”「自分は正しい」と「間違っているかも?」のバランス” | ミラコーの軌跡

ミラコーの軌跡

自分の観察。

 

 

 

このお話とは、

ちょっと論点がズレているだろうけど、

感じたことを書いてみる。

 

 

先日、ブロガーさんと、

猫の話をメッセージでやりとりして、

盛り上がりました。

 

 

うちは今、

猫を飼っていませんが、

3年前に腎不全で亡くなった12歳の猫がいました。

 

 

腎不全って、

猫としてはメジャーな病気で。

 

 

きっとね、

猫について色々調べたり勉強する(?)ことが好きな人なら、

当たり前のように(?)この病気になっていくことが予想出来て、

予防できたかもしれません。

 

 

でも私は、

『猫のきもち』とか講読しない人だし、

と言うか、

猫の本を図書館で借りることすらなくて。

 

 

「うちの猫、風邪もひかないし、丈夫だなぁ~。

さすが雑種!

完全室内飼いしてるのも良いんだろうな♪」

くらいに思ってました。

 

 

完全室内飼いのハズなんだけど、

時々脱走して(笑)

脱走した時の画像(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ?なんか調子悪いな」

って感じたことがあって、

病院に連れてって、

 

そこから時々点滴に通って、

でも、どんどん痩せて、

2カ月後には虹の橋を渡ってしまいました。

 

 

 

猫の病気について、

自分が無知だったことを反省したけど、

 

病院の先生は、

「そうなっちゃうのも当然だよ。

だって、こうなる寸前まで、ホント元気に走り回ってたでしょ?

気付けなくて当然だよ」

と慰めてくれたんだけど。

 

 

うん、

生死を覚悟する為に、

2カ月という、程々の期間を設けてくれて、

 

最期も、

家族皆が揃った夏休み、

皆で見送れる日の、最善のタイミングを見計らって、

うちのトララは死んでいって、

 

トララ目線になってみても、

きっと彼は幸せだっただろうと、

勝手に信じて、見送ったけど。

 

飼い主として、

ちゃんと気持ちは片付いたけど。

 

 

でも、

「果たして無知で良かったのかな?」

ってのは、

未だに残る思いです。

 

 

無知だからこそ、

何も心配せず、

幸せで過ごせる期間は長かったし、

 

無知だったからこその、

後悔もあるし。

 

 

何が正しいのかは、分からない。

 

 

トララのことに限った話ではありませんが、

何が正しいのかが分からなくとも、

 

●過ぎた出来事

●今この瞬間に起こっていること

●これから起こるであろうこと

 

これらを正しいと見なして、

自分で丸印をつけていく。

 

 

人として生きていくのって、

そういうことだなぁと思うのです。

 

 

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と、

前置きが長くなったけど。

 

 

私は、

今は心配性ではない性格になってしまって、

 

(承認欲求を捨てるというテーマを持ってはいるけど)

日常的には、他人のことが気にならない性格になってしまって、

 

色々気にしないで居られる分、

日常的には、楽な気持ちで過ごせているんです。

 

 

 

でも、

『気にしない』ということの種類が、

『余計な心配をしていない』なら望ましいんだけど、

『興味が無い』だとしたら、ちょっと問題かな。

 

 

例えば・・・、

 

 

うちの子供達のことを信じている分、

子供達の教育(≒テストの点数)に、あまり興味無い。

 

 

お金や地震災害に対して、

安心できることなど無いけれど、

「まぁ、どうにかなるだろう」と過信をして、

備えることに、あまり興味が無い。

 

 

・・・・・。

 

 

こうして書き出してみると、

私ってば、結構ヤバイ考え方してない???(笑)

 

 

自分の、気の持ち用のトレーニングによって、

いつも『快』を選択できるようにはなってきたけれど、

時々、一般的な視線(?)に戻って、

自分の快を疑ってみようと思います。

 

 

時々ね、時々(笑)