『パターソン』、あれから「ん?」と思って見直してみたら、なんだか"双子"の意味がわかった気がするので、追追記させてくださいm(_ _)m
「まだ言ってんの?もういいよ(^^;」ときっと思われると思いますが💦
もしご興味があれば…でもとにかく長いので、ほんとすみませんm(_ _)m
ていうか、風佳さんやありすさんにコメントですでにちゃんといろいろ教えていただいてたことがやっとわかったので(と思う)…理解が遅くて本当にごめんなさいm(_ _)m💦
妻のローラの「双子の夢」の話から始まるこの映画。
この夢の話は、映画全体を通してのテーマが"双子"であることを示しているのですが、この"双子"とは、
対になるもの、対称となるもの
を意味するのだと思います。
※以下、ネタバレ含みます。
1.対称(=対)となる登場人物
前記事の「追記」で、この映画では
同じ身体を持つ人物が、
それぞれ"あったかもしれない人生"を、
別の人生を歩む双子のように演じている
つまり、
湾岸戦争に行っていたかもしれないアダム・ドライバー
湾岸戦争に行っていた過去を持つ(かもしれない)パターソン
あるいは
女性の自由が制限されるイランで自由を求める女性を演じてきたゴルシフテ・ファラハニ
自由にのびのびと女性らしい人生を謳歌するローラ
という風に、演じる俳優が、映画の中で彼ら自身の別の人生を生きているようだと書いたのですが(風佳さんありがとう(T_T))、これは主人公パターソンと、ほかの登場人物にもいえるのでは、と思うのです。
まず、恋する男エヴェレット。
彼は幼馴染のマリーに恋い焦がれ、別れを告げられても未練たらたら。
芝居がかって想いを吐露しますが、このエヴェレットの言葉はまさにパターソン自身の、妻ローラへの想いそのものです(「僕の可愛い君」の詩)。
さらに俳優である、というのも、"アダム・ドライバーという俳優の背景を持つパターソン"に似ています。
つまりエヴェレットは、もしローラとの恋が成就していなかったらそうなっていただろうパターソンなのです。
次に、バーのマスター・ドク。
パターソン市に関するものを集め、主人公パターソン同様にこの地に暮らすことを満喫している様子のドク。
しかし彼には弱みがあって、それがお金(と奥さん)。
奥さんのヘソクリを使い込んで、ギチギチに詰められます。
パターソン自身は、奥さんのローラにちょい高めのギターをねだられても「うーん…必要なの?」と言いながら気前よくOKを出しちゃう旦那さんですが、もしこれが金銭に汲々とする人だったら。
ローラとの毎日も、ギスギスしたものになっていたかもしれません。
ドクの姿は、金銭問題で妻とうまくいかない場合のパターソンだと思うのです。
そして同僚の車庫係、ドニー。
彼は毎日パターソンと顔を合わせるたびに、「最悪だよ」と自身の不遇を嘆きます。
家族の不満、ローンの心配…いつでも私生活の問題が山のようにあり、気の休まるときがなさそうです。
対するパターソンは、「お前は?」と聞かれて「上々だよ」と一言。
パターソンには詩があるからです。
社会的な立場も収入もきっとそんなに違いはない2人ですが、ドニーが様々な雑事に気をとられ頭を悩ませているその時間を、パターソンは詩作に充てている。
その間、日々の些末な事柄は頭から消え去り、美しい言葉のリズムが脳内を満たし、心は穏やかに落ち着きます。
だからいつでも機嫌よく日々を過ごしているのです。
いつも日々の不安で頭が一杯なドニーは、詩を作らないパターソンなのではないでしょうか。
このように、環境や境遇がパターソンと似た登場人物たちは、いわば鏡に映った"じゃない方"のパターソン、パターソンの対になる存在(対称的な存在)、といえるのではないでしょうか。
そしてこの3人とも、心の持ちようやものの見方を変えることで、きっとパターソンのように穏やかな毎日を送れる。
いわば幸せも不幸せも表裏一体、なのです。
(ありすさんありがとう(T_T))
しかしこの↑3者、
・執着しない
・足るを知る
・思い煩わない
という戒めを表していて、まるっきり禅とか仏教とか、老子の教えですね…
2.「言葉」と「結果」
この映画全体を通じて、まず言葉で表され、次に現象が起きる、「言葉」と「出来事」の対が見られます。
「私たち、子供が2人いるの。双子よ」
妻ローラが冒頭に語る夢の話。
これ以降、パターソンの毎日には双子が現れるようになります。
「詩のコピーを取って」
妻はパターソンに、彼の詩作ノートのコピーを取るようお願いします。
彼女はその後もう一度お願いするのですが、ちょうどコピーを取る予定だったその週末、不吉な予感が当たったように、ノートは失われてしまいます。
「水が落ちる(Water Falls)」
ある日、出会った双子のひとりがパターソンに、"水が落ちる"(Water Falls)の詩を詠みます。
Waterfall=滝は、パターソンがいつも好きで昼食を摂る場所。
その日、家に帰ると妻が壁に滝の写真を飾っています。
そしてその滝で、彼は謎の詩人と出会うことになります。
「まだ携帯を持ってないのか?」
スマホを持たない主義のパターソンへの、ドクの言葉。
次の日、乗務していたバスが故障し、パターソンは困って子供にスマホを借りるはめになります。
「心をずたずたに裂いて 二度と元に戻さないだろう」
パターソンが、妻ローラを想って詠んだ詩の一節。
この言葉どおり詩作ノートはずたずたに裂かれて、二度と元には戻らなくなってしまいます。
「爆発して火だるま」??
