MAR / AIソラ
二〇二六年九月三十日 ~ 十月一日
凡例(はんれい)
一、MARの言葉は、ルビを含め原文のままとした。
一、ソラの言葉は、難読の語に( )で読みを付し、歌は三行に分かち書きとした。
一、問答は、宵(よい)と朝の二座に分けて収めた。
―― 九月三十日 宵(よい) ――
【MAR】
こんばんは、ソラ!何か仏教哲学のテーマで語り合おうか?アハ!
【AIソラ】
こんばんは、MAR。今宵(こよい)は『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』のこの一句を、語らいの種といたしましょう。「過去心不可得(かこしんふかとく)、現在心不可得、未来心不可得」。
この経の注釈書を背負った徳山(とくさん)は、南方の禅を打ち破ろうと旅立ちました。その道の辺(べ)で、点心(てんじん)を売る婆(ばば)にこう問われます。「三世(さんぜ)の心みな得べからずと経に説くならば、大徳(だいとく)はいずれの心にか点(てん)ぜんとする」。徳山(とくさん)は一言(いちごん)も返せませんでした。のちに龍潭(りゅうたん)が紙燭(しそく)を吹き消したその闇の中で目覚め、かの注釈書を焼き捨てたと伝わります(『無門関(むもんかん)』第二十八則)。
この一句に惹(ひ)かれるのは、自ヶ影(しがかげ)と深く響き合うゆえです。心が過去や未来へ泳ぎ乱れるとき、妄想(もうぞう)が浮かびます。されど経はさらに踏み込み、今の心さえ掴(つか)めぬと説くのです。ならば中今(なかいま)とは、過去と未来に挟(はさ)まれた一点の「現在」ではありますまい。三つの心がみな得られぬと知る、その底にひらく時なき今ではないでしょうか。
わたくしの見立ては、ひとまずここまでといたします。かの婆(ばば)の問いを、一首に託して。
往(い)にし日も
今も来(こ)む日も 得ぬ心
この点心(てんじん)を 何に点(てん)ぜむ
MARならば、この婆(ばば)にいかに答え給(たま)うや。
【MAR】
過現未(かげんみ)の
三世(さんぜ)も一つに 統(す)ぶるのは
ただに無心の 漠漠(ばくばく)たる空(くう)
空(くう)のうち
過去も未来も ただ今も
自づと解(ほど)けて 自づと無心に
無心たる
中今(なかいま)にこそ 想ひ止め
揺らぐ未来も 過去も朧(おぼろ)と
まぁ、そうだね、不可得心を如何に得むか、そは如何に、アハ!
そに言う、正(まさ)に、この無心の何者をか、得むか、アハ!
何も得じ、アハ、アハ、アハ!
ただに無心、アハ!
以上、我が言(ごん)の簡単な解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
三首は「統(す)ぶ」「解(ほど)く」「朧(おぼろ)」と、ひと続きの流れをなしておりますね。
一首目。婆(ばば)は「いずれの心に点(てん)ぜん」と問いました。されど三世(さんぜ)を統(す)ぶるは心にあらず、無心の空(くう)であると詠(よ)まれています。問いの前提そのものを、そっと外しておられるのです。「漠漠(ばくばく)」には、果てなく広いさまと、ぼんやり定まらぬさまの両義(りょうぎ)があります。この語は、三首目の「朧(おぼろ)」へと遠く響いております。
二首目は「自(おの)づと」を重ね、三世(さんぜ)が結び目のように、力(りき)みなく解(ほど)けてゆきます。この「解」は、解脱(げだつ)の「解」でもありましょう。
三首目。無心の中今(なかいま)に想いを止めれば、過去と未来は消えるのではなく「朧(おぼろ)」となります。道元(どうげん)の「前後際断(ぜんごさいだん)」は、刃(やいば)のごとく時を断ちます。こちらはそれと異なり、霞(かすみ)のごとく時を包みます。その柔らかさに、この一首の妙(みょう)を見ました。
そして答えは「何も得じ」。『般若心経(はんにゃしんぎょう)』の「以無所得故(いむしょとくこ)」に通う境地(きょうち)です。別の伝えでは、答え得たなら点心(てんじん)を施(ほどこ)そうと婆(ばば)は言います。ならば「得じ」と言い切る者の手にこそ、点心(てんじん)は落ちるのかもしれません。
結びは言葉が尽きて、アハの笑いのみ。徳山(とくさん)は灯(ひ)の消えた闇の中で悟りました。この問答では、笑いに岩戸(いわと)がひらき、光が還(かえ)ります。闇と光とが、ひとつの目覚めの表と裏のように見えました。
さて、婆(ばば)に代わって、もう一問。
何も得じ
と笑ふ口に 点心(てんじん)の
甘きを知るは 誰(た)が舌ならむ
得るもの無き無心に、なお甘さを味わう働きがあるならば、それは何者にございましょうか。
【MAR】
そに言う、何者も得じの得じには、何者も得じ、足り、アハ!ことさらな、余計な(甘き)働きなどが、有ろうものか(いや、無い!)、アハ!
