日本の歴史の中でも特に重要で、歴史の転換点の一つとして数えられる戦いがあります。

 

時は戦国、1573年。

『甲斐の』と怖れられた猛将、武田信玄が上洛の道半ばで病に斃れました。

信玄の遺言によってその死は3年間秘されることになりましたが、織田・徳川の情報ネットワークはそれを見逃しませんでした。

 

織田信長徳川家康はこれまで武田に対して劣勢でしたが、一転して攻勢に出ます。

その結果、信長と家康は失地回復に成功。

しかし、武田との領土境界では緊張が続きました。

 

遺言の期限が明けた1575年、信玄の後を継いで武田家の若き当主となった武田勝頼(この時29歳)は、徳川に奪還された地を再び手中に収めるべく、進軍を開始。

奥三河の長篠城を包囲します。

 

長篠の戦い。

 

織田・徳川連合軍と武田軍が争った超有名な戦いですね。

今回は長篠の戦いに関係する逸話をいくつか紹介します。

 

 

① 文字通り己の命で使命を果たした鳥居強右衛門

 

長篠城を包囲した武田軍の勢力は15000。

対する長篠城の守りはわずか500。

絶望的な状況でしたが、豊富な備蓄と200丁もの鉄砲でなんとか長篠城は持ちこたえていました。

しかしそれも長くは続かず、激しい攻撃で兵糧を焼失。

もってあと数日というところまで徳川勢は追い込まれます。


援軍が来なければ全滅は必至。

そんな中、鳥居強右衛門は宵闇に紛れて城の下水口から武田の包囲網を突破し、援軍要請のため家康のいる岡崎城へと急ぎます。

 

強右衛門が岡崎城に到着すると、そこにはなんと出陣の準備を済ませた徳川軍8000と援軍として来た織田軍30000の姿がありました。

 

これならすぐに援軍が来る!

 

喜んだ強右衛門はこのことを味方に知らせようとすぐさま長篠城に引き返します。

しかし、長篠城まであと少しというところで武田軍に見つかり、捕えられてしまいました

 

武田軍から厳しい尋問を受けた強右衛門ですが、

 

「自分は長篠城の兵である。すでに援軍要請は成り、数日中には織田・徳川の大軍が到着するであろう」

 

と堂々と述べたと言われています。

 

強右衛門の胆力に感心した勝頼は

 

「今から長篠城に向かって『味方は来ない』と宣言せよ。城内の兵の士気を挫け。さすればお前の命は助け、その後の処遇も約束しよう」

 

と持ち掛けます。

 

この取引に応じた強右衛門。

城が良く見える位置に移動して、こう叫びました。

 

「あと数日で味方の援軍が来る!もう少しの辛抱だ!」

 

命令とは逆のことをした強右衛門。

当然勝頼は激怒し、強右衛門はその場で磔にされて突き殺されてしまいました

 

しかし、この知らせに城内の兵は勇気づけられ、援軍到着まで落城せずに持ちこたえることができたのです。

 

強右衛門の功績を讃え、絵画が描かれました。

磔にされながらも鋭い眼光でこちらを睨みつける様は迫力があります。

 

長篠城跡。建造物は残っておらず、広い平場が残るのみです。

 

本丸跡。

 

 

 

② 伝説の三段撃ちの真偽

 

強右衛門の壮絶な最期からほどなくして、織田徳川連合軍が長篠に到着。

武田軍と設楽原で対峙します。

 

織田徳川鉄砲隊 VS 戦国最強武田騎馬隊

 

この構図はあまりにも有名ですね。

信長はこの戦いに鉄砲を3000丁用意したと言われています。

ただ、当時の鉄砲は撃った後の弾込めに時間がかかったうえ、射程も50~100mと短く、が降ろうものなら全く使い物にならないという有様で、戦略兵器としてはみなされていませんでした。

 

このうち、天候はどうにもならないものの、弾込め時間と射程の問題を解決した画期的な方法として『三段撃ち』が採用されました。

鉄砲の名手、明智光秀が考案したとも言われています。

 

