ふと、ある本を読んだとき、私は人生をなんとなく生きていた、自分に気付く。

これは、大袈裟なことなんかではない。
そのへんのJKが、なにそれ受ける!笑笑(ふるい?)って言うような、ほんのささいな、その辺に落ちてる2時3時までやってるお店にあるようなふざけたおもちゃのように笑える...ことでもない。

日々、あなたは、今あなたが召し上がられるものを、眼前にして、"美味しいか?"と、問うていますか。
(ってゆうか、この言い回し合ってるの?、まあまあ、聞いてください。)

ねぇ、今その飲んでるお酒や、転がってるであろう空き缶。

一つ一つ。
どんな香りがしましたか。

その一口目、
どんな味がしたのでしょう。

どんな気持ちになったのでしょうか。


 私は、日々の忙しさのあまり、"食べる事"が、まるで"生きるための義務のように"感じてきていることに気付く。

忙しさのあまり、早く食べることを済ませよう、それしか頭になくなっていた。

そうしていつの間にか、
あれ、「昨日の夜ご飯何食べた?」のあの質問に答えられない大人を不思議がっていた子供は、お察しの、同じ大人になっていたのだ。

ポテチで考えてみましょう。いえ、ポテチを買ってきてください。で、食べてください。
1枚食べて、味を感じてみる。
旨味が広がって、ジュワッと油が口の中をいっぱいに、しあわせにする。
そんなことを忘れてしまったら、お仕舞じゃないか。
やめられない止まらない、ポテチ状態だ。

そんなの、生産者は望んでも、消費者は望んではいないよ。

そんなことを気付かされたのは、ドラマの、影響でした。

日々、問うてみろ。問い続けることこそ、人生を生きることだ、
なんてまだまだ人生語れぬ21歳。読点をむやみに使う、未だに使い方がわからない女の日々の記録書が、
始まるきっかけのおはなしでした。

音楽も同様だ。情報がすぐに受け取れるスマホ世代。

インプットしたら、一度ネットを断ち切る。

そうして、

"自分のなかで感じたこと"、"感じていること"に、耳を傾ける。

自分の声、言葉、
熟考したうえで、
やっと、"自分の言葉"が出てくるのだ。

"本当の気持ち"と向き合うことができる。
すぐに言葉を発信できる時代のなかで、熟考した上で出てくる言葉には、心(シン)がある。

根っこからの思いだ。

だからこそ、伝わるのだ、と思います。

そのとき、今、
私は、私の中で感じている、感情、それがすべてだ。

あのとき、そのとき、今、
あなたは、あなたのなかで感じている、感情、それがすべてだ。



「日々をどう過ごすか。それが人生をどう生きるかということだ。」アニー・ディラードの言葉が今、少しわかった気がする。


そう綴りながら、一度手を止めて、
ゆっくりとこのポテチの一口目を味わう。