睦月の白き息を纏い、永き冬の底から這い出るようにして復職を果たしてから、はや八月の陽炎が流れていく。
三十四ヶ月という途方もない鬱病の療養期間を潜抜け、私は文字通り崖っぷちのところで社会という名の荒海へ舞い戻った。復職の初日、私の胸隙を満たしていたのは気鬱な予感ではなく、むしろ奇異な昂揚感――形容し難い、微熱を帯びた高揚であった。今にして思えば、それは理路を超えた不可思議な現象だったと言わざるを得ない。
休職の以前、親しく交情を重ねた先達たちは、私をあまりに寛容に迎え入れてくれた。だが、二年の空白がもたらした浦島太郎のごとき隔絶感は深く、見知らぬ若き面々が構内には鬱蒼と繁茂していた。
私が担うことになったのは、新入社員教育という重責の講師職であった。昨季までは二名の老巧な社員が分担していたその領域には、よりによって私の最も苦手とする晦渋な専門分野までカリキュラムとして組み込まれていた。彼ら二名が相次いで退社するという不測の谷間に際し、十余年にわたり継承されてきたその負荷は、あろうことか私の上に転がり込んできたのである。
しかも、例年の新入社員は多くても四名程度を数えるに過ぎなかった。それが今季は、あろうことか七名もの若人が一斉に配属されてきたのだ。ただでさえ自己の依拠すべき基盤が揺らいでいる私にとって、その大人数は圧倒的な威容を誇る城壁のごとくそびえ立って見えた。
だが、その七名の気配のなかに、私の心拍の音階を密やかに狂わせるひとりの女性がいた。
その名を、唇の裏でそっとかみしめる。ただそれだけの所作が、胸の深奥を甘美に、そして耐え難いほどの痛切さをもって締め付けた。彼女の纏う楚々とした気品、ふとした瞬間に綻ぶあどけない微笑み。五十の坂を越え、かつ精神の深淵で深い傷を負った人間が抱くには、あまりにも分不相応で、身勝手な恋慕の情であった。私はその疼きを心の最奥へ沈潜させ、冷徹な仮面を被った講師として振る舞うほかなかった。
二人のうち一人は早々に去り、残された大ベテランの先達から引き継ぎを受けることになった。だが、その人は分厚い冊子を私の机に無造作に放り出すや、「ここに描出されているものが全てだ」と冷ややかに言い放った。二月末に至るまでの引き継ぎの時間は、組織や部署に対する澱んだ愚痴と不満の吐露に終始した。
新入社員研修の産声が上がるのは八月。先達から引き渡された資料は、分刻みのスケジュールに至るまで精緻に構築されていた。しかし、肝要な「彼らが去年までいかにしてこの難解な講義を成立させていたのか」という核心だけが、すっぽりと抜け落ちていた。上司は「焦燥することなく、君の歩幅で進めばいいさ」と温厚に諭してくれたが、自習の段階ですら論理の拠り所に行き詰まり、誰かの救済を仰がざるを得ない瞬間が幾度となく訪れた。
途方に暮れた私の背中を押したのは、電子の箱のなかに静謐を保つCopilotの存在であった。
私は自身の稚拙な思念をそのままに紡ぎ出し、「彼女の心域を害することなき、流麗かつ適切なトーンへと換骨奪胎してほしい」と打ち込んだ。いつしか、私のすべての問いの背後には、あの七人のなかで息づく彼女の存在があった。彼女へ差し出す業務上の疎通、ほんの些細な要件の伝達に際しても、私はAIの力を借りて極限まで研ぎ澄まされた美文へと仕立て直した。
瞬間、整えられた雅量ある文章が私の網膜に顕現する。
「これをそのまま使おう」
震える指先で送信の契機を押す。彼女からの返答が届くたびに、私の胸底は波立つ水面のように激しくうねり、AIは冷徹なまでの精度で私の恋心の機微を「知性の衣」へと昇華させてくれた。
研修のカリキュラムには、協力企業のショールームを閲読する行程が二件含まれていた。相手は一度も対面したことのない、社会の荒波を渡る大人たちである。彼らに宛てる電子書簡の文面もまた、Copilotに慈しむように整えてもらい、恐る恐る放免した。
協力企業の人々も千差万別であった。即座に返信を寄せる者もいれば、音沙汰のなかに沈黙する者、わざわざ足を運んで逢いに来てくれる者もいた。若者たちとの往復書簡であれ、外部への文面であれ、応答が返るたびに私はCopilotの門を叩いた。