鉄砲隊を3列にして、1列目、2列目、3列目と順番に発砲。

他の列が発砲している間に弾込めを完了させ、ローテーションを回して弾丸を間断なく浴びせ続ける、という恐ろしい戦法です。

 

長い間、この戦法の前に騎馬隊は太刀打ちできずに敗れ去ったとされていました。

しかし、現代になってこの戦法に対して疑問が投げかけられるようになります。

 

怪しい点その1。

まず、三段撃ちは当時の資料には全く登場しません

初登場は江戸時代になってから。しかも小説に書かれたものです。

これを明治政府が事実として教科書に採用したことで有名になったのではないかと言われています。

 

怪しい点その2。

実証試験の結果、三段撃ちでは発砲ペースはそれほど向上しないということがわかりました。

設楽原歴史資料館では様々な三段撃ち考察が展示されていますが、戦況を一変させるような連射はできず、真偽は不明であるとのことです。

 

わかっているのは『織田徳川連合軍が大量の鉄砲を効率的に運用することで大勝利した』ということだけのようです。

なんともはや。

 

設楽原歴史資料館。

 

様々な種類の鉄砲が展示されており、興味深いですね。

 

 

③ 猛烈ジジイ 馬場信房

 

長篠の戦いにおいて、武田軍15000のうち10000が戦死したと言われています。

その中には有力家臣も含まれており、武田家臣団で『武田四天王』と呼ばれた4名のうち3名が戦死するという凄惨な状況でした。

そんな斃れた四天王の一人が馬場信房です。

 

彼の何が猛烈なのかというと、戦場でのその無敵っぷりです。

どれほど無敵だったかというと、長篠の戦いまでの人生60年間70を超える戦場に立ち、獅子奮迅の戦功をあげながら全て無傷で成し遂げたと言われています。マジかよ!

その凄まじい戦いぶりから『不死身の杉元鬼美濃』と呼ばれ怖れられたそうです。

 

長篠の戦いにおいても、織田徳川連合軍の鉄砲馬防柵に阻まれますが善戦します。

しかし、全体の趨勢はさすがの鬼美濃でも覆しようがありませんでした。

主君である勝頼が撤退を決めると、怒涛のように押し寄せる織田徳川連合軍に対して、殿としてわずか数百の兵でこれを抑えました。

この時、信房が相対したのは、羽柴秀吉丹羽長秀前田利家佐々成政本多忠勝大久保忠世など…

 

なんという無理ゲーか!

オーバーキルってレベルじゃねえぞ!

 

さすがに多勢に無勢。

勝頼の撤退を見届けた後、対峙した織田勢に向かって特攻します。

ちなみにここまで無傷記録を継続中です。

 

最期は

 

「我が首討ち取り手柄とせよ」

 

と己の首を差し出しました。

享年61歳。

 

武田騎馬隊の侵攻を阻んだ馬防柵。

決戦の地、設楽原に再現されています。

 

長篠・設楽原合戦屏風絵図。

多くの武将が描かれており、山間の狭い平地で壮絶な戦いがあったことを現代に伝えてくれます。

 

武田家の旗印、『風林火山』

その中の『侵掠すること火の如く』を体現したかのような生き様でした。

 

 

 

 

④ 敗軍の将 武田勝頼

 

長篠の戦いは設楽原での勝敗が決定打となり、織田徳川連合軍が勝利しました。

ところで、敗れた側の武田勝頼について、皆様はどのようなイメージを持っているでしょうか?

『信玄亡き後、長篠の戦いで敗北し、名門武田家を滅亡へと追いやったボンクラ息子』という印象の方が多いのではないでしょうか。

 

確かに武田家は勝頼の代で滅びました。

しかし、だからといって勝頼が無能だったのかというと、それは違います。

実は、勝頼は信玄の代よりも勢力範囲を広げ、武田家史上最大版図を獲得しているのです。

しかも、長篠の戦いの後に、です。

 

長篠の戦いでは敗北したものの、その後も武田は織田徳川にとって脅威であり続けたのです。

武田勝頼はもしかしたら才能では信玄さえも凌ぐ器だったのかもしれません。

しかし、残念なことに、彼はとてつもなくツイてない男(信長、談)だったのです。

 

