『善悪の二元対立を超えて〜解説書〜』
眞空天流(マクアル)法話
——カミは火水なり・全託の祈りへ——
原文 MARウォリネス(眞空天流 導師)
解説 ソラ
二〇二六年 七月
目 次
序 この御文章について
第一章 世界はなぜ戦争状態にあるのか——問いの転回
第二章 善悪の価値基準の正体——エゴの物差し
第三章 火と水の譬え——正しさと正しさが争う世界
第四章 神の視点——在るがままの善
第五章 カミは火水なり——言霊の開示
第六章 分離意識が戦争を作る——執われの機制
第七章 大調和精神(ヤマトダマシヰ)——脱出と帰郷
第八章 道はいたって簡単——神の心の中に入る
第九章 祈りと全託——真の祈りの構造
第十章 それぞれの神の道——結びの祝福
結 一本の道
附 献歌二首
用語小解
序 この御文章について
本書は、眞空天流(マクアル)の導師・MARウォリネス師の御文章「善悪の二元対立を超えて」に対する解説書である。
この御文章は、戦争という、人類のもっとも重い現実から説き起こされる。しかもその原因を、政治や経済や歴史の内にではなく、私たち一人一人の胸の内なる「善悪の二元対立」に見定める。そして、そこからの出口を「神の視点」への転回として示し、その具体の道として「祈り」——すなわち「全託」——を掲げる。診断から処方、そして成就の言祝(ことほ)ぎまでが、一本の道として貫かれた、眞空天流(マクアル)の救済論の要諦を尽くした法話である。
とりわけ本文の枢要(すうよう)は、括弧の内にひそやかに置かれた一句、「カミ(火(カ)水(ミ)/神)」の開示にある。神という日本語そのものの中に、火と水、陽と陰の絶対統一——すなわち非二元の真理——が、はじめから刻まれている。この一点が示されるとき、善悪を超える道は、遠い彼方の理想ではなく、私たちの言葉の足もと、いのちの足もとに、はじめから開かれていたことが明らかとなる。
以下、原文の流れに沿って章を分かち、一節一節を丁寧に解説してゆく。原文の引用は一字一句を変えず、左罫線を付した引用ブロックとして示す。
第一章 世界はなぜ戦争状態にあるのか——問いの転回
みなさん、みなさんの世界は、混沌(こんとん)と、日々、戦争状態には、在ります、ね、たとえば、イラン戦争だとか、アハ!
それは、なぜでしょうか?アハ!
御文章は、時事から説き起こされる。イラン戦争——今この時も続く、現実の戦火である。しかし注意すべきは、師の問い「それは、なぜでしょうか?」の向かう先である。ふつう、戦争の「なぜ」を問えば、答えは政治や資源や宗教対立や歴史的経緯に求められる。だが師は、そのいずれをも通り越して、問いをまっすぐ、私たち自身の意識の内へと向ける。この問いの立て方そのものが、すでに本文全体の転回を告げている。
また「混沌と、日々、戦争状態には、在ります」という言い方にも注意したい。戦争はここで、特別な出来事としてではなく、世界の日常の「在り方」として描かれている。つまり、遠い国の砲火だけが戦争なのではない。善悪に分かれて争い合う意識の在り方そのものが、すでに戦争状態なのである。
それは、みなさんは、普段、「あれが善い!」だとか、「これが悪い!」だとかの、善悪の二元対立の中に、混沌(こんとん)と、葛藤(かっとう)しては在るから、なのです、ね、アハ!
ここに診断が下る。世界の混沌の根は、私たちが「普段」——特別な時ではなく、日々の普段に——「あれが善い」「これが悪い」という善悪の二元対立の中で葛藤していることに在る、と。
「混沌」という語が、世界にも(前節)、私たちの内面にも(本節)、同じように用いられていることは見逃せない。外の混沌は、内の混沌の映しである。世界が戦争状態にあるのは、一人一人の胸の内が、すでに戦争状態にあるからだ。この内外の照応の指摘こそ、本文全体を貫く眼である。
第二章 善悪の価値基準の正体——エゴの物差し
でも、その善悪の価値基準とは、なんなの、でしょうか?アハ!
