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日本のメダリストのコーチたち~長久保裕編(2)

 スケートを始めたのは高校からと遅咲きながら、日本人として初のペア五輪代表に。選手としても名を成しが、コーチとして目指したものは何だったのか? 3人の教え子が日本を代表する名選手に育った。仙台の地で出会った選手とコーチは、どんな日々を送ったのだろうか?

 ◆長久保氏・城田対談

 城田「ペアでオリンピックに出てしまうほどスケートに没頭した長久保君は、家業の歯医者さんを継ぐことができず、スケートのコーチになってしまったわけですが(笑)」

 長久保「すみません、食うためにはもうスケートしかなかったんです(笑)。一度は『スケートをやめて、やっぱり歯医者になろうかな?』と思った時もありましたよ。でも札幌五輪の時はもう、大学を卒業して2年半か3年という時期で。だからオリンピックが終わってすぐ、コーチになったんです」

 城田「でもコーチとして、大きなトライをしようと、そんな気持ちは、あったはずですよね?」

 長久保「まだそのころはね、スケートのコーチで生活ができるなんて、ほぼ無理な時代でしたからね。今はちゃんと仕事になるから、割とたくさんの選手がコーチになろうとするけれど」

 城田「そうそう、私たちが名前の知らないような人までコーチになってるもんね(笑)」

 長久保「やっぱり自分が札幌五輪に出たことで、教えた選手もオリンピックに出してやりたいな、と思ったんですよ。札幌も、僕としては実は訳の分かんないオリンピックだったけれど(笑)。札幌といえばあの、ジャンプの日の丸飛行隊でしょう?」

 城田「ああ、あれはすごかったわねえ」

 長久保「3本揚がった日の丸…。あれは感激だったよね。もう自分の試合なんか、どうでも良かったくらい(笑)。ペアなんて本当にどうでもいいと思われてた時代ですからね。美香保の会場(美香保体育館)に出場者の名前が刻まれた銅板が残ってるんですが、日本のフィギュアスケート代表は、女子の山下一美と男子の樋口豊だけ! 私、出てないことになってますから」

 城田「ひどい! 文句言えばよかったのに…。今からでも追加で書いてもらいましょうよ」

 長久保「それに僕たち、ペアだったから最初の試合でさっさと終わってしまって、あとの男子や女子の試合は見せてもらえなかったんですよ」

 城田「選手なのに見られないの?」

 長久保「私たちだけですよ。『長沢さんと長久保君はペアだから、シングルは見なくていいわよね?』って。暇でしょうがなかったから、選手村でテレビ見てました(笑)。でもまあね、あのオリンピック独特の雰囲気はね、選手たちにも味あわせてあげたいな、と思ったものです」

 城田「いいわね。そんな夢を持ってコーチになったのね」

 長久保「もう、世界選手権とはまったく違うでしょう? オリンピックはお祭りの楽しい雰囲気があって、その中に自分たちが競技しているピリピリ感がある。選手も周りも、みんながピリピリしてる。でもそうじゃない雰囲気を、選手なら一度は体験させてあげたいな、と」

 城田「その夢がかなったのが、長久保君自身がオリンピックに出てから26年後の長野五輪。その前は、都築先生たちと一緒に『ダイエー王国』を築いていたわけですよね」

 長久保「新松戸にダイエーのリンクができる前は、新松戸スターランドってところで9年教えてたんですが、そこが年間を通して開いてるリンクじゃなかった。だから特にコンパルソリーを教える時間が無くてね。フリーは何とかごまかせるとしても、リンクが秋にやっとオープンしてから一生懸命コンパルソリーを練習したって、絶対に間に合わないんです。だからそのころの僕の教えていたジュニアの成績は、コンパルソリー24番、ショート3番、フリー1番でトータル3番、なんて感じでした(笑)。ダイエーのリンクができて、ようやく春夏も練習できる環境が整ったんです」

 城田「そこからはすごかったのよね。無良君から重松君から日本のトップスケーター、いったい何人がダイエーのリンクで育ったんだ? ってくらいの王国が出来上がって。その拠点である新松戸から、長久保君は仙台のダイエーのリンクに移ることになった訳だけど。当時、『仙台に行くのは嫌だ』って渋っていたでしょう? 『こうやって新松戸に根を下ろしてやってきて、選手もたくさん育てたのに、なんで僕が行かなきゃなんないんだ?』って話、私も聞いたことがあるの。『そりゃそうだ』って思ったし、『都築先生、なんで選手がこれだけいる長久保君を遠くに行かせるのかな?』って思った。でも、あそこで長久保君が仙台に行かなかったら、荒川静香と本田武史は出てこなかったかもしれない」

