西尾市寺津町にある寺津八幡社の式年遷宮に合わせ、地元有志でつくった寺津大河内氏顕彰会は10月23日、中世の寺津城主で江戸時代の大多喜藩(千葉県大多喜町)主だった、大河内家の14代当主・大河内正樹さんを迎え、特別記念講演会を大河内氏菩提(ぼだい)寺の金剛院で開きました。大多喜藩主大河内家の当主が故地の寺津を訪れるのは110年ぶりという中で、大河内さんは「いろいろな縁があり、大河内家を大切にしてもらい、感謝している」と述べました。

 

寺津八幡社の南にある瑞松寺にあったと伝わるのが寺津城で、鎌倉時代から寺津を治めていたとみられる大河内氏の居城でした。大河内氏は吉良荘(今の西尾市域)を治めた吉良氏の家臣として、南北朝時代ごろから史料に現れ、吉良氏の領地だった浜松荘(今の浜松市中心部)で代官を務めたり、寺津八幡社の社殿を再興したりしました。

 

戦国時代に吉良氏が没落すると、大河内氏は寺津の領地を失いましたが、徳川家康に仕え、大河内正綱が長沢松平氏の養子に入って名字が松平になったことで、「大河内松平氏」と呼ばれます。その後、寺津を回復し、正綱をはじめ子息から大多喜藩、三河吉田藩、上野高崎藩の3つの大名家が生まれ、明治維新まで存続しました。

 

大河内正樹さんは、正綱の次男から続く大多喜藩主大河内松平氏の子孫。この大河内松平氏の当主が寺津を訪れるのは、同藩最後の藩主だった大河内正質(まさただ)の子・正倫が、1911(明治44)年に訪問して以来、110年ぶりになるということです。

 

大多喜藩主大河内松平氏14代目の大河内正樹さん

 

講演会に先立って顕彰会の齋藤保夫代表は「小中学生の間では地元学習で少しずつ知られているが、寺津校区の住民の多くは寺津大河内氏の存在を知らない。物語や講演を通じて知ってもらいたい。寺津八幡社には江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の子、家達が揮ごうした扁額があるが、慶喜の娘が大河内家に嫁いでいた関係が考えられている。今後、大河内氏の歴史を描いた絵本も制作するので、楽しみにしていてほしい」とあいさつしました。

 

第1部では寺津大河内氏クイズや寺津町出身の語りべ・田中ふみ枝さんによる物語「寺津城最後のお殿様 大河内金兵衛物語」が行われました。クイズでは、田中さんが「大河内家の家紋に使われた生き物は」「寺津城はいつできたか」「寺津城はどんな造りだったか」「寺津城最後のお殿様は」という問題を3択で出題。大河内氏の家紋については「チョウが使われているが、今も寺津中の校章にチョウが入っているし、小学校はサナギ、保育園は青虫がデザインされている。寺津に生まれ育った子どもたちは、大河内氏の誇りを受け継いでいる」とアピールしました。

 

物語は鳥山ひろみさんのフルートをBGMに、現在の寺津城跡にある稲荷社のキツネが往時を語る形で展開。田中さんが戦国時代の寺津城最後の城主・大河内金兵衛秀綱の生きざまを紹介しました。吉良家に仕えていた秀綱が、東条城にたてこもって徳川家康と戦おうとする主君に対し、無謀を説いたものの聞き入れられなかった場面では、秀綱が金剛院で自家を滅亡に導くおそれがあることを先祖に詫び、「ここに至って立ち去るは武士の恥」と戦地に向かったものの、敗戦を喫して吉良家が没落した歴史が語られました。

 

大河内秀綱の物語を披露する田中ふみ枝さんら

 

秀綱の忠義に感銘を受けた家康が家臣に取り立てた後、江戸幕府のもとで秀綱の息子・正綱が松平家の養子になり、寺津を再び治めることになった場面では、晩年の秀綱が正綱にあてて手紙を書き、金剛院に寺領10石を与えると共に「民が豊かに暮らせるよう心を配ってほしい」と故地を託した歴史が語られました。

