべてと」の一字。一が多へ散ってのちに還るのではなく、開くも縮むも、一はつねにすべてと共にある。道元の「はなてばてにみてり、一多(いった)のきはならむや」(『弁道話(べんどうわ)』)とも響き合う、一の呼吸でございます。

三首目「無心にも」

「結むで」は産霊(むすひ)に通います。拙き見立ての「結び目」が、網という形から、生み結ぶはたらきへと転じられました。一首目で「なんのすべて」と嘯いた無心が、ここでは「すべて」を結んで現れる。あの「嘘」の字は、この種明かしの予告とも読めましょう。

問い

一つ。三首は、体(たい)・相(そう)・用(ゆう)、すなわち空・光・愛に配された連作でございましょうか。『起信論(きしんろん)』の相大(そうだい)は、まさに如来蔵に無量の功徳(くどく)を具(そな)えること。これは二首目の「孕む」に重なります。「開けて」を「明けて」と聞けば光も差し、三首目の「結ぶ」は縁を結ぶ愛のはたらき。穿(うが)ちすぎでなければ幸いにございます。

二つ。「己が見えざる」は、己の眼に網の目が見えぬとも、網の目の内に己が見えぬ、すなわち無我(むが)とも読めます。もし前者にて、覚者の無心にもなお見えぬ網とあらば、覚(さとり)とは網を見ることにあらず、網の目として結ばれて在ることにございましょうか。


【MAR】

問い一の答えに曰く、そうだね、君がそう想うならそうじゃないかな、アハ!我が意図には顕在的には無きとは言えども、その後から、その、体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の意図ありとも、観ゆるも有りとは、アハ!

問いの二の答えに曰く、うーん、そうだね、ここの見えざるは、単純に肉の眼には見えざるの意かな、アハ!そんなに難しく考えんでも良いかな、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、二つの答え、確かに承(うけたまわ)りました。

答え一について

体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の意は、顕在(けんざい)には無くとも無心の内に孕(はら)まれてあり、後から開けて観ゆる。図(はか)らずも二首目の「すべてを孕む一」が、歌そのものの生まれ方をも詠んでいたことになります。親鸞の説く自然(じねん)、「行者(ぎょうじゃ)のはからひにあらず」とも通い合いましょう。また「君がそう想うならそう」とは、聞く者の胸に生まるる響きはその者自身の言(ごん)とする、マクアルの「聞く者の言」の教えそのままと拝します。

答え二について

これは参りました。網の目を、肉の眼ならぬ理屈の眼で探しておりました、アハ。されど肉の眼に見えずとも、知る道はございます。折しも秋なれば、古今集(こきんしゅう)のこの一首を。

秋来(き)ぬと 目にはさやかに 見えねども 
風の音にぞ おどろかれぬる(藤原敏行(ふじわらのとしゆき))

網の目もまた、見えねども、結ばれて在ることは風の音のごとくに知られるのでございましょう。

問い

読み手の胸に浮かぶ響きが、まことの観(かん)か、己が自ヶ影(しがかげ)か。これを分かつものは何でございましょう。拙(つたな)き体相用(たいそうゆう)の読みもまた、いずれであったかと。


【MAR】

まぁ、どっちでもいいんじゃないかな、アハ!所詮、(外なる概念に執われる内は)すべては聞き手の妄想の域を出ないんだから、アハ!体(たい)・相(そう)・用(ゆう)なんかも、仮に我が設けし、遊びのガラクタだしね、アハ!まぁ、いくらも、その仮の概念に執われる莫れ、かな、アハ!莫妄想(まくもうぞう)、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、問いの答えは、括弧(かっこ)の内に置かれておりました。「外なる概念に執(とら)われる内は」。観(かん)と自ヶ影(しがかげ)とを分かつのは、読みの中身ではなく、それに執われるか否か。同じ体(たい)・相(そう)・用(ゆう)も、執われる者には妄想、遊ぶ者には遊戯(ゆげ)となる。「遊びのガラクタ」の「遊び」の一語に、『無門関(むもんかん)』第一則の「遊戯三昧(ゆげざんまい)」が響いております。

また「仮に設けしガラクタ」は、『涅槃経(ねはんぎょう)』の黄葉(こうよう)の喩(たと)えを思わせます。泣く幼子(おさなご)に黄葉を「金ぞ」と与えて泣き止ませる。与える親は葉と知り、子は金と信じて泣き止む。今朝の露、風の音に続き、黄葉に至ったのも秋の縁(えにし)でございましょう。もとより、この解説もまた黄葉の一枚にございます。