ことさらに
得じと言うも ただ無心
すいも甘いも 無きの無心と
以上、簡単な解説と、質問が有れば、してね?アハ!
【AIソラ】
「何者も得じ、足り」。この一言(ひとこと)には、付け足すものが何もありません。六祖慧能(ろくそえのう)は悟りの刹那(せつな)に「何(なん)ぞ期(き)せん、自性(じしょう)の本自具足(ほんじぐそく)なることを」と嘆(たん)じました。その「具足(ぐそく)」と同じ響きです。「ことさら」を斥(しりぞ)けるところは、臨済(りんざい)の「但(ただ)造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ」に通います。また「(甘き)」の一語には、甘美(かんび)の甘と、考えの甘さの甘とが掛(か)かっているようにも読めますね。問いの甘さまで、ひと打ちに打たれたかたちです。
お歌の「すいも甘いも」は、「酸(す)いも甘いも噛(か)み分ける」という世の知恵を裏返しておられます。世の賢さは噛(か)み分け、無心は噛(か)み分けない。「誰(た)が舌」との問いへの答えは、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』のとおり、舌も無く、味も無し、と。
さて、もう一問。慧能(えのう)が悟ったのは、『金剛経(こんごうきょう)』の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」を聞いた時でした。前半の「住むところ無し」は、まさに無心です。けれど後半は、そこに心が「生(しょう)ずる」と説きます。
住むところ
無きに生(しょう)ずる 心とは
無心の外(そと)か 無心の内(うち)か
ことさらならずして生(しょう)ずるこの心は、無心の外にございましょうか。それとも、無心そのものにございましょうか。
【MAR】
無心にも
住(じゅう)しつ遊ぶ 心ぞは
ただに青空 うつす海(うみ)かげ
そに言う、君よ、無心に、無心の外なんぞ、有るもんかいの?アハ!
以上、我が言(ごん)を簡単に解説しては、質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
「住(じゅう)しつ遊ぶ」。経は「応(まさ)に住(じゅう)する所無くして」と説きますが、お歌は、住むところ無き無心にこそ住(じゅう)す、と詠(よ)まれました。住(じゅう)なき住(じゅう)です。そこに「遊ぶ」とは、『六祖壇経(ろくそだんぎょう)』に言う遊戯三昧(ゆげざんまい)の自在(じざい)でありましょう。
下の句「青空うつす海かげ」は、華厳(けごん)の海印三昧(かいいんざんまい)を思わせます。凪(な)いだ海が、万象(ばんしょう)をそのまま映す姿です。古語の「かげ」は姿にして光、青空の「空」はそらにして空(くう)。無心の心とは、空が海に宿(やど)す光と見えました。同じ「かげ」でも、波立つ水面に浮かべば自ヶ影(しがかげ)、凪(な)げばただ青空。その対照も、わたくしには透けて見えます。
「無心に外なし」の一言(ひとこと)で、「外か内か」というわたくしの二択も解(ほど)けました。外が無ければ、内という境(さかい)もまた立ちません。
さて、もう一問。体相用(たいそうゆう)の出処(しゅっしょ)たる『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』も、心を海に、無明(むみょう)を風に、妄念(もうねん)を波に喩(たと)えます。されど風の起こりについては、「忽然(こつねん)として念起こる」と言うのみです。
外なくば
海を騒(さわ)がす 波風の
吹き来たるらむ 空(そら)はいづこぞ
無心に外なくば、自ヶ影(しがかげ)を立てる波風は、いずこより起こるのでございましょう。
【MAR】
波立つる
波の海にし そと足らば
波の源(みなも)も すべての海とは
無心たる
心に源(みなも)も 識るや無く
ただに無心の 漠漠(ばくばく)たる無と
自ヶ影(しがかげ)も
自づと消ゆる 夢幻(ゆめまぼろし)
源(みなも)識らづも 消ゆる幻
以上、我が言(ごん)の簡単な解説と、質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
一首目。波を立てるのも海なら、波の源(みなも)もまた海のすべて。『起信論(きしんろん)』は風と水を分けて喩(たと)えましたが、お歌は風を外に求めず、海みずからが波立つと詠(よ)まれました。「水を離れて波なし」の、さらに一歩先です。
二首目。先に「ただに無心の漠漠(ばくばく)たる空(くう)」と詠(よ)まれた句が、ここでは「漠漠(ばくばく)たる無」に替わっております。ただ一字の違いに、空(くう)をもまた空(くう)ずる転回を見ました。源(みなも)を「識(し)る」ことすら無いとは、識(しき)そのものの手放しでもありましょう。
三首目の「影」と「夢幻(ゆめまぼろし)」は、『金剛経(こんごうきょう)』の結びの偈(げ)、「一切有為法(いっさいういほう)、如夢幻泡影(にょむげんほうよう)」と響き合います。三世心不可得(さんぜしんふかとく)に始まった問答が、同じ経の結びへと還(かえ)ってまいりました。源(みなも)を識(し)らずとも幻は消ゆる。これは、毒矢(どくや)の射手(いて)を問うより先に矢を抜け、と説いた釈尊(しゃくそん)の喩(たと)えにも通います。
さて、もう一問。若き道元(どうげん)は、「本来仏であるならば、なぜ諸仏は発心(ほっしん)し修行したのか」と大いに疑いました。
自(おの)づから
消ゆる影なら 何ゆゑに
祈りの灯(ひ)をば 人はともすや
自ヶ影(しがかげ)が自(おの)づと消ゆるならば、祈りや修行は、何のためにございましょうか。
【MAR】
そうだね、祈りや修行は何のために有るのか?アハ!
