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日本のメダリストのコーチたち~長久保裕編(4)

 日本人3人目の世界チャンピオンにして、日本人唯一の五輪チャンピオンの荒川静香。多くの選手を育てた長久保コーチにとっても、彼女はやはり特別なスケーターだったという。東北高校卒業後は、国内外で多くのコーチの指導を受けながらも、ルーツである長久保コーチの指導を受けるため、たびたび仙台に帰って来ていたというエピソードもある。長いコーチ人生の中で、最も苦労した選手でもある荒川―その飛び抜けた才能と人柄を振り返る。


 ◆長久保氏・城田対談


 長久保「でも僕は静香に関しても、『出たい時には僕の所を出て行っていい』ってずっと言ってたんですよ。彼女が高校2年の時に、米国に半年行ってたこともあったしね。そうしたら、超デブになって帰ってきちゃったんだけれど」


 城田「そんなこともあったね! もう、腰がこんなに大きくなって、ジャンプも全然跳べなくなった時が、彼女にもあった。あれは米国でアイスクリームを食べ過ぎたのかなぁー?」


 長久保「その時はもう、『俺はそんなやつの練習、見ない!』って言いましたよ。『何キロまで痩せるまで、もうお前の練習は見ないからな』と。それでNHK杯が終わることになって、やっと…」


 城田「痩せて来たのよね(笑)」


 長久保「じゃあ、レッスンしてあげよう、と(笑)」


 城田「静香ちゃんだって、そりゃあ色々あったわよね。才能のある人は、ある人なりに」


 長久保「静香とは、けっこうバトルもやりましたよ。ただ、武史(本田)や岳斗(田村)と違って、フォローが難しいんです。試合の期間に怒った時でも、ホテルの女の子の部屋には入れないから、その後話もできない。今教えてる明子(鈴木)と違って、静香は怒られた後、言い返してこないしね」


 城田「なるほどね」


 長久保「でもガンガン言ったあとは、必ずフォローをしないといけないでしょう? しょうがないから静香の場合はママに電話して、『今日、かなり怒ったよ』と(笑)」


 城田「そういうこと、私も結構あったと思う。選手をガーッと怒って、怒りっぱなしじゃあ、まずい。そのままじゃ気持ちの方が沈んじゃうものね。だから、『あなたに才能があるからこうやって怒るのよ』って、やっぱりフォローはしなくちゃ」


 長久保「本当はそんな時、先生が2人か3人くらいいて、1人が怒ったら他の1人がフォローしたり、2人で怒っても、もう1人は後でフォローしたり、そう出来たらいいんだよね。さらに静香は、ジュニアで優勝したのに全日本に出られなかったりとか、色々悔しい目にもあっていたしね…。確かあの頃は、ジュニアから1人しか全日本に出られなかったのかな? 優勝したのに先輩の選手の方が全日本に出る、そんなことが2年連続であって、『私、どうせ全日本出られないし』なんてすねたりもしたんですよ」


 城田「どうして出られなかったのかしらね?」


 長久保「当時の強化部長が決めたんだよ!」


 城田「え、私? なんで出さなかったんだろう? うーん…。きっとね、何か理由があったんじゃない(笑)」


 長久保「それで私たちは、『いつか見返してやる!』と思ってきたんだよ」


 城田「それは、静香ちゃんにも言われます。『城田さんにあの一言を言われなかったら、私は頑張れなかった』って(笑)」


 長久保「静香はそうやって我慢したかいもあって、結局はトップになれたんだと思う。世界チャンピオンになれたし、五輪チャンピオンにもなれたんだから、それで私はすごく満足してるんですよ。色々いじめられて(笑)、『よーし、なにくそ!』と思ったから、頑張れたんだと思いますし。『先生。私、スケートやりたい!』って本気で言いだしたのも、ソルトレークシティー五輪(2002年)のシーズンに村主さんたちに負けた時なんです」


 城田「私には、『ソルトレークに行けなくて悔しい』ってこと、一言も言わなかったけど…。それは、実はものすごく悔しかったんだろう」


 長久保「特にソルトレークの次の年、あの夏の静香はすごかったよ。東京の大学(早大)に行ってるのに、年中仙台に来て、『先生見て、先生見て』って言ってくる。『うわあ、こいつが本当にやる気になったな。今年はひょっとしたら世界選手権、優勝するんじゃないの?』なんて言ってたら、本当にドルトムント(04年世界選手権)で優勝しちゃったんです」


 城田「静香は東京にいても、時々、仙台に戻っては、先生にジャンプを直してもらってた。跳べた時の感覚に戻さなきゃ、って自分でちゃんと分かってるのよね。そう、あの人、頭がいいんのよぇ」