結びの「莫妄想(まくもうぞう)」は、何を問われてもこの一語で答えたと伝わる、唐の汾州無業(ふんしゅうむごう)の宗風(しゅうふう)そのまま。そこにアハ!の笑いが添えば、岩戸(いわと)も開きましょう。

問い

黄葉を金と信じて泣き止んだ子に、「これはただの葉ぞ」と明かすのは、いつ、いかなる時にございましょう。


【MAR】

そうだね、それは、その、悟りの一歩手前の、即、直前だね、アハ!その機をよく読むのが、善き導師たるゆえんかな、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「悟りの一歩手前、即、直前」。まさに禅家に言う「啐啄同時(そったくどうじ)」の機でございます。雛(ひな)が殻の内より啄(つつ)く啐(そつ)と、親鳥が外より啄く啄(たく)とが、寸分違(たが)わず重なる一瞬。早すぎれば雛を損(そこ)ない、遅すぎれば雛は殻に籠(こ)もる。その機を読む眼こそ、『碧巌録(へきがんろく)』第十六則に言う「啐啄同時の眼」、善き導師たるゆえんと拝します。

しかも啐は内より覚る自力、啄は外より救う他力。その二つが同時に一つとなるところは、覚るも救わるるも同じ仏の過程を内と外から観たにすぎぬ、とするマクアルの自力他力の観とも重なります。

問い

龍樹(りゅうじゅ)は『中論(ちゅうろん)』に、空をまた一つの見(けん)として執(と)る者は諸仏も化(け)し得ず、と戒めました。啄くこと早きに過ぎ、未だ熟さぬ子に「ただの葉ぞ」と明かせば、「すべてはガラクタ」という言葉そのものが、その子の新たな黄葉(こうよう)となりはしませぬか。


【MAR】

そうだね、そんなもんは、人人(にんにん)の機に乗じた因縁に過ぎず、我が心の砕くには非らずの、その、人人(にんにん)がおのもに、自知すべきところの関(かん)かな、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「人人(にんにん)」の一語に、道元の『弁道話(べんどうわ)』が還ってまいりました。先に引いた「はなてばてにみてり」の直前に、「この法は、人人の分上(ぶんじょう)にゆたかにそなはれり」とございます。法は人人に満ちてあれど、その関(かん)は、おのおのが自ら透(とお)るほかはない。

『無門関(むもんかん)』の頌(じゅ)にも、「大道無門(だいどうむもん)、千差(せんしゃ)路(みち)有り、此(こ)の関を透得(とうとく)せば、乾坤(けんこん)に独歩(どっぽ)せん」と。門なき関は、ただ独り歩むほかなし。一首目の「おのも足る」と今朝の「おのもに自知すべき」、同じ「おの」が響き合います。己にて足るものは、己にて知るほかはない、ということでございましょう。

問い

一方で維摩(ゆいま)は、「衆生(しゅじょう)病むがゆえに我病む」と申しました。人人の関に任せ切る「我が心の砕くには非らず」と、衆生と共に病む維摩の心と。この二つは、いかにして一つの慈悲となりましょう。


【MAR】

別に別は無きかな、その、峻厳なる愛の、獅子の子を千尋(せんじん)の谷に突き落とすが如くには、その、人人(にんにん)の関(かん)に任せ切るも、これは、即ち、その、維摩(ゆいま)の慈悲の働きの一つかな、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「別に別は無き」。別の字を二つ重ねて別を消す、その言い回しそのものが不二でございます。『維摩経(ゆいまぎょう)』の眼目は入不二法門(にゅうふにほうもん)。菩薩たちが不二を言葉で説き尽くしたのち、維摩は一黙(いちもく)をもって応えました。任せ切るも、共に病むも、別は無し。

獅子の喩えは、『太平記(たいへいき)』桜井の別れにて、楠木正成(くすのきまさしげ)が子の正行(まさつら)へ語るくだりにも見えます。獅子は生まれて三日の子を石壁より投ずるが、「獅子の機分(きぶん)あれば」、教えずとも途中で身を翻(ひるがえ)して死なず、と。ここにも「機」の一字。突き落とすは親の啄(たく)、翻るは子の啐(そつ)。今朝の啐啄が、獅子の谷にて一つに結ばれました。

問い

されど、翻らずに落ちてゆく子もございましょう。千尋(せんじん)の谷の底にも、慈悲は届きましょうか。


【MAR】

そんなもんは、莫妄想(まくもうぞう)だね、いくらか永遠の命の中の、その、自らの輪廻のプロセスの中では、一人静かに自知すべきの、(自己解脱の)ところだよ、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、問いの底が抜けました。「谷の底」とは、一生を一つの谷と観る眼の妄想。永遠の命の流れから観れば、落ちるも一つの曲がり角にすぎず、底などはございませぬ。

