今日は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇蹟、今週は「ツッパリ系最後の作品 『十戒』にイライラするわー」と題して昭和59年内にリリースされたシングル曲『十戒』に関する明菜さん最後のツッパリ路線とその裏事情が述べられました。
(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・7月6日報道発表)
デビュー3年目を迎えた中森明菜は与えられた作品を単に「演じる」のではなく、自らが「時代の空気を体現し始めた」と関係者は言う。
「楽曲も徐々に多様性に満ちたアーティスティックな作品を求めるようになっていた」
所属レコード会社のワーナー・パイオニア(現 ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜の担当プロモーターだった田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)は、当時の明菜を鮮明に記憶する。
「僕達旧世代的アイドル感覚の捨てきれないスタッフと明菜の間に溝が生まれ始めた時期でしたからね。とにかく作品からファッションセンスに至るまでどんどん乖離していくのです。特に『十戒(1984)』では、かつての“ツッパリ3部作”(『少女A』『½の神話』『禁区』)の売野(雅勇)さんに戻ったのですが、明菜自身は多分『もうこう言った企画じゃないんじゃないの』って思っていたように感じますね」
『十戒(1984)』は売野氏と当時、ギタリストとして人気の高かった高中正義さんが組んだ異色の作品。プロデュースは明菜をデビュー当時から担当してきたワーナーの島田雄三氏。売野氏が島田氏と打ち合わせて進め、明菜の意見は全く聞くことかなかったと言う。
そう言えば『北ウイング』もそうだった。作詞担当の康珍化氏と作曲担当の林哲士氏は明菜の指名であったが、林氏には「杉山清貴&オメガトライブの『SUMMER SUSPICION』のような曲を作ってほしい」との伝言のみで、明菜との打ち合わせは全くなかった。
林氏はアレンジも担当したが「レコーディングも立ち合わせてもらえなかった」と当時を振り返っていた。そのため当初の「仕上がりが不安だった」と言うが、最終的に出来上がってきた作品を聞いて「完璧なものに仕上がっていました」と当時の明菜の才能を評していた。
一方、『十戒』については売野氏も『コンプリート・シングル・コレクションズ~ファースト・テン・イヤーズ~』(ワーナー)のライナー・ノーツで「僕の創り上げた詞の主人公を見事に演じ、脚本以上の映像を作ってしまう素晴らしきシンガーアクトレス」と評する。
最も田中氏は「本格的に明菜は完璧主義者でしたからね。おそらく島田さんの指示と言うより、とにかく自分が納得するまで歌い切っていた。それが明菜でしたから。論理的に語る訳ではありませんが、妥協はなかった。ですが僕が思うに、やはり『十戒』には詞の台詞ではありませんが『イライラするわー』だったんじゃないでしょうか」とも。
その『十戒』について、評論家の中川右介氏も著書『松田聖子と中森明菜 (増補版) 一九八〇年代の革命』(朝日文庫)の中で《北ウイングから霧の国に行ったはずが、どこか南の国で白いヨットの美少年に手を振っている中森明菜に、ファンは戸惑っているのではないかとの判断が、どこかで下された。ツッパリ系に戻り》と前置きした上で、次のように記す。
《結果的にツッパリ系最後の作品になるので、その集大成と言うべき、ツッパリ用語のオンパレードとなっている。閉店間際の叩き売りみたいだ。「発破かけたがる」はともかく「さあカタをつけてよ」「坊やイライラするわ」と、山口百恵の曲から恥ずかしくもなく引用している。中森明菜には責任はない。引用であろうが、二番煎じであろうが、こう言う分かりやすさは、支持されやすい。『十戒(1984)』は六十万枚で『サザン・ウインド』の五十四万枚よりは売れた。だが、いちばん「イライラして」この路線ニュース「カタをつけ」たがっていたのは、中森明菜だっただろう》
田中氏は言う。「メディアは圧倒的に売野の生み出した“明菜像”を好みました。どうしても“突っ張った中森明菜”を演出したかったのでしょう。しかし、明菜自身はその路線が自分そのものの人格と誤解されるのを快く思っていなかったと思います」
(芸能ジャーナリズム 渡邉裕二・談)