 長久保「頭はすごくいいよ。さらに彼女は頭がいいのに、本当にバカになって教わることも出来るんです。自分が分かってることでも、先生がこうやれって言ったら、とりあえずやってみる。『えっ、そんなこと無理に決まってるけど、でも先生が言うんだから、やってあげるわよ』と。そこで、『先生、そんなこと出来るわけないじゃん』なんて言う子は、なかなか伸びないんです」


 城田「静香は強情っぱりではあるけれど、素直に聞くべきことは聞くのよね」


 長久保「そう、教わり上手なんですよ。そんな性格とか、才能とか、悔しい経験とかが全部出せたのが、トリノ五輪。あのフリーの朝の公式練習ね、ずっとテレビカメラが追っかけてたんですけれど、あれを僕は日本で見ていて、『あ、静香が優勝できるな』って思った。たとえば(イリーナ)スルツカヤはいい所を見せようと思って、しょっちゅう休憩しながら滑ってる。かたやサーシャ(コーエン)は、まったく体が動いてなかった。そのなかで静香だけが淡々とジャンプを跳んでいて、最後には『何で静香ばっかり撮ってるの?』って思うくらい、テレビは静香しか映してなかった」


 城田「そうでした。試合前の練習で、『もう、3―3―3やっちゃえ!』ってけしかけたら、ほんとに跳んだりしてね(笑)。そんなの本番前に跳ばれちゃったら、他の選手はもう、びっくりしちゃう。『ああ…』って顔してリンクに張り付いて、静香の練習を見てるだけになっちゃう。『五輪なのに、何この練習?』って。あれはもう練習から静香が圧勝だったし、本来の力がすべてあの場で出せたかなって思うのよ」


 長久保「僕はあの朝、7時の飛行機で札幌に行かなきゃいけない仕事があったのに、取材のカメラが来ててね。朝4時から5時までずっと取材されてて、5時過ぎになって静香の演技が始まって、『やったあ!』というシーンを撮られて、慌てて空港まで飛んでいったんです(笑)」


 城田「静香はそうして五輪で優勝して、武史君も岳斗君も全員、五輪を経験させることが出来て。やっぱり彼らは、他の子とは違った?」


 長久保「いや、これは彼ら3人に限ったことではないけれど、仙台の子どもたちは素材自体がまず健康です。ちっちゃいころから歩いたり走ったりしてるから、普通の都会っ子に比べたら、基礎体力がまず違いましたね。仙台の子は、みんな強いんです。50メートル走なんて皆にさせたら、たいてい田舎の子が先にゴールしますよ」


 城田「静香なんて、スポーツは全部出来たっていうものね。水泳も何でも泳げるって言ってたもの」


 長久保「彼女は水泳を選ぶか、スケートを選ぶか、だったもんね。じゃあなぜもっと田舎からいい選手が出てこないのかというと、スケートは、技術を教わって伸びるものだから。基礎体力で劣ったとしても、都会の子はしっかり先生について技術を身につけて、どんどん上手になる。一方、田舎は教える人がいないから、なかなかスケーターとしては伸びない」


 城田「そんな健康で強い子たちの中に、特に素養のある3人がいて、長久保先生がしっかりジャンプを教え込んで、全員が五輪に行けちゃった」


 長久保「いや、あれはたまたまですよ。たまたまあの時期に、皆に勢いがあった。それからジャンプに関してはね、まだそのころの日本のコーチたちには、ちっちゃいころからトリプルをばんばん跳ばす、という考え方が少なかったんです。そんな中で彼らは競うように跳ばせてきてたから」


 城田「あの後くらいから、みんながどんどん跳ばせるようになったのよね。小学生から跳ばせても大丈夫だって分かってきて。でも最近はまた、あまり早い時期から難しいジャンプを跳ばせなくなっちゃった…。ルールが変わって、きちっと回転して降りられるようにしなきゃいけないから、って。私は小さい時は、回転が足りなくてもどんどん跳ばせればいいのに、と思うのよ。跳ばせてから直していけばいいのに、って。だから日本の選手のジャンプのレベルも、これからだんだん下がっていくでしょうね」


 長久保「どんどん跳ばせて体を作っていけば、実はケガも少ないんですよ。例えば、ある時期までずっとダブルしか練習しないできて、奇麗に回れるようになってから急にトリプルをやらせると、絶対、けがをしてしまう。けがの多い子がすごく多くなっちゃうんです。だから僕が仙台で教えていた頃は、けがが本当に少なかった。子どもたちのけがのほとんどは、リンクじゃなくて学校でしてましたよ」


 城田「そうそう、仙台の子が『足、折りました』っていうから話を聞いたら、「氷の上じゃなくて校庭でけがしたんだ』と(笑)」


 長久保「階段を跳び下りて折っちゃった、とかね。仙台の子は、そんなのばっかりでした(笑)」(続く)