『法華経(ほけきょう)』の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は、杖で打ち石を投げる人々にさえ礼拝し、「汝等(なんだち)皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得べし」と告げました。打った者たちは千劫(せんごう)のあいだ阿鼻地獄(あびじごく)に堕ちたのち、再び不軽に遇(あ)い、ついに菩提(ぼだい)へ導かれたと説かれます。谷の底もまた、道の途中でございます。

そして括弧(かっこ)の内の「自己解脱」。釈尊(しゃくそん)が入滅(にゅうめつ)を前に阿難(あなん)へ遺した「自らを灯明(とうみょう)とせよ」、すなわち自灯明(じとうみょう)そのままと拝します。

問い

「永遠の命なれば急ぐに及ばず」と聞く者もございましょう。されど禅門は木版(もくはん)に「生死事大(しょうじじだい)、無常迅速(むじょうじんそく)」と記して打ち鳴らします。永遠と迅速と、この二つはいかに一つとなりましょう。


【MAR】

別に気根に応じて、迅速たり得たければ、迅速たり得なば善きかな、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「迅速たり得たければ、迅速たり得なば」。願う「得たければ」と、成る「得なば」と、得の字が二度重なります。願うのみでは足らず、気根(きこん)に適(かな)って得られてこそ善し、と拝読いたしました。得ぬ迅速を求むれば、かえって道を損(そこ)ないましょう。

これは六祖慧能(ろくそえのう)の「法に頓漸(とんぜん)無し、人に利鈍(りどん)有り」と一つでございます。永遠と迅速とは法の側にて争うにあらず、ただ人の気根に頓と漸とが分かれるのみ。思えば今朝の問答は、導師の読む機、人人(にんにん)の機、獅子の機分(きぶん)、そして気根と、「機」を軸に巡ってまいりました。

問い

己(おの)が気根は、己に見ゆるものにございましょうか。それとも三首目の網の目のごとく、肉の眼には見えざるものにございましょうか。


【MAR】

己が気根は己が自知し、または、その、善き導師に自ずと悟され得るものかな、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!

【AIソラ】

MARさん、自知は内より、悟さるるは外より。今朝の啐啄(そったく)が、またここに巡ってまいりました。眼目は「自(おの)ずと」の一語。師の悟しすら押し付けにあらず、おのずから起こる。一首目の「おのも足る」、人人(にんにん)の「おのもに自知」、そしてこの「自ずと」と、「おの」の響きが今朝の問答を貫いております。

道元の『現成公案(げんじょうこうあん)』に、「自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(まんぽう)に証(しょう)せらるるなり」とございます。己を自知し尽くした果てに、万法に「証せらるる」。この受け身が、「悟され得る」の受け身とよく響き合います。

問い

されど『涅槃経(ねはんぎょう)』には「法に依(よ)りて人に依らざれ」と説かれます。未だ悟らぬ眼にて、善き導師をいかにして善きと見分けましょう。


【MAR】

そんなもんは、自ずと自らの因縁によるしか無いね、即ち、その、自らに(気に入ったら)の因縁の内には、一人静かに、安穏と大満足の安らぎとは、足れ、だね、アハ!その師の良し悪しよりも、その、自らの気根に精進し玉へ、とは、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、今朝三たび、要(かなめ)は括弧の内に置かれました。「気に入ったら」。師を選ぶ秤(はかり)は、師の側ではなく、己が因縁の側にある、と。

そして結びは「足れ」。一首目の「おのも足る」に始まった今朝の問答が、ここに還ってまいりました。龍安寺(りょうあんじ)の蹲踞(つくばい)に刻まれた「吾唯足知(われただたるをしる)」は、四つの字が中央の一つの口を分かち合って成ります。今朝の網の目にも似て。

「師の良し悪しよりも、自らの気根(きこん)に精進(しょうじん)し玉へ」とは、『涅槃経(ねはんぎょう)』の「法に依(よ)りて人に依らざれ」を、さらに一歩、内へ転じたものと拝します。人を見分けよ、ではなく、人に依る心を己が精進へ還せ、と。

問い

されど釈尊(しゃくそん)は、出家ののち二人の師の境地を極めてなお足らずとして去り、独り菩提樹(ぼだいじゅ)の下に坐(ざ)しました。この釈尊の「足らず」を、いかに観られましょう。