 長久保「それはどうかな? それは分かんないよ(笑)」

 城田「いや、私はそう思うな。長久保君が仙台に行かなかったら、その後の日本のスケート界に起きなかったことだって、ずいぶんあるんじゃない?」

 長久保「いやあ。でも多少の自負はしていますよ。若い選手の育て方、こうやるべきだという形のひとつを、仙台では作ることが出来た。自分でも、そう思ってます」

 城田「武史君と静香ちゃんはやっはりすごいもの。プラス田村岳斗君という、この3人! まず武史君は、もともと仙台じゃなくて、福島の子なのよね」

 長久保「そう、郡山です。郡山の女子選手のお母さんに頼まれて、仙台での僕の休みの水曜日だけ教えに行くことになった。そこでついでに、同じ郡山のクラブの子たちの面倒も見ることになって…。クラブに男の子が1人いたんですよ。その子供が、『先生、僕、スケートをずっとやりたい』って言う」

 城田「それが、武史君?」

 長久保「うん。だから武史のお母さんには、『スケートを本格的にやるんだったら、仙台に通わなきゃ駄目です』って言ったんです」

 城田「思いだしてきた! 最初は福島から仙台に通ってきてたけれど、そのうちにお母さんと本人が仙台に引っ越してきたのよね」

 長久保「武史が中学生に上がる時に、『中学からこっちに来ちゃいなさい』ってことになったので、郡山から通ってたのは小学校6年生までですね」

 城田「私が彼を初めて見たのは6級のテストの時だったかな?」

 長久保「7級ですよ。7級で、もうトリプルアクセルを跳んでたでしょう?」

 城田「そう、しかもコンビネーション! まだこーんなにちっちゃかったのにね。あれは武史君が何歳だったのかな?」

 長久保「中学2年生」

 城田「『あ、これはもう!』と思って、そのままその年のNHK杯、エキシビションに出しちゃったのよ! さっそく世界でお披露目しちゃおう、なんてことになってね。本当に今考えても、彼はすごい才能、最高の選手だったと思いますよ。だって4回転を5種類も跳べる選手なんて、もういない。それはやっぱり長久保先生に子どものころ、ジャンプの軸をしっかり作ってもらったから」

 長久保「でもはっきり言えば、武史を海外に出したのは2年早かったですね。僕は絶対にそう思う。あのロシア人の先生の所に、高校2年のNHK杯の時に行っちゃった。最初は、NHK杯だけロシアの先生が見る、なんてことになってたのに…」

 城田「(ガリーナ)ズミエフスカヤさんね。それが違うのよ! 最初はプログラムを作りに行っただけなのに、彼女がおみやげにNHK杯についてきちゃった! それで、『タケシは私が面倒みるわ』なんて言いだしたから、スケート連盟も会議で、『そこまで言うなら送ってみようか』と…。何と言っても、ペトレンコやバイウルを育てた先生なわけだし」

 長久保「会議で、』長久保から武史を取り上げちゃおうか』みたいな話をしてたんだ(笑)」

 城田「まあ、私たちも迷いに迷って…。でも、本田を勝たせなきゃなんないんだ! ということになってね。あれは長野オリンピックの後よね?」

 長久保「いや、オリンピックの直前のNHK杯です」

 城田「えっ!」

 長久保「長野の時のコーチは、私じゃないです。私はオリンピックで武史を見られなかったから。長野では静香と岳斗しか指導してない」

 城田「そうだっけ?」

 長久保「オリンピックの直前に、持っていかれちゃったんだよ…」

 城田「ああ、今から考えたら、やっぱり当時の私たち、むちゃくちゃしてのよね。でもその当時のズミエフスカヤさんもね、今みたいにおっとりしていなかったの。それはすごい迫力で私たちに迫るのよ。『私がこの子を育てる!』って」

 長久保「そりゃあ、あれだけ能力のある選手です。この子を育てられる、と思ったら、私だって何でもしちゃうよ!」(続く)