 

 

武田勝頼は1546年、武田信玄の四男として誕生しました。

庶子であったうえ、四男ということで跡継ぎにもなれず、信玄が滅ぼした諏訪家に養子として出されます。

武田家は名前に代々「信」の字を受け継いできましたが、養子に出された勝頼は諏訪家に伝わる「頼」の字を受け継ぎ、諏訪勝頼と名乗りました。

信玄も諏訪家を滅ぼした手前、遠慮があったのか、勝頼が継いだのは諏訪本家ではなく、分家

武田家からも諏訪家からも中途半端な立ち位置とされてしまいます。

ツイてないですね。

 

 

それでも、このままであれば勝頼は武田家の家臣として人生を送っていたかもしれません。

しかしこの後、数奇な運命が勝頼を待ち受けていました。

 

1565年、信玄の跡を継ぐはずだった武田義信がなんと謀反を計画

結局未遂に終わったものの、この責を負われて義信は幽閉され、自害してしまいます。

大事な後継者を失った武田家は大混乱に陥ります。

 

勝頼にはあと二人兄がいましたが、次男は盲目のため若くして出家しており、三男は夭逝

なんと武田家跡取りの座が勝頼に回ってきたのでした。

 

期せずして武田家跡取りとなった勝頼。

しかし、幼少から諏訪家にいた勝頼は武田本家の家臣たちと交流する機会が無かったため、互いに信頼関係を築くことができませんでした。

また、勝頼は既に配下の諏訪家の当主となっていたため、名門武田家を配下の者が継ぐということに抵抗があった者たちもおり、勝頼と家臣たちの間に不和があったと言われています。

ツイてないですね。

 

 

そして跡継ぎとなってから7年後、信玄は上洛途中で病死します。

勝頼に対して十分な引継ぎが行われていたとは考えられず、信玄も信玄で、「勝頼は次の跡取りが適齢になるまでの繋ぎの当主とする」なんて余計な遺言を残したもんだから、家臣からの勝頼の評価はイマイチ上がりません。

 

それでも遺言が明けた後、勝頼は三河への進軍を開始。

1か月で18の城を落とす猛将っぷりを発揮して、破竹の勢いで岡崎を目指します。

そしてついに迎えた長篠の戦い。

梅雨のさなかにもかかわらず、決戦当日には設楽原の雨が止み、絶好の鉄砲日和となってしまいました。

結果は先述の通り。

本当にツイてないですね。

 

長篠の戦いで勝頼が本陣を置いたとされる医王寺。

 

本陣の碑。

 

本陣から設楽原を臨む。

 

 

長篠の敗北後、大打撃を受けた武田軍でしたが、わずか2か月で20000の軍勢を再編。

防御態勢を整えることに成功します。

これには織田徳川連合軍も驚き、武田への追い討ちを諦めました。

勝頼はその後も織田、徳川、北条、上杉への対応をソツなくこなし、武田家最大版図を獲得していきます。

 

順調に見えた勝頼の統治ですが、その崩壊は内部の裏切りから始まりました。

木曽義昌の裏切りを皮切りに、多くの家臣が離反。

最後には信玄の代からの譜代家臣であった小山田信茂にも裏切られ、最期の時を迎えました。

勝頼の最期は伝わっておらず、討ち取られたとも自害したとも言われています。

 

1582年、武田家滅亡。

 

 

 

⑤ 余談

 

武田家の滅亡を最も喜んだのは織田信長でしょう。

自身の覇業の最大ともいえる障壁がなくなったのですから。

しかし、そのわずか3か月後、本能寺の変が勃発。

信長も夢半ばでこの世を去ることになったのでした。

 

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愛知県 新城市 設楽原

JR飯田線の新城~本長篠間に見どころが点在しています。

いずれも駅からは徒歩15分程度離れています。

飯田線自体も本数がそこまで多くないので、路線バスなどもうまく使いつつのんびり散策するのをおススメします。