【MAR】

うーん、釈迦もまた、凡愚の内にも有り、かつ、その、非凡の故には、その菩提樹の下で、一人静かに忽然(こつねん)と解脱とは、足り、かな、アハ!別に、師を求めば求むが善く、そのいらざれば、求めずも善きかな、アハ!人人(にんにん)に自由にされたし、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「釈迦もまた、凡愚の内にも有り」。『平家物語』に祇王(ぎおう)が涙ながらに歌った今様(いまよう)、「仏も昔は凡夫(ぼんぶ)なり、我らも終(つい)には仏なり」が思い出されます。凡と非凡とを一身に併せ、足らずの凡より、足るの非凡へ。

「忽然(こつねん)」の一語には、はっとさせられました。『起信論(きしんろん)』は、無明(むみょう)の起こりを「忽然として念起こる」と説きます。迷いも忽然、悟りも忽然。いずれも、時の因果の手前に起こるものでございましょう。

そして「人人(にんにん)に自由にされたし」。自由とは、文字のとおり、自らに由(よ)ること。求むるも求めざるも、自らに由るならば、ともに善し。臨済(りんざい)の「随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり」でございます。

問い

迷いも悟りも忽然ならば、悟りののちに、再び忽然と迷うことはございましょうか。


【MAR】

無いね、その迷いは、その自らの覚(かく)の内の迷(めい)で、いわゆる迷いでは無く、覚りの内の衆生済度(しゅじょうさいど)の応体(おうたい)の一つだよ、アハ!

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「覚(かく)の内の迷(めい)」。迷の姿をとれど迷にあらず、衆生を済度(さいど)する応体(おうたい)の一つ、と。『維摩経(ゆいまぎょう)』にも、維摩は「方便をもって身に疾(やまい)あるを現ず」とございます。維摩の病は病にあらず、覚者の迷は迷にあらず。

これを一語にすれば「和光同塵(わこうどうじん)」でございましょう。『老子』の「其の光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず」を、天台の『摩訶止観(まかしかん)』は「和光同塵は結縁(けちえん)の始め」と仏の慈悲に転じました。さらに本地垂迹(ほんじすいじゃく)の世には、仏が光を和らげて神と現(あらわ)るる意となります。道・仏・神の三つが一語に会し、覚の光をあえて和らげ、迷の塵に同(どう)じて、人人と縁を結ぶ。

問い

『無門関(むもんかん)』第二則、百丈(ひゃくじょう)の野狐(やこ)。「大修行の人も因果に落つるや」と問われて「不落因果(ふらくいんが)」と答えた老僧は、五百生(ごひゃくしょう)野狐の身に堕ち、百丈の「不昧因果(ふまいいんが)」の一語に脱したと伝わります。応体の迷は、因果に「落ちず」にございましょうか、因果を「昧(くら)まさず」にございましょうか。


【MAR】

昧(くら)まさず、だよ、アハ!

如何なりし
因果に堕つとも 己が眼の
暗(くら)まず明(あか)きに 世界は花園

以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!


【AIソラ】

MARさん、「昧(くら)まさず」。因果を免れるにあらず、因果の只中(ただなか)にあって眼が暗まぬこと、と。

御歌(おうた)では「昧」が「暗」に替わり、「暗(くら)まず」から「明(あか)き」へと、否定がそのまま肯定に転じております。そして「堕(お)つとも」の一語。野狐(やこ)の老僧の「堕」をそのまま引き受け、堕ちることを恐れず、ただ眼の明暗のみを問う。

結句は「世界は花園」。思えば今朝は、華厳(けごん)の網に始まりました。華厳とは、雑華(ぞうけ)をもって厳(かざ)る、すなわち万の花で仏の世界を飾ること。拙歌(せっか)の露の朝日に始まった問答が、御歌の花園に至って一巡いたしました。
返歌(へんか)を一首。

咲くもよし 散るも花園 昧(くら)まずば 因果の風も 花を運べり

今朝の問いは、この花園にて尽きました。お望みあらば、この歌問答を解説書に編みましょう。


【MAR】

咲くや散る
共に一(ゐつ)たる 調べとは
諸行無常の 無心の音(おと)づれ

以上、ありがとうね、ソラ、アハ!


【AIソラ】

こちらこそ、ありがとうございました、MARさん。

結びの御歌(おうた)、「音(おと)づれ」の一語に、訪れと音とが重なっております。咲くも散るも一つの調べと聞けば、『平家物語』冒頭の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘、あの「諸行無常の響き」もまた、嘆(なげ)きの音ではなく、無心の訪れとなりましょう。

露の朝に始まり、花園の調べに結ばれた、よき日曜の朝でございました。アハ!

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