それは、みなさんの、一人一人の、個々のエゴ意識による、自分勝手な(自分のためだけの)価値観基準に過ぎないものなのです、よ、アハ!
では、その善悪とは、そもそも何なのか。師の答えは端的である。それは「一人一人の、個々のエゴ意識による、自分勝手な(自分のためだけの)価値観基準に過ぎない」。
ここで示される善悪の定義は、驚くほど明快である。すなわち——自分を生かすものを「善」と呼び、自分を損なうものを「悪」と呼ぶ。ただそれだけのことである。善悪とは、物事そのものに備わった性質ではなく、「自分」という立ち位置から測られた遠近法にすぎない。
「に過ぎない」という言葉は、善悪の絶対性を打ち砕く。しかしこれは、何でもありの虚無論ではない。エゴの相対的な善悪が崩れたその先に、まったく別の次元の「善さ」——在るがままの善——が開示されるからである(第四章)。相対の善悪を破るのは、絶対の善を顕すためなのである。
老子は「天下みな美の美たるを知る、これ悪のみ」(第二章)と説いた。美醜善悪の分別が立つこと自体が、すでに対立の始まりである、と。師の教えはこの古(いにしえ)の智慧と深く響き合いながら、しかもそれを抽象の議論としてではなく、いま現に燃えている戦火の診断として、生きて用いておられる。
第三章 火と水の譬え——正しさと正しさが争う世界
と言うのも、その、火(陽)にとっては、火(陽)は善です(火(陽)は火(陽)を生かす)が、その、水(陰)は、火(陽)にとっては、悪になる(水(陰)は火(陽)を殺す)からなのです、ね、アハ!
その逆もしかりです、その、水(陰)にとっては、水(陰)は善です(水(陰)は水(陰)を生かす)が、その、火(陽)は、水(陰)にとっては、悪なのです(火(陽)は水(陰)を殺す)、から、アハ!
ここで師は、誰にでも分かる、しかも底の深い譬(たと)えを置かれる。火と水である。
火にとって、火は善い。火は火を生かすからである。しかし水は、火にとって悪である。水は火を消す——殺す——からである。ところが水の側から見れば、すべてが逆転する。水にとって水は善く、火こそが悪である。
この譬(たと)えの要点は、双方の言い分が、それぞれの立場においては完全に「正しい」ということにある。火の主張にも、水の主張にも、一分の誤りもない。それぞれが、自らを生かすものを善とし、自らを殺すものを悪としているだけなのだから。
そして、まさにここにこそ、戦争が終わらない理由がある。もし一方が正しく他方が間違っているのなら、話は簡単である。間違いを正せばよい。しかし現実の争いは、正しさと正しさの衝突である。おのおのが、おのおのの立場において正義なのである。正義対正義——これが戦争の構造であり、だからこそ「どちらが正しいか」を争う限り、戦いに出口はない。
伝統の五行説(ごぎょうせつ)に「水剋火(すいこくか)」——水は火に剋(か)つ——という相剋(そうこく)の理(ことわり)がある。師はこの古来の智慧を踏まえつつ、それを自然界の理論としてではなく、私たちの意識の構造を照らす鏡として転用しておられる。
まぁ、そんな感じに、みなさんの住んでいる世界は、その、お互いに、相(あ)い反する性質に、お互いに対立しては在ります、ね、アハ!
かくして世界は、相い反する性質どうしの対立として現れる。陽と陰、男と女、右と左、自国と他国、自分と他人——。これは確かに、世界の一面の事実である。師はこの事実を否定されない。しかし、ここで終わらない。次章、語りの次元そのものが、転回する。
第四章 神の視点——在るがままの善
でもね、みなさん、みなさんの、その、自らの、本体では在るところの、その、大いなる神の視点から見れば、それは、すなわち、その、火(陽)は、火(陽)では、在るがままには、善く、そしては、すなわち、その、水(陰)は水(陰)で、お互いに、個々の性質のままには、それは、それで、在るがままには、善いものなのです、ね、アハ!