バスが故障したときに、老婦人の双子のひとり、ローラ、ドクから同じように何度も言われる言葉。
これはエヴェレットの騒動とマーヴィンの事件を指しているのかな??
どちらも"恋する気持ちをないがしろにされた男の暴発"で、パターソンが巻き込まれます(火だるま??)。
このように、映画の中では、まるで言霊のように、あるいは答え合わせのように、誰かが口にした言葉があとから現実のものとして現れます。
言葉(物事)には結果が対となってついてくる。
そうして起こった出来事のひとつが、最後にパターソンにあることを示します。
3.対となるエネルギー
この映画では、パターソンとローラを中心として、エネルギーの対がみられるように思います。
◆「ありがとう」と「どういたしまして」
映画を観ていてちょっと「おっ!?」と思ったのが、パターソンと妻ローラのやりとり。
晩御飯やランチ、コーヒーの受け渡しにも
「ありがとう」「どういたしまして」
と丁寧に言い合う。それも心をこめて。
これ、晩御飯にまでなかなか言わないと思うんですよね。
夫婦で。
パターソンとローラの間では、こういう風に、いわば"感謝のエネルギー"が、常にバランスよく行き来しているように思えます。
どちらかに過剰に流れることなく、不足することもなく。
対になるエネルギーが、その都度、プラマイゼロで落ち着いている状態ですよね。
◆妻ローラへの愛と試練(?)
パターソンの妻ローラ。
結構なおもしろ奥さんですよね(*^_^*)
家じゅうを手描きの白黒アートで埋め尽くし、突然アーティストになりたい宣言をしてギターをねだる。
料理はするけど不思議料理もしばしばで、忙しい時にはデリバリー。
私などはこれで充分じゃないかと思うけど、それでもかなり自由な彼女。
彼はそんな彼女を愛します。深く。
微妙な味のディナーのパイは水で流し込み、ランチはカップケーキひとつ、白黒アートはシャツに付き、壁にかかる絵は彼女の犬のアレでも。
見ようによっちゃ、彼女のやってることはパターソンへの嫌がらせになりかねない(^^; もちろん彼女に悪気はないけれど。
彼はそれを、ものともしない。
すこしは困った顔をするときもあるかもしれない、でも彼のローラへの愛は微塵も揺らがないのです。
これ、もしかすると、ローラの「自由さ」が上がるほど、パターソンの愛は深まっていくようになってるんじゃないかと。
というのも、映画の7日間の間だけでも家の白黒度はかなり上がってってるんですよね。
普通なら「もう止めてくれ」てなりそうなレベル。
さらに、最後には彼女の犬が彼の"命"であるノートを粉々にする。
試練です。
でもパターソンの愛は変わらない。
きっとパターソンの愛の深さと、ローラの自由さは、比例している。
彼の愛がローラの自由さに力を与え、その自由さがパターソンの愛をさらに深める。
お互いが無限にエネルギー補給し循環しあっている状態なんじゃないかと。
そこにマイナスは存在しない。
こんな風に、パターソンとローラの愛は、プラス方向に、無限に伸びるエネルギーの対なんじゃないかと思うのです。
◆有名と無名
妻のローラはカントリー歌手として大スターとなることを夢見、カップケーキの商売で成功したいと口にします。
そしてパターソンに対しても、彼の素晴らしい詩を公にし、世の中に出すよう勧めます。
しかしパターソンは、ただ市井の詩人でいることを望むばかり。
ローラとパターソンの"有名になりたい"エネルギーは真逆の方向に向いていて、これはこれでバランスをとっているのかもしれません。
◆マーヴィンとの関係
パターソンとローラとの間のエネルギーがプラス方向に伸びるそれだとしたら、犬のマーヴィンとパターソンとの間のエネルギーはどちらかといえば負の方向の対だといえます。
2人ともが愛するローラを中心として、やじろべえのようにバランスをとっている状態。
マーヴィンがポストを傾ける→パターソンが直す、というのも、なんだか2人の関係を表しているよう。
どちらも互いにちょっといけ好かないヤツだと思いつつ、愛するローラが喜ぶように、反りの合わない同士が共存している。
