塩顔、しょうゆ顔、ソース顔、etc。

 

数年前から顔の分類が流行っているようだが、

 

そもそもこの区分けは“イケメン”であることが前提。

 

ブサイクは分類すらしてもらえないのだろうか。

学校では、道徳の時間に命の大切さを教えられ、

 

 

他人を思いやる教育が施されている。

 

 

他者を考え、気を配る。

 

 

それは100%正しい教育方針だと思う。

 

 

でもちょっと待って欲しい。

 

 

人の命ってそんなに尊いか?

 

 

そもそも、生物学的に言えば生きるも死ぬもすべて「現象」。

 

 

それ自体に意味はないと私は思っている。

 

 

考えてみて欲しい。

 

 

人は生きるために、豚だろうと牛だろうと平気で殺す。

 

 

同じ人間には絶対にしないことを。

 

 

姿カタチが違うというだけで。

 

 

「それを言ったらオシメーよ」というレベルの幼稚な理論であることは百も承知だ。

 

 

だが私はそれが事実である以上、人間だけがその価値観を押し付けるのはエゴだと思っている。

 

 

だからと言って、人の命をぞんざいに扱えというのではない。

 

 

私としてもやはり自分自身や身内の大切。

 

 

しかし、それはあくまでも“私”が自分や身内の命を大切と思っているだけだ。

 

 

言い換えれば、自分自身と周囲の極一部だけが大切なのだ。

 

 

例えば戦争や災害に巻き込まれた場合、他人を盾にしてでも自分や身内が助かる道を選ぶだろうし、

 

 

末期ガンで目の前に死がチラつけば、周囲に恨み節の一つでも吐いて気を紛らわすことだろう。

 

 

そんな奴の命が果たして他人にとっても尊いものなのか。

 

 

結局、「生きる」ことは美しくもなんともなく、泥臭く醜いということだ。

 

 

そして、そのことを自覚した上で、与えられた時間を自分なりに全力で生きる。

 

 

それこそが“それぞれ”の尊い命なのだ。

 

 

命の尊さとともに、子どもたちグラウンドでアリを踏み殺しているという事実も教える。

 

 

そんな教育もあって然るべきだと私は思っている。

会社や組織にいると、日報を書くことも多い。

 

 

「業務と関係ないのにメンドクセェ…」と感じる人も多いだろう。

 

 

会社単位でみれば何の意味もないのかもしれない。

 

 

しかし、組織や部署の一人としてではなく、

 

 

あくまでも「個人」として取り組んだ内容としてとらえると、一定の意味がある気がする。

 

 

例えば、その日アポ取りの電話を100件かけた内、

 

 

実際に商談に結び付いた件数が2件だったとする。

 

 

これは不変的な事実。

 

 

もちろん、交渉の中身を事細かく覚えているに越したことはないが、

 

 

それを一つの「記録」として残しておくこと自体に意味がある。

 

 

人の記憶は極めてあいまいだ。

 

 

時には事実を曲解し、自分の都合の良いように記憶を塗り替えてしまうことだってある。

 

 

人は特に身近な事象となると、フェアに判断しづらくなるからだ。

 

 

あいまいな「記録」は主観に付け入る隙を与え、ひいてはそれが言い訳を生み出す。

 

 

「契約をとるために、アポイントの電話を100件かけた。そのうち2件が商談につながった。」

 

 

シンプルでも、こういった自分自身の「記録」を忘れないうちに

 

 

書きとめておくことこそ、成長につながるのだ。

 

 

…と、何か月もブログを放置している自分への盛大なブーメラン。