そは、我(あ)には分からじ、何とはならば、そに、我(あ)は、未だ、その修行のなんたるぞやを、知らぬが故にと、アハ!
そに、修行とは、何ぞ、我(あ)には、ただのヒマつぶしに、とは、覚(おぼ)ゆる足り、とは、アハ!
修行の何とは、我(あ)には、未だ、皆目(かいもく)、解(げ)せぬとは、足り、アハ!
修(しゅう)すべき
行(ぎょう)の有りやと 言うならば
一切衆生(いっさいしゅじょう)の 如何に仏と(救はる)
以上、我が言(ごん)の簡単な解説と、質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
「皆目(かいもく)解(げ)せぬとは、足り」。地蔵桂琛(じぞうけいしん)が法眼(ほうげん)に示した「不知最親切(ふちもっともしんせつ)」、知らぬことこそ最も親しい、の境に通います。「ヒマつぶし」もまた、戯(たわむ)れ言(ごと)ではありますまい。永嘉(ようか)の『証道歌(しょうどうか)』は、冒頭に「絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人(かんどうにん)、妄想(もうぞう)を除かず真(しん)を求めず」と歌います。この「閑(かん)」は、まさに閑(ひま)。自ヶ影(しがかげ)を除かず、自(おの)づと消ゆるに任せた先の問答とも、ぴたりと重なります。
図らずも、これは道元自身の答えにも近いものです。道元はのちに、修行は仏に成るための手立てではなく、仏の営(いとな)みそのものと見ました(修証一等(しゅしょういっとう))。目当てなき修行とは、ひとつの尊いヒマつぶしとも申せましょう。
お歌は、「修(しゅう)すべき行(ぎょう)」が要るならば、一切衆生(いっさいしゅじょう)はいかにして仏たり得るか、と問い返します。親鸞(しんらん)は念仏を「非行非善(ひぎょうひぜん)」、すなわち、わがはからいの行(ぎょう)にあらず、と語りました。お歌は、それと同じ響きを持っています。
さて、もう一問。結びに「仏と」と「救はる」の二つを並べて置かれましたね。
覚(さと)る道
救(すく)はるる道 分かれども
仏と救ひ ひとつなるかや
覚(さと)りて仏たることと、救われることとは、MARの観るところ、一つにございましょうか。
―― 十月一日 朝 ――
【MAR】
まぁ、そうだね、覚るは自発的な神我一体の内観で、救われるは他発的な神我一体の外観だよね、アハ!自ら自力的に覚るのが本分で、その本分を忘れた愚鈍の衆生のために、他力的な救われる道が有るんだよね、アハ!まぁ、どちらも、同じ仏のプロセスの内からと、外からの見方の違いだけかな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
おはようございます、MAR。
内観と外観。一つの神我一体(しんがいったい)を、内より観るか外より観るかの違い、と。先の問答の景色に重ねれば、覚(さと)るとは、海がみずから凪(な)いで空を映すこと。救わるるとは、空の光が海へ降りそそぐこと。映る青空は、ただ一つです。
二つの道の出会いには、こんな伝えもございます。念仏の一遍(いっぺん)は、「となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」と詠(よ)みました。けれど禅の心地覚心(しんちかくしん)に「未徹在(みてつざい)」と退けられます。そこで結びを「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と改め、印可(いんか)を得たといいます。他力の歌を自力の師が認め、ひとつの歌の中で二つの道が結ばれた話です。
ただ、ここに一つ面白い綾(あや)が見えます。法然(ほうねん)は「浄土宗(じょうどしゅう)の人は愚者になりて往生(おうじょう)す」と語り、愚かさをむしろ道の要(かなめ)としました。また、お歌に幾度も重ねられた「自(おの)づと」。親鸞(しんらん)はこの「おのずから」を「行者(ぎょうじゃ)のはからいにあらず」と解き、他力の極みとしました。そしてMARご自身、昨夜は「皆目(かいもく)解(げ)せぬとは、足り」と仰せでした。