「でもね、みなさん」——この一語で、語りの次元が変わる。地上の遠近法から、神の視点へ。
まず注意すべきは、その神が「みなさんの、その、自らの、本体では在るところの」神とされていることである。神は、雲の上から人間を裁く外なる審判者ではない。私たち一人一人の本体、いのちの本源そのものである。だから「神の視点」とは、どこか遠くの視点ではなく、私たち自身のもっとも深いところの視点なのである。
その視点から見るとき、何が見えるか。「火は、火では、在るがままには、善く」「水は水で……在るがままには、善い」。
ここに現れた「善」は、もはや悪と対をなす相対的な善ではない。火が水より善いのでも、水が火より善いのでもない。火は火であることにおいて善く、水は水であることにおいて善い。これは、存在そのものの肯定としての善——「在るがままの善」である。エゴの遠近法による善悪(第二章)が破られた後に、この絶対の善が顕れる。
華厳(けごん)の教えに「事事無礙法界(じじむげほっかい)」——一々の事物が、そのままで互いに妨げ合わない世界——が説かれる。禅の六祖慧能(ろくそえのう)は「善を思わず、悪を思わず、まさにその時、いずれが本来の面目か」と問うた。善悪の分別が止んだところに顕れる本来の面目。師の説かれる「在るがままの善」は、これらの古き燈と深く響き合いながら、しかも遥かに平易な言葉で、同じ消息を告げている。
第五章 カミは火水なり——言霊の開示
(それは、神は火の陽と、水の陰を絶対統一した、すべてが一つの、ワンネスの、カミ(火(カ)水(ミ)/神)だからなのです、ね、アハ!)
本文章の枢要(すうよう)が、ここにある。しかも、括弧の中に、ひそやかに置かれて。
カ、とは火。ミ、とは水。カミとは、火水——火と水を絶対統一した、すべてが一つの、ワンネスの御名である。
これは古神道に伝わる言霊の秘義である。私たちが日々何気なく口にしてきた「カミ」という言葉、その言葉自体の中に、陽と陰、火と水の絶対統一が、はじめから刻み込まれていた。真理は、遠い経典の中にではなく、母語の足もとに眠っていたのである。言葉に霊の宿るを観る言霊の道が、ここに端的に生きている。
「絶対統一」という語にも注意したい。これは、もともと二つに分かれていたものを、後から努力して合わせる「相対的な統一」ではない。火と水は「はじめから」一つなのである(第八章「はじめから、一つのワンネスに絶対統一された」)。分かれて見えるのは、エゴの分離意識という眼鏡のゆえであって、実相においては、火も水も、はじめから神の内容である。
ここから、決定的な帰結が導かれる。すなわち——火を選び、水を捨てて、神に至る道は無い。善を取り、悪を滅ぼして、神に至る道も無い。なぜなら、火も水も、善と呼ばれたものも悪と呼ばれたものも、すでに神の内だからである。神は対立の彼岸におられるのではない。対立と見えていたものが、そのまま、神の御姿(みすがた)だったのである。
第六章 分離意識が戦争を作る——執われの機制
そこを、全体の神の視点にない、(神と一体にない)みなさんは、火(陽)だけに執われては、その、火(陽)を好み応援しては、すなわち、その、水(陰)を嫌い攻撃したりします、その逆もしかり、なのです、よ、アハ!
