新型コロナウイルス感染拡大防止の緊急事態宣言期間がこの福岡でもやっと解除されました。とは言え、新型ウイルスを100%抑え込んだかと言えばそうではありません。歴史旅、もうしばらく自粛をすることにします。そこで、ただ今、ブログに載せていない過去の歴史旅をアップしています。今回は6年前の近場歴史旅で訪れた太宰府歴史の散歩道の旅をアップしましょう。

この頃はまだブログをやっていませんでした。歴史好きで、遺跡めぐりが大好きなので、実際に自分が足を運んで目にした史跡を記録に留めておこうと思ったのもブログを始めた理由のひとつでした。この日もブログを始めるために写真集めを意識しながらの旅だったのを覚えています。今考えると、この太宰府歴史の散歩道めぐりがブログを始めるきっかけになったのかもしれません。

 

ここ太宰府は古代の西の都万葉歌人たちも活躍しました。この万葉歌碑から旅を始めましょう。

 

「凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと

振りいたき袖を 忍びてあるかも」 娘子児島

「ますらをの 思へるわれや 水くきの 水城のうえに 涙拭はむ」 大納言大伴卿

 遊行女婦(あそびめ)の児島と都へ戻る大伴旅人が別れを悲しみ詠み合った和歌です。「あなたは高貴なお方なので、私ごときが袖を振って愛していますなんて言えません」と児島が詠むと、旅人が「私は泣いたりはしない立派な男のつもりだが、あなたとの別れがつらすぎて水城の上で涙をぬぐうことになるだろうよ」と答えたのでしょうか。

別れの悲しさは今も昔もかわりません。最初の訪問地で大伴旅人と出会いました。私のペンネームに旅人という名前を使わせていただきましょう。

 

 

水城跡

旅人の和歌で詠まれた水城跡です。今年の3月、大野城の旅で四王寺山から眺めた古代の土塁跡ですね。天智天皇の御代、白村江の戦いで敗北したヤマト政権唐・新羅の襲来に備えて築いた土塁で、全長約1.2キロ、高さ約10メートル、幅約80メートルの規模を誇り、『日本書紀』には「大堤を築き水を貯えしむ、名づけて水城と曰ふ」と記されているそうです。だから水城と言うのですね。

展望台から見るとこんな感じです。

 土塁の内と外、つまり内濠、外濠をつなぐ木製の通水管も発見されています。東門木樋跡です。まさに水城という名にふさわしい遺構ですね。

 

東門木樋跡

 

  「歴史の散歩道」という標識がありました。標識にしたがって歴史散歩を始めましょう。いい感じの森があります。

 

若宮神社の杜

 この森は3本のムクノキの巨木で形作られています。この枝を折ったりすると祟りがあると言われ祭り以外では人の手が加わっていない福岡地方最大のムクノキの森です。

 

 森の中にある祠が若宮神社石扉には享和4年の陰刻があります。年号が記された石祠としては歴史ある太宰府市でも最古のものです。享和4年とは西暦1804年、日本では江戸時代フランスではナポレオンが皇帝に即位した年です。祠の前の礎石は筑前国分寺跡から移されたものだそうです。そうそう、国分寺跡を探してここまでやって来たんでした。ここからすぐのところで発見しました。

 

筑前国分寺跡

奈良時代、大仏で有名な聖武天皇の詔全国に建立された国分寺の一つです。ここには金堂、講堂、そして高さ約50メートルの七重塔が建っていました。こうしてみるとその規模だけでなく、仏教で国を治めようという聖武天皇のお気持ちも伝わってくるようです。 

金堂の礎石も大切にされています。

金堂の礎石

太宰府市文化ふれあい館という施設の庭に国分寺七重塔が建っていました。もちろん、復元された模型です。10分の1スケールですがそれでも大きく感じます。国を護るこの立派な塔の姿に当時の人々は圧倒され、とてもありがたく感じていたことでしょうね。

 

国分寺・七重塔(復元)

 

 また、ここには箱式石棺も展示されています。

 

箱式石棺

  これらは弥生時代から古墳時代のお墓に用いられた石棺です。九州や山陰地方で多く見られました。ここに展示されている石棺は近隣の遺跡のもので、このような石棺に埋葬されたのは強い権力を持ったごく一部の人たちと考えられています。

 

 さすが、歴史の散歩道、国分寺にまつわる遺構も発見です。

 

国分瓦窯跡

 ここは谷を利用した古代の瓦を焼いた跡です。9基以上が確認されました。全国から職人がここに集まって来たそうです。今では保存のために埋め戻されていますが、ここで焼かれた瓦は国分寺や大宰府政庁周辺に運ばれ、古代都市大宰府を彩っていたのだと思うと西の都の壮観な姿が目に浮かぶようです。

 

 国分寺があれば国分尼寺も建立されていました。今では案内板しか立っていませんがそこには「尼寺は法華滅罪之寺と言い、尼僧10人と規定されていた」とあります。

国分尼寺跡

今では花崗岩でできた礎石が一つだけ残されているそうです。

国分尼寺礎石

 少し丘を登った住宅地のど真ん中になんと古墳がありました。陣ノ尾1号墳です。

陣ノ尾1号墳

 住宅地の中の古墳、少々違和感がありますが、どうしてどうして、堂々としたものです。丘陵地のこの辺りは円墳、方墳など4基の古墳が確認された陣ノ尾古墳群です。6世紀末のものだそうですが、歴史の街、太宰府に古墳はちょっと珍しいんですよ

 

 日永の候とは言え、もう日が沈む時間です。この日の旅はここまでにしましょう。西鉄大牟田線、都府楼駅から福岡へ戻ります。駅前には都から大宰府に左遷された菅原道真がここでの生活を嘆いて詠んだ大鏡の有名な詩「都府楼は纔(わず)かに瓦の色を看(み)、観音寺は只だ鐘の声を聴く」を記した碑が立っています。失意の大宰府左遷だったのでしょうが、天神様は我々福岡人の誇りです。天神様を敬う意味でも地元の歴史をたくさん知っていきたいと思います。