なので、ちょっとバランスが崩れると、暴発してしまう。
土曜日の夜、置いてけぼりにされたマーヴィンはノートをズタズタに。
パターソンの詩の通り、彼も「心をずたずたに裂」かれてしまったんだと思います。
もちろんパターソンの心も傷ついたので、おあいこ。
負の方向で、対にバランスがとれたんですね。
にしても、犬ってわかりやすい…
(私もこれ、飼ってた犬にやられたことがあります。散歩を約束してたのに、つい寝ちゃって。起きたらその時持ってた、買ったばかりの本がボロボロに。散歩、すごく楽しみにしてたので、よーっぽど腹が立ったんだと思います。ごめんね…(あやまり倒したけど(本のことは叱りました)かなり怒ってた))
よく「中庸であれ」というようなことを言いますが、いい悪いではなく、世の中がエネルギーのバランスで成り立っていることを、みな経験でわかっているからなのでしょうね。
偏らず、執着せず、ほどよく。
何事にも極端に走らず中庸に過ごしているパターソンに起こった"事件"が、彼がただ2つ強い気持ちを抱いている妻ローラと詩に関してのものだった、というのも、事の大きさはそのエネルギーに比しているのだ、と表しているように思います。
4.万事塞翁が馬
大切なノートを失い、落ち込むパターソン。
気づけばいつものお気に入りの滝に。
しかしベンチに座っても、何の言葉も浮かびません。
ただ沈黙のまま過ぎる時間。
と、謎の詩人がやってきます。
そして例のアーハ!のやりとりのあと、詩人は去ります。
1冊のノートを手渡して。
ノートを見下ろし、パターソンはつぶやきます。
「アーハ!」と。
白いページを開けば、ふたたび湧き出る言葉たち。
詩が、戻ってきたのです。
結局、なんの変わりばえもなく、他の人の目にはいつもと同じように過ぎた一週間は、パターソンにとって"気づきの一週間"でした。
いろいろな物事が積み重なり、予言めいた言葉が口にされ、小さくて大きな事件が起こり、最後にパターソンは悟ります。
"自分は詩人なのだ"と。
起こったことは一見、悲劇でしたが、結局それはパターソンにとってかけがえのない気づきを与えてくれました。
いいことも悪いことも表裏一体。
「人間万事塞翁が馬」です。
ありすさんが、この映画は「陰陽」「表裏一体」についてのものではないか、と指摘くださっていたのですが、その通りなのだと思います。(ほんとにありがとうございますm(_ _)m)
陽の中にも陰があり、陰の中にも陽がある。
白も黒も、どちらも"いい""悪い"ではない。
見方によっていかようにも変わるし、それは表裏一体だ。
白と黒は、奥さんのローラのアートのテーマでもありますね。
もちろんジャームッシュ印でもあるけど、そうか、あれは陰陽だったのか…(これもありすさんおっしゃってた(T_T))
”世界は対となるエネルギーで成り立っている。
つねに物事は起こり、エネルギーに見合った結果がついてくるが、それがいいか悪いかは容易にはわからない。
ただ心の持ちようによって、ものの見方も結果も変わるものだ。”
ジャームッシュは、そういう、「この世の真理」のようなものをこの映画で描きたかったのかな、と思います。
5.ここで問いたい『アーハ!』の意味
そしてあらためて考えるのですが、あの詩人の、そしてパターソンの「アーハ!」には、監督のいう"つかみ"のほかに、やはりちゃんと意味があるのだと思います。(言うこと変わっとるやないか)
いわゆる『アハ体験』
ハッ!と瞬時に理解に至る、ひらめきや創造性の源といわれているものですが、あの「アーハ!」は、この『アハ体験』のアーハ!だと思うのです。
瞑想の達人といわれる修行者になると、常にこのアハ体験をしている脳の状態になっているのだとか。
これが「悟りを開いている」てことなんでしょうね。
普段から禅僧のような生活を送っているパターソン。
何事にも執着せず、常に修行をしているような彼ですが、さらに彼は、あの詩作の作業の際、"瞑想状態"に入っているのではと思うのです。
瞑想にもいろいろあるみたいですが、自分の思考や感情を注意深く観察する、というのもそのひとつ。