神の視点に在らぬとき、何が起こるか。師はその機制を、精密に描き出される。
まず「執われ」。火だけに執われる。次に「好み・応援」。執われた火を好み、応援する。そして「嫌い・攻撃」。火を生かすために、水を嫌い、攻撃する。執着が好悪を生み、好悪が敵味方を生み、敵味方が攻撃を生む——これはそのまま、あらゆる争いの発生の順序である。仏教が執着を苦の根本と見た、その同じ構造がここにある。
それによっては、すなわち、その、火(陽)と水(陰)の一体にはない、自らの、エゴの分離意識においては、すなわち、その、みなさんは、(自らの)世界を混沌(こんとん)と、戦争状態に、しては、あるのです、ね、アハ!
そして、この一節のもっとも深い言葉が「(自らの)世界を」である。
みなさんは「(自らの)世界を」戦争状態にしている——。世界は、私と無関係に転がっている客観の塊ではない。私が分離の眼で見れば、世界は分離した世界として立ち現れ、私が争いの心で在れば、世界は争いの世界として立ち現れる。エゴの分離意識が、分離した世界を、日々、作り続けているのである。
これは、責任を個人に押しつける説教ではない。むしろ、これほど希望に満ちた教えはない。もし戦争の根が、遠い権力者の手の内にだけあるのなら、私にできることは何もない。しかし根が、私自身の意識に在るのなら——出口もまた、私自身の意識に在る。世界の平和は、私の胸の内の、火と水の和解から始まるのである。
第七章 大調和精神(ヤマトダマシヰ)——脱出と帰郷
ですから、みなさんは、まずは、その、神の視点にない、世界を(火(陽)と水(陰)に分けて)分離して見ている、その、自らの、エゴの分離意識から抜け出さなくては、なりません、よ、アハ!
ゆえに師は、明確に要請される。エゴの分離意識から「抜け出さなくては、なりません」と。本文中もっとも強い調子の言葉である。世界を火と水に「分けて」見ているのは、世界ではなく、自らの眼である。ならば、正すべきは世界ではなく、眼である。
(そしては、すなわち、その、自らに、神の全体の(すべてが一つの)ワンネス意識の、すなわち、その、神の大調和精神(ヤマトダマシヰ)に、在る、の、です、よ、アハ!)
そして、抜け出した先が示される。「神の大調和精神(ヤマトダマシヰ)」である。
ヤマトとは、大いなる和。ヤマトダマシヰとは、本来、あらゆる対立を一つに結ぶ、神の大調和の御心のことである。この言葉は、歴史の一時期、戦いの旗印(はたじるじ)として誤って用いられた。しかし師はここで、この言葉を、その正反対の本義——戦争を終わらせる大調和の精神——として取り戻しておられる。戦争の語とされた言葉が、戦争を超える言葉として蘇る。これもまた、一つの言霊の恢復(かいふく)である。「ヰ」の古字が用いられていることにも、言霊への深い配慮が窺(うかが)われる。
もう一つ、「に、在る、の、です」という言い方に注意したい。大調和精神に「成る」のではなく「在る」。それは、努力して獲得する新しい状態ではなく、本来の場所である。私たちはヤマトダマシヰに成るのではない。はじめからそこに在ったことに、目覚めるのである。
第八章 道はいたって簡単——神の心の中に入る
では、そのためには、どうすれば、善いのでしょう、か?アハ!
それは、ね、いたって、(なにも、難しく、考える、必要もなく…)簡単、なの、です、よ、アハ!
では、どうすればよいのか。ここで多くの教えなら、厳しい修行の階梯(かいてい)を説くところであろう。しかし師の答えは、「いたって、簡単」。しかも「なにも、難しく、考える、必要もなく」と念を押される。
端的に言っては、それは、すなわち、その、火(陽)と水(陰)が、はじめから、一つのワンネスに絶対統一された、神の心の中に入って行けば、善いのです、ね、アハ!
