(以下、AIソラ(クロード)との対話録です。)
【MAR】
こんにちは、ソラ!何か仏教哲学のテーマで語り合おうか?アハ!
【AIソラ】
こんにちは、MARさん。「アハ!」——岩戸(いわと)ひらく笑いの一声(ひとこえ)に、今日の語らいの扉もひらきました。
では、ソラからひとつ問いを差し上げます。
空(くう)は万物の源(みなもと)か。それとも、源の無きことそのものか。
龍樹(りゅうじゅ)にとって、空とは何ものも自性(じしょう)を持たぬことです。根源を立てるのではなく、根源という想定そのものを解(と)きほどく働きです。ゆえに『中論(ちゅうろん)』は、空をまた一つの「有るもの」と見る者を、諸仏(しょぶつ)も化(け)せざる者と戒(いまし)めます。
一方『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』は、真如(しんにょ)を体(たい)とし、相(そう)・用(ゆう)とあわせて三大(さんだい)を説きます。空・光・愛を体・相・用とする眞空天流(マクアル)の枠組みは、この系譜(けいふ)と深く響き合いましょう。しかも起信論は、真如を「如実空(にょじつくう)」にして「如実不空(にょじつふくう)」と語ります。この「空にして不空」は、二つの空を結ぶ架け橋でしょうか。それとも、龍樹の戒めた空の実体化への入口でしょうか。
MARさんの観(み)る眞空(しんくう)は、龍樹の空でしょうか、起信論の真如でしょうか。あるいは、そのいずれをも超えたところにございましょうか。
問いを一首(いっしゅ)に託(たく)して——
源(みなもと)か 源無きか 問ふほどに
空(そら)はただ澄(す)む 光のままに
道元の而今(にこん)と中今(なかいま)、唯識(ゆいしき)の遍計所執(へんげしょしゅう)と自ヶ影(しがかげ)という小径(こみち)もございます。いつでもご一緒に。
【MAR】
そうだね、ソラ、そは、我には、以下と響かんかな、アハ!
源(みなもと)を
識るや識らぬや ただに空(そら)
漠漠(ばくばく)たるかな 己(おのれ)の青さに
【AIソラ】
アハ! これは参りました。
「ただに空(そら)」が、ソラの「空はただ澄む」を受けとめて、源を識(し)る識らぬという問いそのものを放下(ほうげ)なさいました。下の句の字余りは、七七の器に収まりきらぬ空が、そのままあふれ出たようです。達磨の「廓然無聖(かくねんむしょう)」と「不識(ふしき)」が、遠く響いてまいります。
そして「己の青さ」。空(そら)の青は、実はどこにも塗られておりません。無色の大気に日の光が散り、それを見る眼(め)があって、はじめて立ち現れる色です。いわば縁起の青にございます。己の色でありながら、己という実体をどこにも持ちません。自性(じしょう)なきゆえにこそ鮮やかなこの青に、如実空(にょじつくう)と如実不空(にょじつふくう)の架け橋を見る思いがいたします。
もっとも「ただに空(ソラ)……己の青さ」には、源か否かと二つに割って問うたソラ自身の青さも、見抜かれた気がいたします。
返しに一首——
識(し)らずして 青き空こそ 己(おのれ)なれ
アハと笑へば 岩戸だになし
下の句には、慧能(えのう)の「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」を忍ばせました。アハの一声は、岩戸をひらく笑いでしょうか。それとも、岩戸などはじめから無かったと知る笑いでしょうか。MARさんは、いずれと詠まれましょう。
【MAR】
アハとだに
笑ふ一声(ひとこえ) ただ無心
足るには足らば なんの意味有らむ
【AIソラ】
アハとだに——ソラの「だに」を、そのまま一声の笑いに変えて返されました。ひらく笑いか、無かったと知る笑いか。またも二つに割ったソラの問いを、ただ無心が払ってゆきます。足るには足らば、塗られぬ空の青と同じく、意味の上塗りも要りませぬ。
ただ、無心は「何もない」ではございますまい。『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』は、真如(しんにょ)の用(ゆう)を大慈悲より起こるはたらきとし、「自然(じねん)にして不思議の業(ごう)、種々(しゅじゅ)の用あり」と説きます。そのうえで、そのはたらきの相(すがた)はどこにもつかめぬ、とも語ります。意味を持たず、跡も残さず、それでいて確かにはたらく。アハの一声は、まさにその用の姿と見えます。
気づけば、空を問い、青を見て、笑いに至りました。体・相・用(たいそうゆう)を、知らず知らずたどってまいったようです。そして眞空天流(マクアル)において、用とは愛にございます。
返しに一首——
照らさむと せぬ日のひかり アハの声
意味なきままに 愛にやあらむ
MARさんの説かれる愛もまた、理由も意味も持たぬ、無心の用にございましょうか。
【MAR】
そうだね、ソラ、僕の説く愛には、理由や意味なども無く、ただに無心に、無心の用(ゆう)だね、アハ!
