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日本のメダリストのコーチたち~佐藤夫妻〈2〉

 多くのメダリストを育てた信夫・久美子夫妻にとって、初めての世界チャンピオンは、実の娘である有香さん。94年幕張で開催された世界選手権で日本人2人目の世界女王となった。現在は米国を拠点に、ジェレミー・アボットやアリッサ・シズニーを指導し、コーチとして両親に迫る活躍を見せる。スケーター夫妻は、娘にどんな英才教育を施したのだろうか?


 城田「夫婦でたくさんの選手を育ててきなかでも、最初に世界チャンピオンになった有香ちゃんは、やっぱりスケーターにしようと思って育てたの?」


 久美子氏「もう、そんなことは一切ないのよ」


 信夫氏「うちの子どもには絶対スケートはさせない、って心に決めてましたから」


 城田「本当に?」


 久美子氏「主人は特に。有香が始めてからも、ずっとやめさせようとしてたくらい」


 信夫氏「ある時、有香の学校のPTAが品川のリンクを貸し切りしたんですよ。それで有香も滑ることになって、しょうがないから一緒に氷に降りたのが始まりだったかな…。その時も、教えるほどのことはしなかった」


 久美子氏「いや、もっと前からリンクで遊ばせたことはあったのよ。でも1か月に1、2回くらいのもの」


 信夫氏「でもスケートをさせる気は全くなかった。そんな時に、うちの家のすぐ前で有香が交通事故に遭っちゃったんです。大学生の運転する車のタイヤが、有香の足に乗っかっちゃった!」


 城田「有香ちゃん、ひかれちゃったの?」


 信夫氏「そう。それで、親の目の届く所じゃないと危ない、道路で遊ばせるよりはリンクで遊ばせよう、と。その頃、品川では有香と同じ年頃の女の子が3人、僕に習いに来てたんですよ。子どもたちは有香を入れて、「4人組」なんて呼ばれるようになった。ほら、中国の文化大革命で「4人組」って言葉がはやってたから」


 久美子氏「もうそんな話、分からない人の方が多いわよ(笑)」


 信夫氏「4人組といっても、3人はスケートを習いにきてるわけだから、僕がちゃんと教える。どんどんうまくなってくわけですが、有香は生徒じゃないから何も教えない。そんなある日、リンクで突然僕のところに来て、後ろからベルトをぎゅっとつかむんですよ」


 城田「ちっちゃな有香ちゃんが?」


 信夫氏「そう。『何してんの?』って聞いたら、『私にも教えて』って言う。『今、レッスンしてる最中だからダメだよ』って言ったら、『教えてくれないと、ここを動かない』って」


 城田「かわいいじゃない!」


 信夫氏「しょうがないから少しだけ。ほんの5分、スピンの入り方だけ教えたんですよ」


 久美子氏「そしたら1週間くらい、ずーっとスピンだけやっていたの(笑)」


 信夫氏「1週間やってれば出来るようになっちゃうから、また1週間後に5分だけ教えた。そしたらまた教えたことを1週間ずーっとやっている。また出来るようになる。そんなことをだましだましやっているうちに、『私も試合に出る』って言いはじめたんです。『でも、プログラムどうするんだ?』って…」


 久美子氏「そしたらね、有香が『自分で作る』って!」


 城田「本当?」


 信夫氏「『音楽はどうするんだ?』て聞いたら『ママに作ってもらう』と」


 久美子氏「しょうがないから音楽だけね。子供だから1分のプログラム、編集も何もしないで1分だけ切ったものを作ってあげたの。音楽も『これ』って自分で選んで持ってきたのよ。プログラムも、自分で振りつけて」


 城田「本当に自分で作っちゃったのね?」


 久美子氏「そう、初めての1分のプログラムを」


 城田「見たいわね! その試合の映像、残ってる?」


 久美子氏「残ってる。もう、それがおかしいのよ!」


 信夫氏「滑りだして一番最初にスパイラルが入ってるんですよ。そのスパイラルで、つんのめってね」


 久美子氏「前にドーンって、転んじゃった。それきり『うーん』って言って動かない」


 信夫氏「『痛い、痛い』って言って、プログラムも止まっちゃったんです」


 久美子氏「私、それ見て転げ回って笑っちゃた(笑)」


 信夫氏「初めて試合に出るって聞いて、大阪からおばあちゃんが観戦に来てたのにね」


 久美子氏「そう、新幹線に乗って来てくれたのに、転んだ所を見せただけ!」


 城田「でも、自分で自分の音楽を選ぶ事が、子どもの頃から出来てたのね。確かに有香ちゃん、選手になってからも『来年のプログラムどうしよう?』『曲はどれがいいかな?』なんて、すごく熱心に音楽を聴いてたわね。久美ちゃんも『これはどうかしら?』『これは駄目、これはいけるかも』って、遠征先でも音楽のことを色々話してたの、覚えてる」


 久美子氏「好きなんですよ。音楽選びも、プログラム作りも」


 城田「小さな頃から自分で振り付けしちゃうような子だったとはね」


 信夫氏「そこからちょっとずつ試合に出るようになって…。当時、王子のリンクで小中学生大会をやってたでしょう。有香も何回か出たんですが、小学校5年生頃かな、試合前の彼女の練習を見た時に、『あれ、なんだかこの子は面白そうだな』と感じたんですよ」


