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日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(3)

 日本人で最初の世界選手権メダリスト、佐野稔。ジャンプ能力などに秀でた彼ではあったが、日本国内での練習だけでは、やはり世界のトップスケーターと渡り合うには限界があった。まな弟子をさらに強くするために必要なものは何か―。都築章一郎コーチは、フィギュアスケートの伝統国であるロシアに目を向けることになる。はるか遠い大陸に渡った若き師弟が、驚がくしつつも学んだものとは何だったのだろう。


 ◆都築氏・城田対談


 城田「佐野君を連れて、ロシアへ―。まず彼と一緒に練習に出かけたんですか?」


 都築「いや、実はいきなり、ロシアの試合に出させたんです。日本で試行錯誤を重ねて、7、8年目くらい、佐野が14、15歳くらいのころかな? まだまだスケーターとして完成されていない佐野と、当時ペアをしていた長久保も一緒です。今のロシア杯の前身にあたる大会に、みんなで出場して…。それでまあ、ショックを受けたわけですよ。試合の結果など、言わずもがな(笑)。それ以上に僕たちは、ロシアのスケートを初めて見て、さらにエキシビジョンから何からすべて初めて見て…。もう、本当にショックでね(笑)。僕も選手たちも、みんなどうしたらいいのか、わからないような思いだった」


 城田「ロシアから都築軍団が帰って来た時にね、『すごいんだ、やっぱりアメリカじゃないんだよ。ロシアに目を向けなきゃいけない!』。そんな話を先生から聞いたのを覚えていますよ(笑)」


 都築「そんな話もしましたか(笑)」


 城田「それは驚きますよね。当時からロシアのスケートのコリオグラフィーはすごかった。音楽とスケートの調和の素晴らしさ、バレエの要素が氷上に反映される、その美しさ…」


 都築「氷上の動きと、バレエの動き。これが一体となって常にそこにある、そんなスケートなんです。選手たちは毎日、氷の上に乗る前に必ずバレエのレッスンを受ける。そのバレエの素養を基礎からきちんと身に付けた選手たちの演技を見て、フィギュアスケートもスポーツってだけじゃない、やっぱり芸術なんだなってことを僕はそのとき知ったんです。そうか、スケートって、僕たちの考えていたものとは違う。こういう選手を、日本も作らなくちゃいけないんだ、と」


 城田「一気にやらなければならないことが広がりますよね。音楽、振り付け。そこに気を使うために、美しいポーズを取らせるために…。選手たちの体も基礎から作らなくちゃいけない」


 都築「さらに芸術面だけでなく、ロシアの選手のジャンプの軸の取り方のうまさなどにも、圧倒されましたしね。ジャンプに関してはある程度頑張って来たつもりだったけれど…。僕のそれまでの独りよがりの指導が、すべて吹っ飛ぶような思いでした。さらにはコーチも専門的なジャンルに分かれていて、振り付けの先生、バレエの先生、ジャンプの先生…。すべての専門家がそろっていた。当時の日本じゃ、そんな指導方法など考えられなかったですよ。もう、スケートを教える、その仕組みからして全然違っていたんです」


 城田「そこで驚いているところに、デュークとルイシキンに出会うわけですか?」


 都築「そう。ロシアのペアの名コーチ、スタニスラフ・アレクセイ・デュークと、振り付けや音楽の専門家、ヴィクトル・ルイシキン」


 城田「すごい先生たちですよねえ」


 都築「2人を紹介してくれたのは、当時のロシアスケート連盟会長のブァレンチン・ピセフ氏です。ロシアのスタイルを学びたいという私たちにとてもよくしてくれて、日本にロシアのスケートを伝えることに、とても力を入れてくれた。彼のおかげで、当時の五輪王者を育てたすごいコーチたちを紹介してもらって、佐野をはじめ日本の選手たちが指導を受けることになったわけです」


