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コーチとして、母として  織田憲子コーチ  2012年6月2日


 

 「けがの治療中のときは、まずは治そうという思いだけで何も心配してなかった。早く治る方法を思案したりしましたが、焦ったり、思い詰めるということは特になかった」。織田信成のコーチであり、母親でもある織田憲子は治療期間をこう振り返った。そして「弱気になったこともない」と口元を引き締める。「けがの原因が分かっていて、目標もはっきりしている。そこでジタバタしても何もいいことはないから」


 コーチと母親。そのスイッチの切り替えはどうしているのか。「リンクに入っているときはコーチで、あとはただの母親。小さいときから何があってもスケートのことはリンクのなかで解決してきた」。織田が7歳のころからそれは変わらない。「天才肌ではないので、努力の積み重ねでここまできた。彼は一人でも練習ができる。見えないところで大変な努力をしてきた」


 小さいころは体が硬かったという。「小学生のとき、普通にしゃがんでも後ろにひっくり返ってしまい、トレーナーの先生に怒られていたくらい。そこから柔軟をして、今の状態にもっていった」。織田コーチのコーチ術は、細やかな気配りにある。「彼はリンク上の練習のほかにジムへ行ったりバレエに行ったりしているので、週の半ばになるとどうしても疲れが見えてくる。そんなときは気持ちが変わるような言葉を掛けたり、練習内容に変化をもたせたりしている」と言う。


 さらに体調やメンタルの状態に合わせて持ち味を伸ばし、やる気を起こさせ、ゴールに導いていく。「良しあしはひと目見て分かりますから。いい状態にするために自分の気持ちを押し殺すこともある」。選手の士気を維持させるには、コーチ自身の強い精神力も必要だという。


 織田コーチが最も重視しているのは食事面。「栄養士のレシピを基に彼の妻が食事を作って、その写真を栄養士に送るということをしている。練習の量や種類に合わせて必要な栄養素は何かというような細かい管理。試合などで遠征のときは代わりにわたしが作り、どこにいても体調が整うようにしています」。すべては大きな夢のために、全力を尽くす。


 「メダルを首に掛けてあげたいんですよ」。一緒に苦楽を共にしてきた教え子、そして息子への思い。「それだけじゃないのですけどね。フィギュアスケートを通して努力することや自分に勝つこと、人としての大切なことを学んできた。それはこれからの後の人生に役に立つと思う。フィギュアスケートはわたしたちにいろいろなことを教えてくれた」と、織田コーチは感慨深そうに話した。


 【プロフィル】織田憲子(おだ・のりこ)1947年5月27日生まれ、大阪府出身。大阪女学院高卒、追手門学院大卒、関大アイススケート部コーチ。