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「セレンディビティ」

 大げさな発見などではないけれども、セレンディビティ的現象は、日常の生活でもときどき経験する。
 机の上が混乱して、いろいろなものが、さがしてもなかなか見つからなくなっているようなとき、返事をしなくてはならなかった手紙のことを思い出す。その手紙が見当たらないから、あちらこちらひっくりかえしてさがすが、出てこない。すると、先日、やはり、さがして、どうしても見つからず、なくしてしまったかと思っていた万年筆がひょっこり出てくる。前によくさがしたはずなのに、なぜか目に入らなかったのである。それが、さがしてもいないときに、出てくる。これも、セレンディビティの一種である。
 もうすこし心理的なセレンディビティもよく経験する。
 学生なら、明日は試験という日の夜、さあ、準備の勉強をしなくてはと机に向かう。すると、何でもない本が目に入る。手がのびる。開いて読み始めると、これが思いのほかおもしろい。ほんの気まぐれに開いた本である。もちろん読みふけったりしようという気持ちなどまったくないのに、なかなかやめられない。
 その本というのが、ふだんは見向きもしない堅苦しい哲学書だったりするから不思議である。ほんのちょっとと思ってのぞいた本に魅入られて、二十分、三十分と読みふけり、一夜漬の計画が大きく狂う。これに類する経験が一度もなかった、という学生生活は少ないのではないかとさえ思われる。
 こういうことがきっかけになって、新しい関心の芽が出る場合もある。それならりっぱにセレンディビティである。
 アナロジーという思考法も、セレンディピティとの関係で考えなおすことができる。
 ことばの非連続の連続を考えていて、ものごとには、慣性の法則がはたらいているという問題に目をひらかれる。それによって、目指す問題を解こうとするのは、変形したセレンディピティであるとしてよい。
 比喩とか、たとえ、というのも、対象そのものの究明をひとまずおいて、まったく違うものの関係を発見し、類推を成立させる。
 中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心の方が活溌に働くのではないかと考えさせるのが、セレンディピティ現象である。視野の中央部にあることは、もっともよくみえるはずである。ところが皮肉にも、見えているはずなのに、見えていないことがすくなくない。すでに前にも引き合いに出している“見つめるスベは煮えない”は、それを別の角度から言ったものである。
 考えごとをしていて、テーマができても、いちずに考えつめるのは賢明ではない。しばらく寝させ、あたためる必要がある、とのべた。これも、対象を正視しつづけることが思考の自由な働きをさまたげることを心得た人たちの思い付いた知恵であったに違いない。
 視野の中心にありながら、見えないことがあるのに、それほどよく見えるとはかぎらない周辺部のものの方がかえって目をひく。そこで、中心部にあるテーマの解決が得られないのに、周辺部に横たわっている、予期しなかった問題が向うから飛び込んでくる。
 寝させるのは、中心部においてはまずいことを、しばらくほとぼりをさまさせるために、
周辺部へ移してやる意味を持っている。そうすることによって、目的の課題を、セレンディピティを起こしやすいコンテクストで包むようになる。人間は意志の力だけですべてをなしとげるのは難しい。無意識の作用に負う部分がときにはきわめて重要である。セレンディピティは、われわれにそれを教えてくれる。