 城田「まあ、めったに教えてもらえるコーチではない」


 都築「そのころはまだ、(タチアナ)タラソワとか、タマラ(モスクビナ)はまだまだ若手で(笑)」


 城田「(アレクセイ)ミーシンも、若手と言う時代でしたか? 今の一流の名コーチたちの、さらに上の先生たちに習うことになったわけですね」


 都築「はい。まあ、とにかく、初めて行ったロシアで違う世界を見てしまったものですから、何とかしてこれを吸収しよう、しなくちゃいけない、と。せっかくロシアと交流できるというすごいチャンスを得たんですから、それをどう日本に導入していくか、選手たちの練習に反映させていくか。ずいぶん考えましたよ」


 城田「先生たちがそのロシアのコーチたちを日本に呼んで、夏休みの選手たちと合宿をしていたこと、覚えてますよ」


 都築「そのころになると佐野も力をつけてきていますし、日本スケート連盟もかなりバックアップしてくれるようになりましたね。日大の友人たちは相変わらず力になって、『デュークを呼ぼう、ルイシキンを呼ぼう!』と盛り上げてくれた。さらにはダイエーの中内功さんも協力してくれるようになった」


 城田「東武百貨店のリンクでお仕事をしていて、それから品川のリンク(西武)に移り、選手を指導していた都築先生をダイエーグループが誘い、新松戸の新しいリンクに招いた。『リンクは君に任せるから、いい選手を作って下さい』と」


 都築「彼らを日本に呼ぶための金銭的な援助も得られて…。そんな道もありがたいことに開けてきたんです。初めてロシアに行った年から毎年毎年、春、夏、冬とデュークやルイシキン、さらにボリショイバレエの一流の指導者などを日本に呼ぶことになりました。そんな交流が、それから10年は続いたでしょうか。デュークなど、長い時は半年くらい日本に滞在してくれましたし」


 城田「確か五輪後に、ロシアの選手たちが日本に立ち寄ってエキシビションをしたりもしましたよねえ~」

 都築「リレハンメル五輪の後ですね。佐野の時代から始まって、彼だけでなく、当時の新松戸のダイエーのリンクの子どもたちは、ずいぶんロシアの指導者や選手たちの影響を受けたと思います。五十嵐文男、松村充、無良隆志、重松直樹、天野真…」


 城田「ダイエーのリンクから育ったペア、小山朋昭君と井上怜奈ちゃん、それからロシア人のアレクセイ・ティホノフと組んだペアの川崎由紀子ちゃん。彼女たちも大きな影響を受けていますよね」


 都築「新松戸で育った川口悠子が、のちのちロシアを選んだことも、そんな根っこがあると思うんです。彼女もダイエーのリンクでたくさんのロシア選手たちや、練習の仕方も見ていて憧れていた。それでロシアのタマラに手紙を書いて。という経緯があるんですよ」


 城田「実はこのロシアとの交流は、他にも様々な部分で影響をもたらしているんですが…。本題の佐野君に戻ると、彼はそうしてロシアのスケートを吸収しながら、毎年ロシア杯に出場を続けていたんですね」


 都築「そう、でもやっぱりなかなか点数を上げてもらえなくてねえ(笑)」


 城田「ところがそんな努力を続けていくうちに、ある年に表彰台に上がってしまった!」


 都築「(中学生だった)佐野が初出場から7年後、ついに本場ロシアの試合で、3番になってしまったんですよ!」


 城田「あのときはロシアの観客も、関係者もうびっくりしていて(笑)。やっぱり佐野君はすごいなとの思いと同時に、都築先生の肝いりの佐野君がやはり熟しつつあると思いましたよ」


 都築「そうですね。国のお歴々が見に来るような大きな試合でね。選手たちと僕とでロシアへ行って驚いて、何とかこのスケートを吸収しようと、その衝撃を大きなエネルギーに変えて頑張って…。そしてやっと、憧れていたロシアの地で表彰台に立つまでになったんです」(続く)