実家の家に一本の藤の木がありました。

 

藤棚ではなく、

一本の木だったということは

猫の額のお庭だったということでしょう。

 

まだ、

観光旅行など行ったことが無い幼いときに、

家のお庭の片隅に

妙な形の葉が垂れ下がっているのを観て不思議に

思った記憶がございます。

 

その後、

夕方、玄関の石段で夕涼みをしていると

父親がひょっこりと

玄関から出てまいりまして。

その藤の木の下で

所謂、地団駄を踏んでおりました。

ダンスが始まる訳でもなく、

幼心に意味不明の父の行動に、

声を掛ける勇気もなく、

 

やばいものを見たかもしれないと。

封印した次第です。

 

そんなこんなで

年月が流れ、

この藤の木のしたで

またもや地団駄をふんでいる父をみて

 

やはり、これは

何かある。

 

そう思って尋ねたとき、

「藤の木は根元を踏んで

踏んでいためつけるほど

綺麗な花をさかせるのです」

 

今の私の記憶では

父ではない他の誰かに

教えてもらったお話です。

 

世の中に

痛めつけれられれば

痛めつけられるほど、

美しい花を咲かせようとする

そのような植物があることに

驚きました。

 

少しずつ大きくなり、

中学校、高校と進学すると、

どこの学校にも桜の木が植わっているように。

運動場に藤棚がありました。

 

葡萄のようなふさふさとした藤の木が

何とも言えない淡く美しい色の花を咲かせるのを観て、

「芸術だ」と声にした記憶がございます。

 

更に月日が流れ、

日帰りで遊びに行けるところに

藤棚の名所があり

そこを訪れて観た藤の花は

生まれて初めて観る白や赤紫のお色目で

更に藤の花の魅力を感じました。

 

それから意外なことに

藤の花が咲く季節になると

身近なところでも

藤の花を観賞できることに気づいたのです。

 

お寺やおうちの玄関先に

藤の木の盆栽があったり、

子供たちが遊ぶ公園に

藤棚があったり。

 

住む場所が変われども、

毎年、

自身が好きな藤の花を眺めては

一年の折かえし時点を感じつつ、

「また、来年も美しい花を咲かせてください」と

感謝の言葉をお伝えしておりました。

 

 

されど、

今年、コロナ自粛でいつもより

昼間の散歩をしていた中で

気づけば、

どの藤の花も

ぐんぐんと

その緑の葉を茂らせておりますが

いまだに藤の花を観た記憶がございません。

 

少し、足を延ばし

あちらこちらの

藤の花を観察に行きましたが

(外出は控えておりますので散歩で行ける範囲です)

今年はまだ、藤の花に出会えておりません。

 

今年、

藤の花は咲いたのでしょうか。

 

いつもより、

時間の余裕があったはずなのに。

お花が一生懸命咲いている姿を

私は見落としていたのでしょうか。

 

 

あれから年月が流れ、

一緒に観た花を観るたびに

「また、来ようね」といって

お花見を楽しんだことを想い出し

胸を痛めておりましたが、

今年、藤の花に出会えなかったということは。

 

想い出・再上映を

誰かが阻止してくれたのかもしれません。