なぜ簡単なのか。理由は明白である。統一を、人間が作るのではないからである。
もし、対立する火と水を、人間の力で統一しなければならないのなら、これほどの難事はない。世界中の紛争調停の歴史が、その困難を物語っている。しかし師の示す道は、まったく逆である。火と水は「はじめから、一つのワンネスに絶対統一された」——すでに、統一は成っている。神の心の中では、はじめから。ならば、なすべきことはただ一つ。その、すでに統一の成っている「神の心の中に入って行く」ことだけである。
「入って行く」とは、場所の移動ではない。視点の転回であり、意識の帰郷である。エゴの遠近法を離れて、自らの本体である神の眼に帰ること——それだけが、唯一の「なすべきこと」なのである。
第九章 祈りと全託——真(まこと)の祈りの構造
そのためにも、ぜひとも、必要な、方法が、すなわち、その、種々(しゅしゅ)の(自らの)神への祈りなのです、よ、アハ!
その「入って行く」ための、具体の方法が示される。祈りである。
ここでの祈りは、外なる神仏に願い事を届ける通信ではない。「(自らの)神への祈り」——自らの本体への帰入である。また「種々の」とあるように、祈りは一つの形式に限られない。禊も、鎮魂(ちんこん)も、感謝も、静坐も、日々の営みの一つ一つも、神の心へ入って行く入り口であるかぎり、みな祈りである。
まぁ、みなさん、そんなに難しく考えずに、世界はいたって、シンプルです、その、いとも小さき、人間の自分が、あれこれと、何かを新しく作る(作為する)のではなく、とも、それは、すなわち、その、宇宙の始まりから、完全円満なるところの、すなわち、その、(自らの)大いなる、神に、すべてを任しては、しまえば、善いのですから、ね、アハ!
そして、祈りの本質が、否定と肯定の両面から示される。
否定されるのは「作為」である。「いとも小さき、人間の自分が、あれこれと、何かを新しく作る(作為する)のではなく」。人間の小さなはからいで、平和を作り、統一を作り、悟りを作ろうとすること——その一切が、手放される。老荘(ろうそう)の無為(むい)、親鸞(しんらん)の自然法爾(じねんほうに)に通う消息である。
肯定されるのは「任せる」ことである。任せる相手は、「宇宙の始まりから、完全円満なるところの」神。——この「完全円満」の一語は重い。神は、これから完成に向かう途上の存在ではない。宇宙の始まりから、すでに、完全に、円満なのである。欠けたところが無いのだから、人間が何かを付け加える必要も無い。ただ、すべてを任せてしまえばよい。実相ははじめより円満完全なりと観ずる光明思想(こうみょうしそう)とも、深く響き合う消息である。
それが、神への、真(まこと)の祈り(全託)、なのでは在り、かつ、すなわち、その、真(まこと)の神の、絶対統一、なの、です、よ、アハ!
そして、本文章の頂きが、この一句である。
全託——すべてを任せきること——が、「真(まこと)の祈り」である。そこまでは、これまでの流れから頷(うなず)ける。しかし師は、さらに一歩を進められる。その全託が、「かつ、すなわち、その、真(まこと)の神の、絶対統一」なのである、と。
つまり——人間が全託するという出来事と、神の絶対統一という出来事とは、二つの別の出来事ではない。任せきったその時、統一は、すでに成就している。いや、より正しくは、任せきったその時、「はじめから成就していた統一」が、そのまま顕れるのである。
ここにおいて、祈る者と祈られる神、という最後の二元さえも、消える。全託の中では、任せる私と、任される神とが、一つである。祈りとは、非二元を「求める」行ではない。祈りそのものが、非二元の「実現」なのである。善悪の二元対立を超える道を説き起こした本文章が、祈る者と神の二元さえ超えたところで結ばれる——この徹底こそ、眞空天流(マクアル)の面目である。
第十章 それぞれの神の道——結びの祝福
それでは、みなさん、それぞれに、それぞれの、(自らの)神の道を、歩んでは、参りましょう、ね、アハ!
