これは

去年の今頃(2023.5)

下書き保存したまま

アップしていなかった記事。


ちゃんと最後まで書いてたのに

なんでアップしなかったんだっけ…


わからないけど

このブログは

私が感じていたことの記録だから

今(2024.5.26)からでも

あげておこうかと思う。







今朝、YouTubeで知った西村宏堂さん。

林修先生の番組に出演された時のもの。





僧侶で

LGBTQ活動家で

世界的メイクアップアーティスト



どのお写真も

それぞれの世界で堂々と輝いていて

とても素敵。









結局

自分らしく生きることができれば

人は必ず幸せになるようになっていて


この西村宏堂さんも

まさにそれを体現されている方の一人。


自分らしく生きている人というのは

やっぱり

無条件に人を惹きつけるよね。









幼少期から

ずいぶん長いこと

悩んでこられたようだけど


だからこそ

この方は大きな気付きのあと

ご自分の個性・才能を

ここまで開放することが

できたのだろうと思う。




拝見していて伝わってくる

作り物じゃない品性や柔らかさ


きっと

魂年齢も高い。


本当に素敵な方だった。









私ももうずっと

自分らしく生きるということを模索中。





知っている方は

「何年もそう言ってない?」

と思うかもしれない。





でも

「自分らしく」がわからないんだから

少しずつしか進めなくても

それでいいじゃないかと

私自身は思っている。


諦めたわけじゃない。









こないだ

どれくらいぶりかもわからんくらい久々に

姉と電話で話した。


父のお骨を

納骨堂からお墓に移す件で

必要に迫られて。









2019年の夏

瞑想コーチのセミナーを

受ける受けないのあの頃に

私の言い分を聞いてもらえないまま


姉と妹から

否定され

反対され

責められ


距離を置くしかなかったここまで





私の中にも

まだ

どうやって消化していいやらわからない

ネガティブな感情が残っている。


姉の中にも

もちろんまだ色々とモヤモヤは残っている。





それでも

あの頃のように

ただ否定して反対して

というのじゃなく


あの時無条件に止めたことを

悪かったと思うと

謝ってくれた。





お互いにモヤモヤはありつつも

お互いの思うことをいくらか話せた。


まだまだ

全てがスッキリとはいかないけれど。





私は何度か妹から

「謝りもせん!」と言われたけど

謝らなければならないことを

したつもりはない


謝る必要があるとすれば

夫婦で解決すべき問題を

旦那がそちらへ持ちかけたことで

心配をかけてしまったこと


それだけだとも話した。









だってそうでしょう?


お金を借りたわけじゃないし

私は一度も

「理解しろ」「認めろ」とは言っていない。



理解するかどうかは相手の問題

ただ

理解はできなくても

私は私

そう思ってほしかったと


そう伝えた。









私が結婚して十何年

もっというと

ずっとずっと昔から


何をどんな風に悩んできたか

何を努力してきたか


私以上に知っている人はいないし

それを知らない人に

私の選択を否定されたくない。


いや、否定はしてもいい

否定はしてもいいけど

それで私を責めたり

止めたりするのは違うと思う。





深く掘り下げれば


責める気持ちの裏側には

心配とか

置いていかれる不安とか

表面には見えないものがたくさんある

みたいな


そういう話は置いといてね。









だって

誰も私を幸せにしてくれないでしょう?


私の選択が

後々「間違っていたのかも」

というところに行き着いたとしても


それを踏まえての

私の人生でしょう?









姉から

妹とも話したんだけどと

「もう3年も経つやん?」

(厳密にはそろそろ4年)

「あんたは結局幸せと?」

「前に進んでない」

と言われた。





正直悔しかった。


本当に私は前に進んでいないだろうか?


傍から見たらそうかもしれない。

止まっているように見えるかもしれない。


自分自身

全く進んでいないと責めたこともある。





けど

私は

本当に進んでいないのか?


そんなことない



毎日をこなしながら

ずっと自分と向き合ってきた。





止まっていると思われても仕方ないくらい

派手な動きはないけれど


私は止まっていたつもりはないし

少しずつでも

変化はしている。





そもそも

私はあの時

みんなに反対されても


自分の思うことを追求する気持ちを

捨てなかった


それだけでも

私にとっては大きな前進だったと

そう思っている。









結局

人というのは

自分という人間を知り

自分という人間をいかに受容してやるかで


それができて初めて

本当の幸せを感じられる

ということなんだろうから


自分という人間が

一体何を感じているのか

何をしたくて何をしたくないのか

どんな風に生きていたいのか


それがわからないなら

まずはじっくりそこに

向き合うしかないのだと思う。






スピリチュアルの知識を得たからといって

即座に幸せになりますよ

なんてもんじゃない。


だって

送ってきた人生が違えば

抱えてきたものも人それぞれだから。



理論はわかっても

長い間押し込めてきた感情感覚が

大きければ大きいほど

そう簡単には手放せないし

そこに時間がかかるのは仕方ない。









だから私も

自分が追求したいことを

失敗したり回り道したり

時にはやけになったり

時には立ち止まったりしながら


答えに辿り着くまでに

長い時間がかかったって

それでいいじゃない。



そのペースだって

人それぞれでしょう。





何事も

答えがいつ出るかなんて

誰にもわからんよ。





自分なりに

答えを見つけようとしている過程で

「結果が出ていないでしょう?」

と言われても


“過程”である以上

それは当たり前なんだから


自分が追求したいと思う限りは

何年かかっても

何十年かかっても

どんな答えに行き着くとしても


自分自身が気の済むまで

やるしかないよね。









私はさ

目に見えない

この世の真理というものを

身をもって

確かめている最中だと思っていて


自分の想定したルートとは

ずいぶんズレてしまったけど

必ず自分の望む場所に

辿り着くんだから


今はその過程なんだから


その過程で

失敗したり

後悔したり

うまく進まないことがあったりしても

それもやっぱり

必要なことで

大事なことだと思うんだよね。






なんか私

ずっと同じことばっか言ってんなー。