割礼は宗教を盾にした親の身勝手か。 | 無題

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割礼を合法とする判決がドイツで下された。論点は、これが傷害罪に当たるか否かである。

割礼はユダヤ教徒の儀式の一つで、歴史は長い。一方で人間には他人から傷つけられない自由というものがある。信教の自由と、子供の人権の対立の調整が問題となっているわけだ。

この話で真っ先に思い出したのが、「エホバの証人」の信者が、自分の子供に対する輸血を拒んだ事件だ。この場合も、親には当然子供のの養育義務があり、これと信教の自由が対立している。

輸血拒否というと分かりやすいが、しかし数千年の歴史を持つ儀式行為ともなると、これを単に傷害行為とするのは難しい。

以前子供に「悪魔」と名付けようとした親がいたが、しかしこれも親が勝手に子供の権利を侵害している点では変わりがない(具体的に何という権利かは難しいが。幸福追求権であろうか)。
では、「悪魔」と命名する行為が受け入れられず、割礼が受け入れられるのは何故であろうか。


これは「子供の容認可能性」によるところが大きいと思われる。ユダヤ人の親に育てられ、ユダヤ人のコミュニティで育った子供が、ユダヤ教徒にならない可能性は極めて低い。割礼を受け入れられる可能性は十分すぎるほど高い。一方で「悪魔」という名を背負って生きていくことを受け入れられる子供はまずいない。
こういった観点で子供の権利と信教の自由を利益衡量して、割礼を合法としたのだろう。

勿論これは現在の価値観で、という話だ。アメリカでは神の存在を信じない若者が増えているそうだ。多様な価値観が大事にされる現代で、宗教を押し付けられることに反感を感じるが子供がいても不思議ではない。その場合、割礼は障害行為に他ならないであろう。
そういった子供が増えてきた場合、割礼を合法とする考えは、宗教を盾にした親の身勝手に様変わりするだろう。

宗教に疎い日本人は割礼を単に野蛮な行為と断じてしまいがちである。
しかしまずは、宗教的側面を十分に考慮に入れて考えたい。それを踏まえた上で現状を見て、野蛮かどうか判断しなければならない。そうではくては、日本人こそ偏ったものの見方しか出来ない野蛮な人種になってしまう。


 photo:Blue Blue Ocean by danny.hammontree