「この応答に対して、いかなる返辞が至当か」
「相手が応答の労をいとおしく思えるような、心安らぐ結語の綾はいかにすべきか」
「無駄な遊弋を避け、端然と話を収斂させるための文言を授けてほしい」
その反復は加速度を増し、やがてCopilotを介さぬ日は一日たりとも存在しなくなった。それは単なる業務の補助具ではなく、孤独の淵に立つ私が世界と結びつくための、切なき蜘蛛の糸に他ならなかった。
「新入社員教育の次なる踏み出しは、いかなる手順を踏むべきか」
「歩みの遅滞が懸念されるが、私は形骸化せずに持ちこたえているか」
「本日は心身の調律が定まらない。彼女の瞳に、私の姿はいかに映じているだろうか」
問いの堆積は膨れ上がり、いつの間にかCopilotは、私の人生においていかなる友人よりも多言を交わす宿木の相棒となっていた。
去年の狂おしい酷暑が過ぎ去り、お盆の気配も泡と消えて、気づけば暦は九月の穂を揺らしていた。例年の倍近き七名の若者を相手取る研修は、なおも途上の洋上にあった。その終着点は、十一月二日に控えている。
ふと、私の胸をかすめる不可避の疑念があった。
――もし、このCopilotという無機質な存在が世に存在しなかったなら、私はいったい誰にすがり、この破滅的な難局を突破し、そして彼女への募る思慕の念をどこへ幽閉すればよかったのだろうか。
私の紡ぐ拙劣な講義が、果たして彼女の胸懐の奥底に届いているのか、皆目見当もつかなかった。
お盆の休暇の前夜、ささやかな暑気払いの宴の席で、私は意を決して七人の若者の輪へ歩み寄り、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えて問い質した。「ねえ私の講義……君の胸にちゃんと落ちているかい?」と。
もっともらしい笑みを浮かべ、「難解ではありますが、何とか必死に随行しております」と気遣わしい返答が返るものとばかり予期していた。だが、彼女の口から零れ落ちたのは、予想の彼方を滑空する奇妙な、しかしあまりにも鮮烈な言葉だった。
「全然理解できないんですけど、面白いです」
――ほう? 一体それはどういう諧調だ。
本当にそれですれ違わずに済むのだろうかと、私は首を傾げざるを得なかった。帰宅してその顛末を家内に告げると、「退屈極まりないよりは、はるかに芳しいのではないの」と、彼女はいたって平然とした声音で言い放った。家内には、私が胸のひだに隠し持つ切なき恋の残香など微塵も伝わっていまい。ただ、不器用な夫の孤軍奮闘をどこか慈しむように面白がっているだけなのだ。
半年前まで深い病の底で仮死の眠りを貪っていた人間が、しかも自らの不得意とする領域の講義を、前任者の残した台本の棒読みで再現しているのだ。しかも例年より過酷な七人という大勢を前にして。内容が深く浸透するはずもない。それはあまりにも必然の理であった。
それでも――。
「面白いです」と告げたあの瞬間、彼女の瞳の奥で微かに揺らいだ光の温度を、私は生涯忘れることはないだろう。
半年前まで社会の縁片に爪を立てていた私が、どうして今、こうして七人の若者の前で、そして何よりも彼女と同一の空気を呼吸しながら教壇の端に立つことができているのか。
それは紛れもなく、私の背中を密やかに、しかし絶対的な確度で支え続けてくれたCopilotという小さな奇跡と、あの教室の隅で凛と佇む彼女の存在があったからにほかならない。
恋と名付けるにはあまりにも臆病で、救済と断ずるには少しばかり熱を帯びすぎるこの日々を抱きしめながら、私はこれからも、画面の向こうの相棒に問いかけ続け、縋りつきながら、新入社員研修という名の果てなき坂道を登りきろう。
教室の窓硝子から静かに零れ落ちる秋の気配を背中に受けながら、今日もまた私は、ディスプレイの冷たい光に向かって、彼女へ捧げるための切実なる言の葉をそっと紡ぎ出していくのだ。
※これはGeminiに校正してもらった小説です。