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日本のメダリストのコーチたち~長久保裕編(1)

 対談シリーズの2人目は、前回の都築章一郎コーチの教え子でもある長久保裕氏をお迎えする。選手時代には、1972年札幌五輪にペアで出場。98年長野五輪には、本田武史、田村岳斗、荒川静香、ペアの荒井万里絵と4人の教え子を代表に送りこみ、本田と荒川は後に世界選手権メダリストとなった。現在もバンクーバー五輪代表の鈴木明子、さらに若手の今井遥、木原龍一らを指導し、日本を代表するコーチの一人として活躍中である。

 ◆長久保氏・城田対談

 城田「長久保君は都築先生の対談でも何度か名前が出ているから、選手時代の話から、ぜひ。実は私たち、同級生なんですよね」

 長久保「初めて会った時、高校2年生だったんですが、私はまだ始めたばっかしで級も2級くらい。一方、そちらは7級くらい? もう、そのくらい城田さんは上手でしたよ(笑)。僕は確か、バッジテストを一緒に受けたんですよ。あのときは豊(樋口豊氏)の妹・ひとみちゃんと」

 城田「そうそう。ひとみちゃんはうちの妹(湯沢恵子氏)と同級生なの」

 長久保「せっかく東京に出てきて受けたバッジテスト。それなのに私はコンパルソリーで6回も足を突いちゃって、これは落ちる、と思ってたんです。でも審判たちが、『どっちみち山梨からじゃ、なかなか試験を受けにも出てこれねえんだ。2級くらいやれや!』って言ってるのを裏で聞いて、ラッキー!と(笑)」

 城田「そんな長久保君がスケート始めたのは、いつなの?」

 長久保「高校1年生。初めて自分のスケート靴を買ったのが、その年の11月23日なんですよ。そのころ甲府にリンクができたばっかしでね。たまたまよく通ってた。で、自分の靴を買った理由も、何度も通ってたら貸し靴代がかかるからです。靴は4700円でしたしね」

 城田「そんなに安かったんだ!」

 長久保「でも自分の靴で喜んで滑ってたら、たまたま高校の先生に見つかったんです。『あっちゃあ、授業さぼって来てるのに、やばい!』と(笑)。そうしたら、『おまえ、うちの学校の生徒だよな。スケート部へ入れ!』って。『え? 私、もう剣道部入っているんですけど』って言ったら、『冬だけやればいいんだよ。部に入ればリンクの滑走料も出してあげるから』って。ラッキー! これでタダで滑れるじゃん、となって、今日に至ります」

 城田「高校に入ってから始めて…でも私たち、一緒に国体に出てなかったかしら?」

 長久保「11月にスケートを始めて、コンパルソリーの練習なんかもしてたら、『国体予選があるから出ろ』って、12月に言われました」

 城田「すごい急展開(笑)。そのころの山梨は、そんなにスケートする人がいなかった?」

 長久保「県全体で選手が10数人くらいですね」

 城田「さらに男の子は少なかったんでしょうねえ。でも長久保君は、スケートに没頭しちゃいけない人だったはず。実家が歯医者さんだから、本当はお父様の跡を継がなくちゃいけなかった」

 長久保「まあそのころは、ごく自然にそのうち歯医者になる、と思ってました(笑)。そうしたらその冬に、都築先生が稔(佐野稔氏)を教えに甲府に来たんですよ。ついでだから、甲府クラブのみんなも一緒に教わっちゃおうよ、ということになり、先生に習い始めた」

 城田「それじゃあ大学に入って東京に来て、そのまま都築先生に習ったのね」

 長久保「私が日大に入ったその夏に、稔も転校してきたんじゃなかったかな? 彼は小学校4年生くらいでしたが」

 城田「都築先生は厳しい先生。そのころから、けっこう厳しかったんですよね?」

 長久保「厳しい、なんてもんじゃなかったです(笑)。まあ今考えてみれば、自分が教わって来たことがほんの少しだった先生が、自分の出来ないできないことも一生懸命教えてくれてた。ジャンプにしろスケートにしろ、どうしたらこうなるか、なんてたぶん分からずに、『とにかくやれ!』『2回回ればいいんだから』なんて(笑)」

 城田「何も分からないなかから模索して…」

 長久保「でも先生の情熱みたいなものは、本当にすごかったですね。それはいつでも、伝わってきてた。私の方も、何が何だか全然分からない状態ですよ。初めて国体予選に行った時も、誰が何のジャンプを跳んでるのかさえ分からない(笑)。知ってたのは『アクセルっていうジャンプがあるらしい』と、そのくらいです。山梨の人は、アクセルしか練習してなかったから(笑)」

 城田「実はけっこう遅咲きなのね。そこから長久保君、よくオリンピックまで行ったわよね。ペアは大学何年生の時に組んだの?」

 長久保「2年生。1年生の時にプロトポポフ夫妻(リュドミラ・ベルソワ&オレグ・プロトポポフ組、インスブルック五輪、グルノーブル五輪優勝)の16ミリ(フィルム)を初めて見たんですよ。都築先生がどこかから持ってきたもので、『うわあ、きれいだなあ…。俺、これやってみたいな』って思った。パートナーの長沢先生(長沢琴枝氏)も、そのころたまたま静岡から川崎の高校に転入してきてたんです。それで、『ペアやりたいね』なんて話をしてたら、先生も『やってみろ』と」