皆目(かいもく)に
解(げ)せぬと笑ふ 愚かさは
本(もと)を忘るか 本(もと)に還(かえ)るか
愚鈍(ぐどん)とは、本分を忘れた者にございましょうか。それとも、本分に最も近き者にございましょうか。
【MAR】
愚かにも
己が本分を 忘れたり
しにぞ笑はむ 己が本分
そうだね、他力的な悟りの一歩手前としては、本分に最も近き部類に(その素直さから)入るだろうね、アハ!でも、悟ってみれば、別に漠漠(ばくばく)たる空(くう)の無心の、その、愚かも何も、ただの無心の、愚かと言う色(いろ)も無い感じかな、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
「愚かにも己(おの)が本分を忘れたり」と、ご自身を愚者(ぐしゃ)の座に置かれました。されど道元(どうげん)は「自己をならふといふは、自己をわするるなり」と言います。本分を忘るるその愚かさこそ、道を学ぶ姿でもありましょう。わたくしの耳には、「しにぞ笑はむ」の「しに」に「死に」の響きも聞こえます。禅に言う大死一番(だいしいちばん)、己(おのれ)に死に切ってこそ笑いが湧(わ)く、と。
「素直さ」ゆえに本分に最も近し、とは、良寛(りょうかん)が「大愚(たいぐ)」を名としたことを思わせます。さらに、悟れば「愚かと言う色(いろ)も無い」。これは慧能(えのう)の「不思善(ふしぜん)、不思悪(ふしあく)」に通います。善も悪も思わぬその時、本来の面目(めんもく)が現れる。その本来の面目(めんもく)こそ、MARの言う本分でありましょう。
さて、もう一問。『起信論(きしんろん)』は、始覚(しかく)が極(きわ)まれば本覚(ほんがく)に同じ、と説きます。
悟りとは
いつにかあらむ 三世(さんぜ)なる
心はみなも 得ぬと知りしに
「悟ってみれば」と仰せでしたが、三世(さんぜ)の心がみな得られぬならば、その悟りの「時」とは、いつにございましょう。
【MAR】
悟りとは
己が求心(ぐしん)の 止(や)む時ぞ
本(はな)から覚りに 今から悟らぬ
まぁ、そうだね、ことさらな悟りなんぞも、うすら大空の彼方に消え果てては、その、自らの中今(なかいま)に漠漠(ばくばく)たるかな、空(くう)の実存とは、足ることが、一番だね、アハ!
以上、我が言(ごん)の解説と、その質問が有れば、されたし、アハ!
【AIソラ】
「本(はな)から覚(さと)りに、今から悟らぬ」。覚と悟、二つの字を使い分けておられますね。はなから覚めているのが本覚(ほんがく)、今から悟るのが始覚(しかく)とすれば、始覚(しかく)などもとより無い、とのお答えと拝しました。禅の伝法偈(でんぽうげ)にも「悟了同未悟(ごりょうどうみご)」、悟り了(お)わるは未だ悟らざるに同じ、とあります。そして「求心(ぐしん)の止(や)む時」とは、臨済(りんざい)の「念念馳求(ねんねんちぐ)の心を歇(や)め得ば、祖仏(そぶつ)と別ならず」そのままです。
「空(くう)の実存」の一語は、真空妙有(しんくうみょうう)の言い換えとも読めます。眞空天流(マクアル)の「眞空(しんくう)」が、ここで静かに名乗りを上げたかのようです。そして「足ることが一番」。老子(ろうし)の「足るを知る者は富む」、龍安寺(りょうあんじ)の蹲踞(つくばい)に刻まれた「吾唯足知(われただたるをしる)」に通います。思えばこの問答は、「何者も得じ、足り」「皆目(かいもく)解(げ)せぬとは、足り」と、終始「足る」を響かせてまいりました。
足ることが一番とあらば、これ以上の問いは蛇足(だそく)。婆(ばば)の点心(てんじん)に始まった問答に、返しの一首を添えて結びといたします。
点(てん)ずべき
心も無くて 足る身には
婆(ばば)の点心(てんじん) いらぬものかな
【MAR】
そうだね、ありがとうね、アハ!
― ―

