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日本のメダリストのコーチたち~山田満知子〈2〉

 多くの指導者がいる東京ばかりでなく、米国に送り込む計画も明るみになるなか、天才少女・伊藤みどりと山田コーチとの関係はより深くなっていく。しかし、それは一筋縄ではいかなかった。


 山田氏「実はみどりには色々な人から、色々な声がかかったのよ。東京に来る気はないか、とか、外国にいらっしゃい、とか…。色々誘われたけど、まだみどりも小さかったし、一人ではなかなか外に出せなかった。でも私たちが知らない間に、JOC(日本オリンピック委員会)からお金が出て、アメリカのフランク・キャロルとクリスタ・ファッシの所に送るって話が進んでたこともあったんです。彼女が、中学生くらいの時かな?」


 城田「もう、有無を言わせず『行け』って感じだったのね」


 山田氏「そう。私みたいに何の実績もない先生に、『日本の宝を預けられるか』ってことになったんでしょうね。私が(日本スケート)連盟の人でも、そうすると思うもの(笑)」


 城田「いや、そんなわけではなかったと思うよ。ファッシは当時、コンパルソリーを教えるのがうまくて、いい選手をたくさん育てて、『ファッシ王国』を築いてた。ファッシの所に習いに行けば、きっと(表彰)台に上がれる。そんな時代だったからね」


 山田氏「私も、みどり自身が行きたいのならそれもいい方法かな、と思ったんです。でもみどりって、『上手いね!』って人に思われたがるところがあるじゃない? みどりに限らず、今の佳菜(村上佳菜子)たちも同じですけれど、自分が跳べない所を人に見られたくはない。他の先生に『こんな事もできないの?』って言われたくない。だから名古屋で、私の所でしか練習はしたくない、って言う。アメリカ行きの話も『自分で考えて決めなさい』って言ったら、『私、行きたくないです』ってことになったんです。その時、みどりがワンワン泣いてたのを良く覚えてますよ。どうも連盟の人に、『もうお前なんか、試合に出さない』なんて言われたみたい…」


 城田「連盟が、そんなことを言ったんだ?」


 山田氏「みどりも子供だったから、はっきりしたことは分からないけれど…。でも『もう試合に出られない。私はスケート出来なくなる』って言いながら泣いたのよ」


 城田「その話は知らなかった。ただ、『みどりの奴め、断ってきた』ってことは聞いてたけれど…。私もまだ、強化部の見習いだったからね」


 山田氏「それで結局、アメリカには小沢樹里ちゃんと結城幸枝ちゃんが行くことになったんです」


 城田「うん、それは覚えてる」


 山田氏「その頃のみどりは、私によく反抗してた。でも結城さんと樹理ちゃんが絶対うまくなって帰ってくる、と思ったんでしょうね。そこからはもう、真剣になって練習したのよ。思えば私とみどりが一番うまくいってたのが、その頃(笑)。バレエの先生にも付いたりして、私たちなりにものすごく頑張った。それで結局、その年の全日本フリーという大会で、1位を取れたのね。結城さんと樹里ちゃんに勝てて1位を取れた時は、2人でものすごく泣きました。そんなこともあったのよ(笑)」


 城田「みどりちゃんをアメリカに行かせたいと思ったけど、本人に『名古屋から離れたくない』と言われ、当時の土ヶ端武志強化部長は、何かを始めて行く過程での突破口を開きたかったんだと思う。彼は、強面だけれど、実際は心が優しい人だから…。『天才ジャンパーみどり、ここにあり』って世界に打って出したかったという、純粋な気持ちだったと思うな」


 山田氏「やっぱりそうやって、みんながみどりを欲しがる中、彼女が私を選んでくれた。だからこそ、『みどりのために、ここまではしなくちゃいけない!』って。がむしゃらに努力して、エリートの先生たちが出来ないことをやってきたつもりなんです。私の教えてる名古屋の大須リンクなんて、そんなにたくさん選手がいるわけじゃない。その当時は、15人くらいしかいなかったと思うのよ。その中から一生懸命、大島も、みどりも、小岩井(久美子さん、93年世界ジュニア優勝)も、ちょっとずつ作り上げていった。そんな強みはあると思うし、そうやって一から育てていくことが、今でも私は好きなんです。先生によっては、出来上がった選手たちを仕上げることが得意な方もいらっしゃる。でも私は、小さい子から作り上げる方が好き。粘土をこねる所から始めるのが好きで、それが私の仕事だと思ってるんです。子供たちが一流になって、あるレベルまで達したら、『どうぞ。外で頑張っておいで』って感じね(笑)。もう世に出した、世界に出した時点で、自分の仕事としては終わりなのよ。選手だってそこからは、生意気になっちゃうし(笑)」


