庭の雑草取りに汗を流しながら考えたことがある。中には白や紅い小さな花を咲かせている草もある。花は無くても根を張り葉を出して、精一杯伸びようとする力を思わせる草もある。それらを鍬でガリガリ削ってしまわなければならないが、こちら人間としては伸び放題で草屋敷にするわけにはいかない。昔から繰り返している雑草取りで、やらなければいけないし当然のことでもある。しかし抵抗する術もない草たちにしてみれば、
災難であり無念至極だろう。その証拠に一週間もすればまた残った根から目を出し伸びてくる。決してあきらめることはない、かくして夏中激しい雑草との戦がつづく。
秋から冬にかけては次第に休戦状態になっていくが、全く小競り合いが無くなる訳でもない。こちら人間とあちら雑草の立場の違いは、草の命の価値観も正反対にしてしまう。
雑草だけでは無い、人間社会はあまりにも立場の違いが多すぎる。
人間は個人が固有の立場を持っている、そのため家族や親族間はもとより近隣、社会、国家間まで自己の立場で考え動く。経済も政治も産業も文化も人間の行動はすべて立場の相違が基本になる。
米中の南シナ海問題も沖縄の普天間も、舛添都事の政治資金もすべて立場の違い論がベースになる。折り合うには譲り合いしか無いのが悲しい。
雑草が今日はいろいろ考えさせてくれた。