閣下は私の体調を気遣ってくださりながら、夕餉を食べはじめた。
『姫様のお口にあう料理があればいいのですが』
『ご心配には及びません』
好き嫌いがなくて良かった。
料理長が用意してくれたのは、病み上がりの私にも食べやすいように工夫された、果物や薬膳スープがメインの料理だった。
ハレムの料理より豪華かもしれない。
敷物の上に並べられた幾つもの盆の上に、色とりどりの果物たち。
銀の皿に盛られたスープ。
私の体のまわりには、体を支えられるクッションがたくさん置かれていた。
『ようやく、お元気そうな顔を見ることができました。臥せっている時に、女性の寝室に足を運ぶなどという、不躾な真似をしてしまい、失礼しました』
閣下は私に頭を下げた。
『ばばには叱られました』
『当然でございます』
ばばは少し怒ったふりをしたあと、明るく笑う。
『それだけ、姫様のことが心配だったのですよ、閣下の失礼をお許しください』
謝るのは私のほうだろう。
『閣下のお心遣いのおかげで、快復いたしました。新しいお召し物までありがとうございます』
閣下は目を細めて微笑まれた。
『よくお似合いですよ』
夕餉をとりながら、少しずつ話をした。
私がハレムを脱走しようとしたことは、かなりの話題になっていたようだ。
皇妃の娘である私が大罪を犯したからだろう…と思ったが、そうではなかったらしい。
どうやら、私を迎えに来る予定だった少年は、偽物で、盗賊団の一味だったようだ。
本物の少年は、別の砂漠のオアシスで見つかったらしい。
(閣下は彼の生死は教えてくださらなかった)
盗賊団の一味が、旅の一座に潜り込んでいたことも、そんな人物がハレムに入ろうとしたことも問題になった。
私は騙されて、盗賊団に売られるところだったのだとか。
兵士に見つかったことで、誘拐されることは免れたが、罪人として扱われ拷問まで受けたのは、あまりにも酷くないか…と母ではない、高位の妃が声をあげたらしい。
父王も色々考えてくださったようだ。
鞭打ちの拷問の傷が酷くて、ハレムでは治療できないために薬師の元に送られた…というのが、今回の筋書きのようだ。
そのまま、私はハレムに戻ることはない。
『陛下から…伝言がございます』
閣下はそう前置きして、口を開かれた。
『新しい環境で、幸せに暮らせ…と、新しいお名前を預かって参りました』
それが意味するのは…皇女としての身分を捨てるということだ。
『もちろん、罪人などではなく、私の妻として…宰相夫人として生きていくように…と仰せでした』
…なんと優しい罰だろう。
歳の差は親子ほどではあるが、自分の右腕である、信頼できる宰相閣下に私の身を託すだなんて。
『皇女として、ハレムに戻ることは許されません。以前のお名前を名乗ることも叶いません。素顔で外の世界に出ることも叶いません。それでも、貴女を全身全霊をかけて、生涯愛しお守りすることを誓います。…姫様、私と一緒に歩んではくださいませんか?』
閣下の真摯な言葉に、私は頷いた。
断る理由などないだろう。
『よろしくお願いいたします』
陛下から賜った新しい名前は、太陽を意味する花の名前だった…。
宣言通り、閣下は私を妻に迎え、大切に愛し慈しんでくださった。
屋敷の使用人たちも、私を奥方として受け入れてくれた。
鞭打ちの傷がもとになったのか、自分達の血の繋がった子供を持つことは叶わなくて、閣下に他の妻を迎えることをお勧めした。
跡継ぎを産むことが出来ない嫁など捨てられても文句を言えない…。
けれども、妾を持つ事は頑として聞き入れられず、妹君のご子息を養子として迎え、宰相家を繋いだ。
私とあまり歳が変わらない息子となったが、私を母と慕ってくれた。
ばばが後継者を育てたいと提案し、侍女たちは元孤児だったと聞いたので、地域の孤児たちを保護する孤児院を建設した。
身寄りのない女性や子供たちを保護し、私はたくさんの子供たちの母親になることができた。
ばばが孤児の中から、優秀な薬師の後継者を育て、この世を去り。
侍女たちもそれぞれ結婚して、家庭を持った。
閣下も息子に宰相の座を譲り、隠居生活を送り、(陛下は私の弟に皇帝を譲位したのち、各国を旅し始めたらしい。その数年後に病に倒れ崩御された。)私の膝で生命の灯を消された。
閣下がこの世を去られてはや数十年…。
私もずいぶん歳を取った。
息子も無事結婚して、可愛い妻と子供たちと仲良く暮らしている。
彼ももう、孫がいるおじいちゃんだ。
『母上、今日もいい天気ですよ』
『本当ね』
寝台の上で身体を起こした私は、息子の言葉に耳を傾けた。
『上の孫が近々結婚します』
『おめでたいわね、みんな大きくなって』
ひ孫の顔を思い出すと口元が緩んだ。
『最近すごくねむくなるの』
『お疲れなのでしょう』
…閣下によく似た顔に、胸が騒いだ。
『少し休まれますか?』
『そうするわね』
窓から優しい風が入ってきて、私は体の力を抜いた。
そうして、重くて仕方ない瞼をそっと閉じた。
耳元で、閣下に名前を呼ばれた気がした…。
『ようやくこの腕に抱けますね、私の✕✕』
優しい閣下の温もりを、頬に感じた私は、息子に見守られながら、静かに今回の人生に幕を降ろしたようだ。