9篇 朝の月 夕の月 その3
夏は暑いのが当たり前だけれど、今年の夏は去年よりもさらに厳しく、扇風機の風なんて生温くて、団扇で強く煽いだ方が涼しい位だった。夏休みになると私は母の書道教室でアルバイトをする。何処か他所でする心算だったけれど、母に相談したら書道教室を手伝って欲しいと言われたのだ。毎年夏休みになると生徒が増えるので一人では忙しい様だ。私も母に導かれて小さい頃から書道を習っていたので、今では段持ちの腕前だから、小学生を指導するのには向いていると思う。何より普段は母とゆっくりする時間が取れないので、同じ屋根の下で働けるのは嬉しい。
小学生の一年から六年までは私の担当だけれど、中学生以上は母が担当している。中学生ともなると思春期になるので、年齢の近い私には担当させないで欲しい、と保護者から頼まれたらしい。言われてみれば中学生ともなると体も大きくなって、並ぶと威圧感さえ感じられる事もあるので、私の方もホッとしている。
夏休みは美登利もアルバイトをしているので中々会えずにいた。漸く休みが合って映画に行こうと約束できたのは八月の末だった。二人とも恋愛映画は苦手だったので、迷わず選んだのは外国のミユージカル作品だった。ヒロインの歌声もダンスも素敵で、ストーリーも家族愛を主にしていたので心に染みる物語だった。映画が終わってから近くの喫茶店に入り喉を潤した。映画の感想を言い合ったり、普段何をしているか近況報告などをしていると、美登利が一旦息を吸い込んで私を見つめて来た。何か言いたげにもじもじしている。
どうしたの?
美登利を真っ直ぐに見つめ返して聞いてみた。
交際を…申し込まれたの。
頬を紅く染めて、小さな声で、それでも嬉しそうに言った。
え?誰に?まさか糸井一茂さん?
名前を言い当てられて美登利は目を大きく見開いたまま絶句していた。まさか私が知っているとは思わなかったのだろう。