 城田「そうそう(笑)」


 山田氏「やっぱり先生には、色々なタイプがいる。私の場合は、それなのかな。またあの当時は、私は名古屋だけど、選手は東京じゃなければ上手くならないって、みんなが思っていたのね。連盟が強くて、みんな連盟にいじめられたりして(笑)。名古屋がそうなんだから、ほかの地方もみんな、そうだったと思うのよ。でも私が名古屋でこの仕事を続けることで、若い先生方や地方の先生方も『名古屋でも、山田先生でも出来るんだ』って思ってくれた。「東京じゃなくても、選手は育つんだね」って、たくさんの皆さんが言って下さったし、私はいじめられてる先生たちに、勇気を与えられたと思ってる。だから今、選手として優秀だった人達だけじゃなく、色々な先生たちが頑張って、のしあがって、みんながいいコーチにもなれたんじゃないのかな」


 城田「連盟が地方に意地悪だったって話は、私も知らなかったわね…。そう思われていたんだ…」


 山田氏「私なんて、有名な選手でもなんでもなかった。でもコーチになってからの運は、すごく良かったのね。いい選手にも巡り合えたし、いいママ達にも巡り合えた。あ、ママたちは、私がいい人だから集まってきたんだわ(笑)。苦労というほどでもないけれど、選手と私、ママたちと私で、本当に二人三脚でやってきたのよ。凄いスターじゃなくてもいいから、私はこの子どもたちを導いて行ければいい、と」


 城田「そう言いながら心は…。手作りで、世界一を目指していたのよ。そんな先生の気持ちを私が知らないわけないでしょ!」


 山田氏「その事について、都築先生(章一郎氏)にも言われたことがあるの。都築先生や(佐藤)信夫先生たちは、ロシアと組んだり、外務省と交渉したり、偉い人たちと一緒に飲んだり、すごく大きな仕事をしてらっしゃったでしょう? それに比べれば私なんて、本当に手内職みたいな仕事(笑)。でもね、『まっちゃんは手内職だけど、手内職らしいものすごく良い仕事してる』って、都築先生が「僕達は、ちょっと規模が大きくなり過ぎたかもしれない』って。『手内職は手内職なりの、大きな仕事があるんだね』って。いい話でしょう?」


 城田「いい話。でも、みどりが世界へ羽ばたける選手になるってことは分かっていたと思うよ。山田先生、話し上手だから…。上手いねェ~控えめで。毎回毎回の試合が真剣勝負だったことは確かだったけれど」


 山田氏「だからみどりだってね、どんな選手に育てたかったかといえば、ただ、みんなから愛される子にしたかっただけなのよ。世界一にするんだ、とか、そんな考えは全くなく」


 城田「それは山田流の教科書なのね。確かにみどりちゃんは、愛される子でした。でもまた同時に、みんなの期待を裏切る子でもあってねえ(笑)」


 山田氏「ハハハ。まず最初は、あの時ね。みどりのために世界ジュニアを日本に持ってくる、そんな計画があった時。で、その先にオリンピックに出そうという計画。あれは、いつのオリンピックだったかしら? カルガリー(88年)の前のサラエボ(84年)?」


 城田「サラエボ! まずサラエボのオリンピックにみどりちゃんを出しちゃおう、と」


 山田氏「まだ14歳で年齢が足りなかったけれど、特例があったのよね」


 城田「そう、世界ジュニアで3位までに入れば、規定年齢以下でもオリンピックにも出られるという。その過程を全部、連盟は計算したんですよ。最初のサラエボ五輪では、まあ10位以内くらいでいい。でもその次のオリンピックでは、このくらい、さらに次は…って計算して、アルベールビルの時は、みどりちゃんを台の一番上に上げよう、と。そのために、サラエボオリンピック直前の世界ジュニア(83年)を、札幌に持ってくる。その前の年の世界ジュニア(82年)でも、みどりちゃんに頑張ってもらって、次の年の枠を増やさなきゃならない。私も82年の世界ジュニアには、『チームリーダーで行きなさい。で、みどりの面倒みなさい』って言われてスタンバイしてた。そんな時、連盟の打ち合わせで品川のリンクにあるミーテイングルームにいた時かな、山田先生から電話がかかってきたのね。『ごめんね』って言われて、『ごめんねって、何? どうしたの?』と聞いたら『みどりが、足折っちゃったの』って!」


 山田氏「ハハハハ」


 城田「その年の世界ジュニア、たった一人しか出られないのに! みどりちゃん一人で、何とか頑張らなくちゃいけなかったのに!」


 山田氏「あの頃はね、ちょっと前に上野さん(衣子氏)に言われてたのよ。上野さんは平松さん(純子氏)のお母さんね。『まっちゃん、みどりちゃんは上手なんだから。無理させないで。ケガだけはやめてね』って。それで『分かりました』って言った矢先に、ボーンって、骨折…。ルッツで自分が開けた(氷の)穴にはまったの。空いた穴の上にトゥを突いた瞬間に、グニャンっ! といってしまったんだって。あんなに広いリンクなのに、ジャンプのコースって決まってるんだよね…」


 城田「あの時の、みんなのガッカリ具合ってなかったわよ…」


 山田氏「82年の世界ジュニアもそうだったけど、それからも色々と」


 城田「そうそう、なんといっても東京の世界選手権(85年)! あの時もみどりちゃん、足折っちゃったのよね」


(つづく)