 

第2部は「大多喜藩宗家 大河内正樹氏里帰り記念講演会」と銘打ち、西尾市教委文化財課の齋藤俊幸課長が寺津大河内氏について解説。新編西尾市史調査員の小林輝久彦さんが「大多喜藩主大河内松平氏と西尾」と題して講演しました。

 

齋藤課長は「鎌倉・室町時代の大河内氏に関する史料は乏しく、後世の系図と同時代史料に登場する人物が一致しないこともあり、分からないことが多い」と前置きした上で、大河内氏の出自や史料上の登場、江戸時代の大河内松平氏の事績、関連史跡を紹介しました。戦国時代に寺津を失う大河内秀綱について「寺津大河内氏では有名な人物で、晩年の史料は多いものの、寺津時代の史料はなく、現時点だと寺津との関わりを実証できない」と述べました。

 

大多喜藩主大河内松平氏について語る小林輝久彦さん

(左は齋藤俊幸さん)

 

小林さんは、秀綱の次男として生まれた正綱について「1576(天正4)年に遠江国長江村(今の静岡県磐田市内)で生まれ、母は鳥居氏の娘とされているが、最近では徳川家康の謀臣として知られる本多正信の姉とされている。鷹狩りに来た家康が容貌秀麗な7歳の正綱を見初め、将来召し抱えることを約束したという」と述べ、6年後に長澤松平氏の養子になって名字を大河内から松平に改め、92(文禄元)年に17歳で家康に仕えた歴史を紹介しました。

駿府城火災時の功で西尾に領地

 「正綱を有名にしたのは、1610(慶長15)年に台所の失火で起きた駿府城の火災」とした上で、正綱は納戸から多くのさらし布を取り出して結び合わせ、石垣の数カ所から避難ロープのようにたらし、城内の人々を多く避難させた事績を紹介。「家康はこの機転を褒め、戦場の軍功に勝るとして、三河国幡豆郡内の大塚村・友国村・富田村・荻原村・酒井村・善明村・古牧村・中野村の都合8カ村3千石が与えられた」と解説しました。

 

16(元和2)年には吉田村・荻原村・寺津村・巨海村のうち789石の加増を受けました。「父・秀綱が1564(永禄7)年に失った寺津を、50年余ぶりに回復した。関ヶ原合戦の前哨戦で家康が上杉征伐に向かった際と思われるが、三河湾を渡海中、本多正信が寺津方面を見ながら正綱に『先祖の土地だから、回復するよう家康に願い出なさい』と言ったという逸話もある」と述べました。

身びいきしない「知恵伊豆」信綱

正綱の跡を継いだ正信について「39歳で奏者番に就任した。奏者番は老中昇進のスタート地点だったが、正信は奏者番以上に出世しなかった。『知恵伊豆』と知られる松平信綱が兄で老中だったため、出世に有利な環境だったが、信綱は家臣の恨みを買うとして一切の身びいきをしなかった」と解説しました。その後、幕末や明治維新の混乱を生き抜いた正質など、歴代当主の事績を紹介しました。

 

謝辞を述べる大河内正樹さん

 

最後に大河内正樹さんは「寺津八幡社の式年遷宮にご招待くださり、感謝している。私は学習院大学を出て、サントリーに入り、営業畑で酒を売る仕事ばかりしてきたため、先祖の事を全く勉強しておらず、最近になって調べたり、本を読んだりしている。いろいろな縁があり、大河内家を大切にしてもらい、感謝している。人は偉いからではなく、みんな一緒でつながっている。武士社会もサラリーマン社会も似ていると感じる。今日、講演を通じて改めて勉強させてもらい感謝している。今後も何かあればお邪魔したいのでよろしくお願いしたい」と謝辞を述べました。