住友グループの大黒柱として、長い間経営を支え続けた鉱山がありました。

 

別子銅山。

 

前回は主に江戸時代~明治時代に栄えた山の南側を巡ったので、今回は近代化を成し遂げて栄えた北側の遺構を巡っていきます。

 

前回は南側から上って標高1296mの銅山越を果たしました。

ここから北側に下って、標高750mの東平(とうなる)地区へと抜けます。

 

結構な急勾配をシャカシャカと下ってきました。

もう標高は1100mです。

ここで分岐点が現れます。

 

左側が今来た道。右側にはなだらかで直線的な道が続きます。

今回こちらには行きません。

 

今回進むのはこっち側。

反対側と同じく、直線的な道が続いています。

実はこの道…『上部鉄道』という鉄道の廃線跡なのです!

 

上部鉄道は1893年に開通した日本初の山岳鉄道です。

四国に初めて鉄道が開通したのが1888年なので、非常に迅速に開発されたのかが伺えますね。

もともと前回記載した牛車道を改良して馬車鉄道を通す予定だったようですが、欧米視察から帰還した初代住友総理事の広瀬宰平は鉄道の敷設を指示。

別子山を貫通した第一通洞から運び出される鉱石の運搬能力を飛躍的に向上させたのでした。

そんな古い時代にこんな標高の高いところを蒸気機関車が突っ走っていたのは驚きですね。

 

ちなみに、四国初の鉄道はJRではなく伊予鉄道です。

伊予鉄道は現在まで存続する鉄道会社としては、阪堺電車に次いで2番目に古いそうですよ。

閑話休題。

 

廃線跡を進んでいくと、建物が見えてきました。

これは鉱山遺跡ではなく、「銅山峰ヒュッテ」という山小屋です。

今は無人らしいですが、布団が干してあったのでちゃんと管理する方がいらっしゃるようですね。

 

反対側から。

この辺りは角石原停車場と呼ばれ、第一通洞からの積み出し拠点となっていました。

しかし、もっと標高の低い場所に第三通洞が開通すると、拠点はそちらの東平地区に移り、1911年に廃止となりました。

 

すぐ近くにある第一通洞坑口。

第一通洞はほぼ水平に別子山を貫通しており、山を挟んで反対側に前回紹介した第一通洞南口があります。

 

前回紹介した第一通洞南口の写真。

先へ進みましょう。

 

また急な下り坂が続きます。

この辺りからしばらく道に大きめの石がゴロゴロしています。

坂の勾配といい、道の荒れ具合といい、私のような登山経験皆無な観光客では北側からの銅山越は厳しそうです。

 

ゆっくり気を付けながら下ってきました。

東平地区まであと少し。

 

そんなところにこの写真看板がありました。

凄い斜面に家々が立ち並びます。

これらは社宅で、六畳一間の長屋だったそうです。

 

現在は…石垣しかわかりませんね…

 

そしてついに東平地区に到着!

左側が来た道で、右側は第三通洞坑口です。

この通洞の開通によって銅山開発が本格的に北側へと移っていきました。

 

第三通洞坑口。

両脇の石積みと相まって迫力があります。

 

第三通洞手前は広場になっています。

ここにはかつて東平採鉱本部がありました。

1916年に銅山南側から拠点が北側に移ったことの象徴でもありました。

しかし、その14年後、1930年にはここも閉鎖され、本部は端出場(現在のマイントピア別子)へと移っていきました。

ちなみに、右側に写っている建物は変電所跡です。

 

変電所跡に来ました。

レンガ造りの建物が歴史を感じさせます。

 

中はこんな感じ。

思ったよりきれいです。

 

いいですね…非常にいいですよ…

聞こえるのは川のせせらぎと蝉の声。

嗚呼、素晴らしきかな…

ひとしきり感動したところで、次に行きましょう。

 

東平地区には大マンプ・小マンプと呼ばれるトンネルがあります。

大マンプは金網で塞がれており通行できませんが、小マンプは通行可能です。

中には鉱山で使われていたトロッコ関係の機械が展示されています。

この辺りまで来ると、一気に観光客の姿が増えます。

 

さて、ようやく東平地区最大の目玉に到着しました。

東平貯鉱庫・選鉱場跡です!

山間にポツンとある遺構、そしてその奥には新居浜市街瀬戸内海が広がります。

思わずため息が出そうなほど素晴らしい眺めです…

 

真上から見下ろしました。壮観ですね。

上から遺構を見下ろす構図から、古代インカ帝国の空中都市にあやかって『東洋のマチュピチュ』なんて呼ばれたりもします。

それはちょっと誇大広告のような気もするけど、まあ綺麗だからいいか。

 

第三通洞から運び出された鉱石は岩石と区別された後に一旦この貯鉱庫に入れられ、順次索道の列車へと積み込まれていきました。

 

荷上げ・荷下ろしのためにインクラインも敷設されました。

京都の蹴上にもあったアレですね。

鉱山関係のものだけではなく、日用品なども取り扱っていたそうです。

現在は220段の階段に生まれ変わりました。

両側の紫陽花が美しいです。

 

下から見上げた貯鉱庫。

鉱山の近代化によって設備も大型化し、そこに携わる人や会社が増えていきました。

近代化が進む別子銅山の採掘を効率的に運営するために、住友金属鉱山が生まれました。

鉱山で使用する特殊な重機を製造するために、住友重機械工業が生まれました。

環境破壊や人体に悪影響を及ぼす鉱物・化学物質の流出を防ぎ安全化処理をするために、住友化学が生まれました。

はげ山になった別子山を緑豊かな元の姿に再生するために、住友林業が生まれました。

 

こうして一つの鉱山を母体として、今日まで続く様々な住友グループの企業が生まれていったのです。

 

最終的な坑道の総延長は700km、標高1000mから-1000mまで、高低差2000mを誇った大鉱山は、1973年、長い歴史に幕を閉じたのでした。

 

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愛媛県 新居浜市 別子銅山 東平地区

JR新居浜駅からマイントピア別子行きのバスに乗車して終点下車。

マイントピア別子で見学ツアーに申し込めば、専用のマイクロバスで連れて行ってもらえます。

ツアーは1日2回なので、あらかじめ予定に組み込んでおきましょう。

ただし、ツアーではガイドさんに従う形になるので、第三通洞や変電所跡には行けないことをご認識ください。

東平地区まで5kmほど離合が難しい狭路を走ることになるので、運転が得意でなければレンタカーも非推奨です。

じっくり楽しみたいという方はタクシーで行きましょう。

昔は往復固定料金制度がありましたが、現在はわかりません。