7篇 菜の花の咲く頃 その11

 

 松本陽一、と名前を呟いてみる。母の顔が浮かんだ。もしも母と一緒に暮らす事を選んでいれば、あの人とは血が繋がらなくても兄妹になっていたのだ。赤の他人なのに、母と家族になったからと言って、兄妹なんて気持ちが追い付かない。なぜ母は再婚したのだろう。父を捨て、私を捨ててまで、自分の想いを貫きたかったのだろうか。ならば父の元に残して欲しかったと思う。そうしたら母が誰と再婚しようと、こんなに心が乱される事も無かった。イチゴケーキの人も淡い思い出になっていただろうに。同じ大学に在籍しているだけでも奇跡なのに、橋田薫とも面識があったなんて、どうしたらいいのか不安になってしまう。これ以上、関わり合いたくない。

 

 夏休みになったので、祖母の居る老人ホームを訪ねてみた。祖母は相変わらず綺麗で優しい表情をしていた。すっかりホームの生活に馴染んでいる様で嬉しかった。母の話をした。時々、会いに来ているらしい。母の話をしている時は、祖母も母親なのだと実感する。私が母に会おうとしない事を気に掛けている様だけれど、私の意志を尊重しているから、と口には出さないでくれる。母に会いたく無い訳では無い。ただ会えば父との思い出が無くなってしまいそうで、母の家族に巻き込まれてしまいそうで、それが怖かった。私が浜田沙織だった頃の家族が私には唯一の家族だから。

 

 祖父母が住んでいた家は母にとっては実家になる。祖母は自分が戻る事は無いし、誰も住まないのだから処分して欲しいと、母に頼んだと言った。ショックではあったが、それも仕方が無い事だ。あのまま朽ちさせてしまうには忍びないし、ご近所に迷惑を掛ける事があってはならない。母が私に無理にでもマンションを購入したのは、実家を処分すれば、私の帰る場所が無くなる事を懸念したのだろう。世の中は個人の思いとは別に回って行くものなのだ。未成年で学生の私に出来る事なんて、何も無いのだと思い知らされた。