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「侵略的行為」「領土拡張」へのソヴィエト側の論理とは

歴史から考える「ロシアの戦略」(3)ロシアの領土拡張と「2つの願望」

山添博史

山添博史

防衛研究所 地域研究部 米欧ロシア研究室長

情報・テキスト

日露戦争を経て、アジアからヨーロッパ諸国へと侵攻の矛先を変えていったロシア。一見、拡張主義的な侵略行為に見えるロシアの動きだが、そこにはどのような意味があったのだろうか。第1次世界大戦期までを振り返り、ロシアの領土拡大とその背景にあった「2つの願望」について解説する。(全7話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

時間:13:22
収録日:2024/01/18
追加日:2024/03/04

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≪全文≫

●日露戦争後、日本とロシアは協商・同盟関係になった


―― そのような形で、ロシアがアジアに出てきます。ここでまず、日本と日露戦争になるというところなのですが、先ほど先生がおっしゃったように、ロシアとしては弱い相手には攻めてくると。

 日本はやっつけられると思ったというところですよね。

 しかし、それが叶わずに日本に事実上負けるということになるかと思うのですが、最終的にはそれでアジアに対する考えというのは少し変わったのですか。

山添 そうですね。ぶつかることによって、日本と戦うコストが高すぎるのだということがはっきりしました。

 もともとセルゲイ・ウィッテ(帝政ロシア末期の政治家/日露戦争でのポーツマス講和会議の全権)などの人々は「勝ったとしても、非常にコストが高いのだからやめておけ」ということだったのですけれど、実際に戦って、勝てもしなくて、さらにはその戦争の負担によって国内が不安定化して革命騒ぎも起こってしまっている。そういう状況よりは、ロシアが持てるところをしっかり保持できれば、極東では十分やっていけるということで、むしろ日本とは同盟の時代に入っていくわけです。

(つまり)日露協約の時代があって、3回更新されているのですが、3回目(の更新後)はほぼ同盟という形で、第1次世界大戦の時には日本は帝政ロシアとの同盟国ということです。ぶつかることによって「ここまででよい」ということがロシアには分かったので、それによって日本とうまく生きていく道ができました。逆にいえば、そこまで本気で戦い続けないといけないような場所ではなかったということです。
 

●「侵略的な行為」についてのソヴィエト側の論理


―― 日露戦争から第1次世界大戦までの間、極東以外の土地におけるロシアの戦略というのはどういうイメージだったのですか。

山添 やはり、極東への拡張の願望がそこでいったん止まったので、本来のやるべきことということでロシアのナショナリストがまた「極東よりもバルカン半島だ」と言い始めています。そこで先ほど(第2話で)いいましたように、オスマン帝国のもとのブルガリア人、セルビア人の独立を助けていく。これはもう独立にはだいぶ進んでいるのですけれど、そこでさらに勢力圏を増やしていきたい。

 そうすると、セルビア人を圧迫し制御しようとしていたオーストリア・ハンガリー帝国とぶつかるようになっていきます。何回かのバルカン戦争というものも起こっていくのですけれど、民族と独立をめぐる問題も1つの原因になって、オーストリアとロシアの対立が大きくなっていきます。バルカン半島での衝突にドイツも加わってくるし、フランスも加わってくるということで、第1次世界大戦として大きくなったわけです。

―― そのような形で第1次世界大戦というものが起こってしまって、ロシアとしては相当ひどい被害を受けて、国自体が持たなくなって、ソヴィエト・ロシア、いわゆる共産主義の国が出来上がるということになるわけですが。

山添 はい。まずロシアの帝政が倒れた二月革命で、成立したのは臨時政府です。この政権はまだイギリス、フランス、日本、アメリカの同盟国としてドイツと戦っている状況でした。

―― はい。

山添 ですが、「もう戦争もやめてしまえ」という主張をして、革命をもう1回起こしたのがレーニンのボリシェヴィキでした。これが十月革命です。

 そうすると、もうここで「即時に戦争をやめる」「ロシアは離脱する」というようにソヴィエト政権でやってしまったので、結局ドイツに味方するような政権がロシアの中にできました。

 これを潰さないといけないということで、イギリス、フランス、アメリカ、日本が軍を送り込んで、ソヴィエト政権側と旧政権側のロシア、その内戦と干渉戦争が(1917年から1922年まで)激しく続くわけです。

 日本はかなり長くまで残りましたけれど、それを経てやっと生き残ったソヴィエト・ロシアは、もう外国が敵だらけであるわけです。外国の資本主義国は攻めてくるのだという危機感でやっと生き残ったという状況なので、これは生存に対して非常に敏感になっています。

―― その時、レーニンはどういう戦略を採ったのですか。

山添 まずは、内戦の途中で一時的にドイツに明け渡してしまった領土、今のポーランド、ウクライナ辺りのいくらかを、ドイツの敗戦と革命の後に取り戻していく、というような戦争を始めていきます。

 いったん独立状態になったウクライナを軍事的に征服します。ポーランドとも戦争がありました。これらを通じていくらかの領土を回復してソヴィエト・ロシアができます。

 その状態でもなかなか他の主要国、イギリス、フランスとの国交を回復することができていませんし、国...

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