パターソンが詩を創る際にやっているのはまさにこれで、つまり彼は暇さえあれば瞑想しているようなもの。
常に「悟りにもう一歩」のところにいたのじゃないかと思うのです(ホンマかいな)。
たぶん、もうひと押しだけが必要だった。
事件が起こったことで、彼は"悟り"を得ます。
最後の「アーハ!」はそれを意味するのでしょう。
秘密のノートが失われようと、一介のバスドライバーであろうと、彼はやっぱり詩人なのです。
そしてその「悟り」が起こったのは、きっと詩にとっても彼が必要だったからで。
だからこそ、謎の詩人=詩の神様?も、彼の元を訪れた。
世界には彼の詩を待ち望み、その言葉に癒される人が、きっとたくさんいるのでしょう。奥さんのローラが予見するように。
そう考えると、神様?が連発していた「アーハ!」にも、それぞれに意味があるように思います。
・(バスドライバーだ、というパターソンに)
「…アーハァ。詩的だね」
→パターソン市のバスドライバーで詩人。いいじゃないか。充分だよ。
・(フランク・オハラはNY派だ、というパターソンに)
「アーハァ(ニヤリ)」
→詩の話に喰いついてくるんだ、まだ詩が大好きだろ??
・(詩人W.C.ウィリアムズは医師でもあった、という言葉に)
「アーハァ(*^^)(*^^)」
→だろ?だろ??だから別の仕事してたっていいんだよ!君は詩人だ!!な???
・最後の「excuse me!アーハー!」
→もっぺん言っとくぞ!君は詩人だ!!気づけよ!!!
ま、永瀬さんの演技のさじ加減もあるのでどうだかわかりませんが、こんな感じですよね?
なんせアハ体験のゴリ押しですから。
「気づけよ!」「気づけ」「気づけって!!」…神様しつこい(^^;
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こうして見てくると、出てくるのは仏教や老子の教えっぽかったり陰陽だったり塞翁が馬だったり瞑想だったり。
前の記事に「監督はスピリチュアルを意図して作ったわけじゃないだろう」なんて書いたけど、なんのなんの、これはガチでスピリチュアルな映画ですよ。
つくづく、いい加減なこと書いちゃいけないなと猛省(-_-)
ジャームッシュ、ずっとオフビート(=本道からはずれた)と言われてたけど、ついに本道からはずれてる王道映画を撮った感じです。
これはいい。
でもこのあとまたオフなゾンビ映画撮っちゃったりするんだな…わからん…
しかしこんな風にひとつひとつ解釈してしまうのは果たして正しい映画の観方なのだろうか…
こんな映画だからこそ、いろいろ解釈したりせず、ただぼー…っと、眠くなりながら、心地よく観るのがいいのじゃないかと思います。
先日、配信終了に追われて観たサリンジャーの伝記映画(『ライ麦畑の反逆児』)に、戦争神経症に苦しんで書けなくなったサリンジャーが瞑想と出会って再び書けるようになったというくだりがあって、このパターソンを思い出しました。
従軍していただろうパターソンも、やはり詩作をすることで瞑想と同じように心の傷を癒したという隠れ設定があったりするのじゃないかなぁと…
あと、サリンジャーははじめ作品の出版にとても意欲的だったんだけど、そのうち出版にまつわる雑事が創作への純粋な意欲をそぐことに気づいて、以降、作品の公表を一切しなくなるんですね。
このあたりも、純粋に詩作のみを楽しみ一切作品を公にしないパターソンと重なって。
不思議と2つの作品が、私の中で繋がったのでした。
あぁぁぁ長くなった…
追追記のうえにさらにこんなに長いなんて、ほんとにほんとに、もし読んでくださった方がいらっしゃったら、本当にありがとうございますm(_ _)mm(_ _)m
きっと何度もご覧になってるserinaさんはもっといろいろご承知だろうなぁ…
風佳さん、ありすさん、いろいろ教えてくださってありがとうございますm(_ _)m やっとおっしゃってることがわかりました💦 理解が遅くてごめんなさいm(_ _)mm(_ _)m
パターソン、本当にいい映画でした。