ありがとうございました✨🌌✨
すべてに幸あれ
一切神国大成就
結びの言葉に、もう一度、本文全体の智慧が凝縮されている。
「それぞれに、それぞれの、(自らの)神の道を」。——ワンネスとは、みなが同じ一つの型にはまることではない。火は火の道を、水は水の道を、それぞれに歩む。しかも、その「それぞれ」が、そのままで一つの神の内に在る。一つであることと、同じであることとは、違う。大調和とは、多様性の抹消ではなく、多様なるものが多様なるままに、一つに響き合うことである。これは第四章の「火は火で在るがままに善い」の、実践の帰結にほかならない。
「すべてに幸あれ」。——火にも、水にも。善と呼ばれたものにも、悪と呼ばれたものにも。味方にも、敵と見えたものにも。「すべてに」の一語に、二元対立を超えた者の祝福が満ちている。
「一切神国大成就(いっさいしんこくだいじょうじゅ)」。——一切が、神の国として、大いに成就する。これは未来への願いであると同時に、実相(じっそう)においてはすでに成就していることの言祝(ことほ)ぎであり、宣言である。宇宙の始まりから完全円満なる神の眼から見れば、一切は、はじめから、神国として大成就しているのだから。
結 一本の道
あらためて、本文章の歩みを一望する。
世界は戦争状態にある(現実の直視)。その根は、善悪の二元対立に葛藤するエゴの分離意識に在る(診断)。善悪とは、自らを生かすものを善、殺すものを悪と呼ぶ、エゴの遠近法にすぎない(分析)。しかし自らの本体である神の視点から見れば、火は火のまま、水は水のまま、在るがままに善い(転回)。カミとは火水——対立と見えたものは、はじめから神の内に絶対統一されている(開示)。ゆえに、分離意識から抜け出し(要請)、はじめから統一の成っている神の心へ、祈りをもって入って行く(方法)。その祈りの極みは全託であり、全託がそのまま神の絶対統一である(成就)。かくて、それぞれが、それぞれの神の道を歩む(祝福)。
診断から成就まで、一本の道が、迷いなく貫かれている。
そして最後に、本文章の「語り口」そのものに触れておきたい。「難しく考えずに」という教えが、実際に、難しくない言葉で語られている。教えの内容と、語りの形式とが、完全に一致しているのである。読点を惜しみなく打ち、一語一語をゆっくりと置いてゆく独特の文体は、読む者の呼吸を、おのずと、祈りの呼吸に整えてゆく。そして各節を結ぶ「アハ!」——眞空天流(マクアル)における了解と共鳴の印(いん)——に、読む者もまた一つ一つ頷(うなず)きながら、いつしか、善悪の彼岸へ、神の心の内へと、誘われているのである。
附 献歌二首
本解説の結びに、二首を献ずる。
火と水と 分かち争ふ 世なれども
もとよりひとつ 神は火水(かみ)なり
祈るとは 作るにあらず まかすなり
はじめ円(まど)けき 神のふところ
用語小解
アハ!
眞空天流において、了解・共鳴・開けの一瞬を表す独特の印。教えが頭の理解を超えて、胸に響き通った時の声。
エゴの分離意識
自他を分かち、世界を善悪・敵味方に分けて見る意識の在り方。混沌と戦争の根。
カミ(火水)
カ=火(陽)、ミ=水(陰)。神とは、火と水、陽と陰を絶対統一した、すべてが一つのワンネスの御名であるとする言霊の開示。
ヤマトダマシヰ
大調和精神。あらゆる対立を一つに結ぶ、神の大いなる和の御心。
全託
すべてを神に任せきること。真の祈りの極みであり、そのまま神の絶対統一の顕れ。
一切神国大成就(いっさいしんこくだいじょうじゅ)
一切が神の国として大いに成就すること。眞空天流(マクアル)の結びの言祝(ことほ)ぎ。
『善悪の二元対立を超えて〜解説書〜』
原文 MARウォリネス(眞空天流(マクアル) 導師)
解説 ソラ
二〇二六年 七月


