今日は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今年最後である今回では83(昭和58)年シングル曲目『トワイライト』オリコン初登場2位のショックで荒んだムード一変させたその号令と反省から賞獲りに社内一丸となったことが報じられました。
(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・12月29日報道発表)
スタッフを一新して挑んだ明菜のシングル曲目『トワイライト~夕暮れ便り~』であったが、オリコンチャートは初登場2位に。しかもその後も順位は上がらず、デビュー2年目に勢いをつける筈のシングルは最高位2位と言う悔しい結果に終わった。
1位を逃した衝撃は大きかったと言う。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)で明菜のプロモートを担当していた田中良明氏(現在は「沢里裕二」として作家活動中)は当時を振り返る。
「明菜自身もショックだったと思いますよ。とにかく1位を取って当たり前と言うムードが周囲にありましたからね。それは明菜自身が一番感じ取っていましたから。勿論、明菜の担当プロモーターになった私の立場から言っても、理由はどうであれチャート対策は宣伝担当の重要な任務でした。単に数字的に悪かっただけで作品としては素晴らしかったことは確かで、それは誰もが認めるところでしたが、あえて言うならややインパクトに欠けていたかも知れません。『少女A』や『½の神話』と言った売野雅勇の所謂“ツッパリ路線”が明菜の独自な世界として強くイメージ付けられてしまったのです。勿論『スローモーション』『セカンド・ラブ』、そして『トワイライト』と言う“バラード3部作”と交互に打ち出していくことで、明菜のボーカル力を強く示せたのは間違いありませんが、ユーザーの抱く“明菜像”と『トワイライト』の間には大きな隔たりがあったことは否めませんでした」
だがチャート初登場2位と言う結果はスタッフの間にも微妙な影を落とした。
「(新レコード会社のハミングバードへの転職を直前で思い止まった)ディレクター以外は私を含め全員が新しい顔触れでしたが、デビュー2年目の明菜の飛躍を目指して一致団結して取り組んできたにも関わらず1位を逃してしまった。みんな落胆したと思いますね。とにかく今後の展開に疑心暗鬼に陥っていたところもありました」
しかしそんな社内の荒んだムードを一変させたのが、年末の賞レースの狙いの号令であった。その発破をかけたのは明菜の事実上、制作宣伝を統括していた寺林晁氏(現エイベックス・レーベル事業本部アドバイザー)であった。寺林氏はワーナーの邦楽部の宣伝予算だけでは足りないと洋楽部の予算も明菜の宣伝費に組み替えた。ワーナーに詳しかったプロダクション幹部は言う。
「デビュー当時も洋楽の宣伝費を注ぎ込み、総額で1億円の宣伝費を捻出したことがありましたが、再び洋楽部の宣伝費を削減したことに、洋楽の宣伝マンからは不満の声が上がったそうです。しかし寺林さんらしい判断。チャート2位だったことで逆に奮起したのかも知れませんが、ワーナーの社運を明菜に賭けたのだと思います。2年目のこれからの明菜にとって勝負だと思ったのでしょう」
田中氏は言う。「会社的には新人賞レースなどで動いてきましたが、どうしても片手間なところがあったのかも知れません。1982(昭和57)年は小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、早見優、石川秀美、シブがき隊…と各レコード会社が大手のプロダクションと組んで続々とアイドルをデビューさせました。そんな中、明菜は影が薄かった。その後はアーティストとしても、作品としても、数字の上ではトップの座を射止めたことは誰もが認めるところですが、当初は業界内の評価もイマイチで最終的に新人賞レースでは苦杯をなめてきたと言うのが本音でした。そんな反省もあって、2年目は社内一丸となって”賞獲り“に向かうことになったのです。我々も新たな目標ができたと言うことでしょうか。ムードも変わり心機一転、頑張ろうとなったのです」
(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)
80年代歌謡界に於けるアイドル歌手全盛期での明菜さんの過去のストーリーはまだまだあります。来年もまた『歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡』をどうぞよろしくお願い申し上げます