 城田「でも当時、その16ミリしかお手本がなかったんじゃないの?」

 長久保「ちょうど井口さん(岩楯駒子 & 井口政康組)がペアを始めてたんだけれど、僕らが始めたって聞いた途端、秘密練習になってしまって、滑ってるところを見せてくれない(笑)。16ミリなんて、手のつなぎ方とか細かいところなんて見えないでしょう? こうやって握っていた手を、リフトの時にどうすればつないだまま2人が同じ方向を向いて持ちあげられるのか? 『あ、こういうふうにやるんだ!』って分かるまでに、3か月くらいかかりましたよ」

 城田「練習を見せてはもらえなかったけれど(笑)、他にペアがいるくらいだから…私たちの同級生か一つ上くらいの世代、スケートをする人がすごく増えてきたんですよね」

 長久保「たぶんそのころ、みんなが力を入れて来たんですよ。それ以前は特別な人しかオリンピックや世界選手権に出られなかったスポーツが、少しずつだけれど誰でも頑張って一番になれば大きな試合にも出られるぞ、となって来た時代じゃないでしょうか」

 城田「でもやっはりペアに対しては、みんな冷たかったわよね。あのころは札幌五輪に向けて、シングルをどれだけ強くするかにかかりきりで」

 長久保「ペアなんてみんな、どうでもよかったんですよ(笑)。本当にひどかったぞ。全日本の時なんか、『ペアは6分の練習いるか?』って聞かれたんだ」

 城田「あ、それは私も見てる。ペアは練習もしないでいきなり試合を始めちゃったから、『まずいじゃない、危険じゃない?』って思ったことがあるもの」

 長久保「ペアは競技者自体が少なくて、連盟にもほとんど経験者がいなかったんです。だいたいペアをやるようなのは、みんな、がさつな私たちのグループの人間で(笑)、城田さんたちの優雅なグループの人たちじゃないから。それに『やろう、やろう』となっても、なかなか長続きしないんです」

 城田「ペアはケガをしやすい。女の子をスロージャンプで放ってケガさせるなんてことになったら…やっぱり危険だからって、ご両親がなかなかやらせたがらないしね」

 長久保「さらにペアは、練習する環境がないんです。今もそうですが、シングルと一緒には練習しにくい。ペアのためにリンクを貸し切らなきゃいけないから、異常にお金もかかるし」

 城田「でも都築先生の話だと、長久保君はペアの選手としてロシアの試合にも行ったんでしょ?」

 長久保「あれも大変だった。お金がかかり過ぎて…練習するだけでお金がかかるのに、外国に試合に行くなんて無理です。俺は行かない、って最後まで言ったんですけれどね」

 城田「そりゃそうよね」

 長久保「でもロシアの連盟が長沢&長久保組は招待するよ、というので行きました。第1回ロシア杯。しかもロシアは、試合だけじゃなくてペアの練習もしなさいといって、モスクワに2週間も滞在させてくれたんです」

 城田「すごいじゃないですか! 都築先生が、みんなで感激した、びっくりしたっていう、初めてのモスクワ」

 長久保「たぶん僕が大学3年生のころです。でも一番よく覚えてるのがね…あのプロトポポフと一緒に6分の練習をしていてぶつかりそうになって、向こうが奥さんを落としちゃったこと! お互いにリフトをしていて、危ないところで両方が止まったけれど、結局はぶつかっちゃった。僕は長沢先生を何とか降ろせたけど、向こうは落としちゃって…『大丈夫ですか?』って」

 城田「大変だ! でもロシアでいろいろなことが学べたでしょう?」

 長久保「面白かったのが、ロシアに行く前にスターリフトって技がやっとできるようになったんです。そうしたら『その技は禁止になったよ』なんて言われた」

 城田「ええっ!」

 長久保「おーい、ちょっとスケート連盟! そのくらいは教えてくれよ、って(笑)。せっかくできるようになった技なのにねえ。試合に行って初めてルールがわかったんですよ。でもロシアに行っていろいろ勉強したこともあって、とりあえず僕たちはグルノーブル五輪(68年)に出られるというところまで来たんです。でも僕がインカレに出ちゃったことで、『長久保たちはオリンピックに出さない』って」

 城田「あのころちょっと、変なルールがあったのよね…」

 長久保「日本スケート連盟は、インカレに出た選手はオリンピックに出さない。でも大学は、インカレに出なくちゃダメという。学校を辞めたくないから、仕方なくインカレに出たんですが」

 城田「あのころ長久保君たちの日大が強くなってきたこともあって。ちょっとそういう意地悪があったのかもしれない。要するに、連盟で幅を聞かせてる大学があって…」

 長久保「それを知ってたら、私もその大学に入ってたのに(笑)。山梨から出てきて、結局スケート界のことは全然知らなかったんです。で、長沢先生に『オリンピック行きたかった』なんて泣かれて、グルノーブルできっぱり辞める予定が、もうちょっと続けることになってしまった」

 城田「お金もかかるのにね」

 長久保「お金もですし、シングルだってこれだけ遅れてるのに、ペアはさらに世界とはレベルが違い過ぎました。それに情報も入って来ない。だって初めてルールブックをアメリカから送ってもらって手に入れたのが、札幌五輪の前の年ですよ! そこでやっと、『あ、これでルールは大丈夫』ってことになった」

 城田「面白いわよねえ(笑)」

 長久保「でもね、選手時代に何も知らないでペアをやっていたおかげで、いろいろ調べることを覚えて…。それがコーチになってから、選手にジャンプを教える、そのための基礎になったような気がするんです」(続く)