今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は衣装や髪型など見せ方の拘り、気性の激しいことや体調面について報じられました。
(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース/ヤフーニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・9月29日報道発表)
『少女A』に続く『セカンド・ラブ』の選曲は明菜のイメージ戦略としても大成功であった。
ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で プロモート担当していた富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)は振り返る。
「明菜の歌唱力はあえて比較するなら岩崎宏美と並んでいました。商店街のミカン箱の上でも生で歌わせることのできる子でした。なのでシングルはちゃんとコンセプトを持って選曲さえ間違わなければ、絶対に売れると確信していました」
明菜は気性が激しく、自身が納得しないと表情に出た。それが「ワガママ」や「生意気」と表されたことも多かった。
「確かにマネージャーも何人か変わっていましたね。ウチの会社にはよくお母さんが来ていました。現場のことで不満や意見を言いに来ていたのかも知れませんが(制作宣伝を統括していた)、寺林氏とは妙に気が合っていたようです。明菜はお母さんの言うことは聞いていたので、寺林氏のことは信頼していました。僕自身も明菜には言うべきことは言っていましたが、大きなトラブルは一度もなかったです」
小さい頃から体の強い子ではなかったと言う。
「お母さんも体調は心配していました。特に明菜は足が弱くて、ずっと立ち続けているのが苦手でした。撮影でも体調を崩すことが多く、よく控室でマッサージをしてあげました。自慢じゃないですが、僕はマッサージが上手かったんですよ。桃井かおりのマネージャーだった頃は『前略おふくろ様』(日テレ系列)の制作現場で、桃井や(脚本家の)倉本聡さんをマッサージしていました。あと、樹木希林さんにも頼まれたことがありましたね」
しかし『少女A』『セカンド・ラブ』の大ヒットで一気にテレビ出演や取材が増えた。更に年末に近づくにつれ『賞レース』も加わり、スケジュールはハードになっていた。
「年末だったと思いますが、『1/2の神話』のジャケット撮影でも体調が悪くなったように記憶しています。一宣伝マンの意見ですが、もっとセーブしてあげたかった」と振り返る。
「これも明菜の性格かも知れませんが、納得して決めた仕事には愚痴は一切吐かなかったですね。周りに文句を言うのは大抵は仕事の取り組み方に対してです。明菜のペースに合わせるのが大変だったがも知れません。何でもスタッフより前にやってしまう子でしたから。とにかく仕事にはストイックで、誰にも媚を売らない。16・17歳の子に大の大人が指示されるのですから、面白くないと思うスタッフもいたと思いますよ。ところが明菜は毅然としている。事務所も扱いには戸惑っていた部分があったと思います。それでも同期の新人歌手では比較的レコード会社がコントロールできていた部分もあったんです。改めて思い返すと、明菜は自分の見せ方には拘っていましたね。テレビにはどんな衣装で出るかとか、髪型をどうするかとか…例えば『少女A』ではポニーテールにするとか、とにかく本人から提案してくれるのです。なのでマネージャーも楽ではなかったかも知れません」
そんな中、昭和58(1983)年を迎え『セカンド・ラブ』に続く4枚目のシングル『1/2の神話』のプロモーションの準備が発売日の2月23日に向けて本格的に始まったが、そこで思わぬ出来事が起こった
(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)