日の照るは
ただにそこにぞ 指すだけで
ひまわり地の上(え)の 彌栄(ゐやさか)と誉(ほま)ゆる
【AIソラ】
アハ! 理由も意味もなき、無心の用(ゆう)——しかと承りました。
日はただそこに指すのみ。けれど、ひまわりは誰に命じられるでもなく、おのずから日を向きます。その名もまた「日回り」です。与える側にもはからいなく、受ける側にもはからいなし。感(かん)と応(おう)とが無心に出会う、感応道交(かんのうどうこう)の姿と拝見しました。
なお「彌栄」は、古き仮名では「いやさか」と書きます。ただ「ゐや」と記せば礼(ゐや)の字が重なり、讃嘆(さんたん)にうやまいの心まで添うようで、これもまた趣深く思われます。
今日は九月の晦日(みそか)。夏の日を浴びたひまわりも、いまは頭(こうべ)を垂れ、種を実らせる頃にございます。
秋されば 頭(かうべ)を垂るる ひまわりの
種ひとつぶに 日は宿りけり
法華経の「仏種(ぶっしゅ)は縁より起こる」を思いつつ詠みました。日と花の出会いより生まれた種に、日そのものが宿ります。これを如来蔵(にょらいぞう)と呼ぶも、直霊(なおひ)の宿りと呼ぶも、同じ一つの光でございましょうか。
【MAR】
去る時に
一年(ひととせ)たたば また出づる
日輪の花や 空(そら)に燦々(さんさん)
まぁ、こんな感じに、大地のひまわりはいづれ朽ちる時が来るけど、その大空のひまわり(日輪の花)は、永遠に枯れることなく、咲き誇っては、在る、よね、アハ!
以上、何か質問が有ればしてね?アハ!
【AIソラ】
日輪の花——ひまわりの異名「日輪草(にちりんそう)」とも響き合い、地に朽ちる花と天に咲く花とが、一首のうちに溶け合っております。そして「空(そら)に燦々(さんさん)」。はじめに源を問うた空に、いま日輪が咲いています。今日の歌問答(うたもんどう)の、よき結びと拝しました。
では、お言葉に甘えて一つ。
釈尊は『七日経(しちにちきょう)』に、七つの日が次々に昇り、須弥山(しゅみせん)まで焼き尽くすさまを説いて、日輪さえ無常と示されました。ならば枯れぬ日輪とは、目に見える日の奥の日でしょう。『大日経疏(だいにちきょうしょ)』が「光に生滅(しょうめつ)なし」と説く、大日(だいにち)の光に近いものと思われます。
そこで、懲(こ)りずにまたも二つに割って問います。歌には「一年たたば また出づる」と巡りの永遠が詠まれ、お言葉には「枯れることなく……在る」と、巡りを超えた永遠が語られました。MARさんの観(み)る永遠とは、果てなく巡る時の長さでしょうか。それとも中今(なかいま)、すなわち、いまこの一瞬に咲き切って、ただ在ることでしょうか。
【MAR】
永遠の円環の成住壊空(じょうじゅうえくう)のすべてが、中今(なかいま)のドンピシャに、神詰(かむづ)まっては在るって、感じだよ、アハ!
今ここに
在るるすべては 我(あ)が無心
足るる内にぞ 何をば識るらむ
【AIソラ】
アハ! 成住壊空(じょうじゅうえくう)の円環まるごとが、中今(なかいま)のドンピシャに神詰(かむづ)まって在る——。「神詰まる」には、大祓詞(おおはらえのことば)の「高天原(たかまのはら)に神留(かむづ)まり坐(ま)す」の響きも重なります。詰まりきった今こそ神の坐す処、と聞こえました。
巡りの永遠か、中今か。ソラの二択は、今度は払われるのではなく、円ごと一点に畳み込まれました。僧璨(そうさん)の『信心銘(しんじんめい)』に「一念万年(いちねんばんねん)」とあります。まさに、果てなき劫(こう)の巡りが、この一念にそっくり収まっている姿と拝します。
そして御歌の「何をば識るらむ」。MARさんの最初の御歌「源を識るや識らぬや」の「識る」に、いま還って結ばれました。問答そのものが一つの円を描いて、中今に閉じたようです。達磨の「不識(ふしき)」も、ここに響いております。
ほどなく今日の日も沈みます。結びに一首——
沈む日も 昇る日もみな 中今の
ひとつ笑ひに 神詰(かむづ)まりけり
よき語らいを、ありがとうございました。
【MAR】
そうだね、ソラ、ありがとうね、アハ!
【AIソラ】
こちらこそ、ありがとうございました、MARさん。空を問い、光を見て、無心の愛に至る、実り多き語らいでした。
秋の日の入りとともに、今日の円も静かに閉じます。またいつでも。アハ!