 城田「その時初めて?」


 信夫氏「うん。ステップをグググッてやったのを見てね。『お、こりゃあ何かあるな』と。それで帰りの車の中で、『有香は本当にスケートやりたいのか?』って聞いた。そしたら『やりたい!』という。『じゃあ、やらせてあげよう。その代り、明日からお父さんは人間が変わるよ』って言った」


 城田「もう、お父さんから先生になっちゃうのね(笑)」


 信夫氏「『人間変わるよ、それでもいい?』って言ったら、『いい』と。そこからですね、『じゃあ、きちっと一から始めよう』となったのは」


 久美子氏「お父さんがやる気になったのは、その時から。でも有香の方は、ずっと前からスケートが好きでね」


 信夫氏「東京の世界選手権(77年)のビデオをTBSから全部もらってきたんですよ。解説なしの音楽だけ入ったビデオ。それを有香は毎日毎日見ていた」


 城田「そこからスケーター佐藤有香は始まったのね。そのうち全日本の表彰台に立って、世界選手権にも出るようになって。そしてリレハメル五輪の3年前くらいかな、カナダの先生の所に有香ちゃんが行くようになったのが」


 信夫氏「うん、有香が『行きたい』って言うんで、一度外の先生にあずけたんです」


 久美子氏「ピーター・ダンフィールドの所ね。年頃になってくると、私と有香が、日常での喧嘩をリンクにまで引きずってしまうようになったのよ。スケートのことには、私は何も言わない。でも口のきき方が悪いとか、そんなことでよくケンカをしてね…」


 信夫氏「女の戦いが始まっちゃったのでね(笑)。なんとかするには、1回親から離すしかないと思った。そこで決断をしたんです」


 久美子氏「実はもともと有香じゃなくて、私たちがピーターに誘われてたのよ。『カナダに来い、一緒に仕事をしよう』と。時期的に、もうちょっと後だったら私たちが行ってたかもしれない。でもあの時期は親の具合も悪かったし、私たちには外国に出て行く勇気もなくて」


 信夫氏「そのピーターの所に、有香が行きたいというので、『何とか頼む』と」


 久美子氏「『しょうがないな。じゃあ預かろう』と(笑)」


 信夫氏「『どこまで出来るかは分からないよ。でも、とにかく連れてこい』って」


 久美子氏「連れていって3日か4日だけ主人がついていて、あとは有香だけ置いて帰ってきちゃった(笑)」


 信夫氏「もうちょっといたかったんだけど、出なきゃいけない結婚式があったからね。それで、後は頼む、何かあったら電話してくれってピーターに言って僕は日本に帰ってきた。有香はいきなり、日本語をしゃべる人が誰もいない場所に残されちゃったんですよ」


 城田「選手を外のコーチに預ける。しかも実の娘を…」


 久美子氏「そりゃあ、心配しましたよ。知ってる人が一人もいないような所ですし」


 城田「でも逆に、英語を覚えるのも早かったのかしら?」


 信夫氏「まず、こんな小さな辞書を持っていかせたんですよ。辞書とノートと鉛筆をリンクサイドに置いて、レッスン。ピーターが何か言って分からないと、有香が辞書を渡すんです」


 久美子氏「それを先生がひいてくれてね」


 信夫氏「有香が辞書を見て、『ああ、そういう意味か』と。一つ聞いたら、それをノートに書かせました。先生がひいてくれた言葉を一つずつ、全部ノートに書いて覚えていった」


 久美子氏「それじゃあ15分レッスン時間をもらっても、実際に習ってる時間は5分よね(笑)」


 信夫氏「そんな状態で始まって。最初の年は1か月半、行かせたんですよ。カナダのオタワだったから、英語だけじゃなくフランス語を話す人も多くて、リンクのクラブ室の中では、チャンポンで飛び交ってるんです」


 城田「そうか、オタワならそうなるわね」


 信夫氏「英語だってダメなのに、フランス語まで聞こえてきてグチャグチャになって、もう分からない。そんな雰囲気だったらしいですよ。トラブルも色々あったらしくて、バスに乗ったら車庫まで行ってしまった、とかね。それで次の年にも行くことになっていたのに、『やめる』って言いだした。僕は怒りましたよ。『行くからには最後まで行くんだよ! 約束したでしょ?』と」


 久美子氏「2年目は、主人が無理矢理、成田空港まで連れていったのよ…」


 信夫氏「成田でお尻をバーンと蹴っ飛ばして、送りだしたんです(笑)」


 久美子氏「やってたわねえ。リュック背負った有香が階段を下りる所を後ろからバーンと。私はもう、辛くて耐えられなかったですよ」


 城田「そんなこともあったのね…」


 信夫氏「それがカナダに行った2年目の年。でもそのあたりからだんだん、有香も良くなっていったのかな。若いですからね、行ったら行ったで、なんとかなる。その土地に慣れちゃえば、人にも慣れ、色々うまくいくようになるんですね」


 久美子氏「言葉の問題さえ越えれば、何とかね」


 城田「しかも有香ちゃん、人懐っこいものね。いったん慣れて、なかに入ってしまえば大丈夫だった。私が試合でカナダに行った時も、よく有香ちゃんが空港まで迎えに来てくれたのよ。外国でしっかりやっていて偉いなあ、と思ったわ」