2021年の開催を目指している「吉良氏800年祭」の機運を高めようと、準備委員会(颯田洪委員長)=当時=が2018年3月3日、NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の時代考証を務めた戦国史研究者の大石泰史氏先生を講師に迎えた、特別記念講演会を西尾商工会議所で開きました。市内外から約150人が集まり、「今川氏から見た吉良氏」と題した話に耳を傾けました。西尾市、西尾信用金庫が共催し、三河新報社、愛三時報社などが後援しました。

 

 

講演に先立って颯田委員長は「吉良氏800年祭を合併10周年と合わせ、西尾の地を全国にアピールしたい」、中村健市長は「吉良氏というとどうしても忠臣蔵のイメージだが、足利将軍家の名門だったこともあり、もっと知ると、吉良氏や西尾の凄さが分かる。市民に西尾への誇りを持ってもらうことも、大きな目的になる。そのためにはこの3年間で、様々な観点で機運を盛り上げ、21年度には市民みんなで盛り上がって、西尾市をPRしてほしい」とあいさつしました。

【吉良氏VS今川氏】実は天文16年が最初の敵対

登壇した大石先生は、駿河今川氏の部将・太原雪斎が起草し、今川軍から吉良氏の本拠地である西尾城内に、矢で放たれた降伏勧告文「駿遠軍忠衆矢文写」を紹介。文中の吉良氏当主を指す「御屋形様(おやかたさま)」が吉良義安に当たるとした上で、「文中に天文16(1547)年9月の『渡(わたり)の合戦』が出てくる。尾張の織田信秀(信長の父)が西三河へ侵攻し、今川氏は一度、信秀と手を組み、岡崎の松平広忠(徳川家康の父)に信秀への降伏を迫った。広忠は信秀に降伏し、人質として息子の竹千代(家康)を信秀に預けた。ただ、織田と今川は向背を繰り返しており、そうした中、文中に『(吉良氏が)兵を安城に入れた』とあるので、吉良義安が今川義元と手を切り、織田信秀と同盟を結んだことがうかがえる。従来、吉良義安は今川義元と2度敵対したことが分かっているが、それ以前の天文16年9月に渡の合戦でも敵対したとすれば、吉良氏は3回、今川氏と敵対したことになる」と新しい見解を示しました。この史料については従来、美文に過ぎるとして偽文書とされてきたそうですが、西尾市出身の研究者小林輝久彦さんが同時代史料だと指摘し、大石先生も追認しているということです。

 

 

【追記】大石先生は『戦国史研究』78号(2019年8月)に「今川氏対三河吉良氏再考」と題した論考を寄稿され、講演当時3回あったとされた今川氏と吉良氏の敵対について、「従来の2回の直接的な軍事衝突だけでなく、それ以前の『背信』的行為も重視すべきであろう」と修正されました。つまり、直接的な敵対は2回(天文18年と弘治元年)で、そこに至る過程で吉良氏には、今川氏の宿敵斯波氏との縁組や安城への出兵、中嶋奪捕時の出兵といった織田信秀と軍事的協力関係があったことを指摘されています。

【吉良氏VS今川氏】2度目の敵対が天文18年に

この史料が、渡の合戦後、吉良義安の不穏な動きに対して、今川軍が天文18(1549)年9月、吉良荘に侵攻した際のものだとして、「文中で『近年の非法の所業』を改めるよう、今川義元が『再三にわたって』申し入れていたと記されている。これが今川氏に対する吉良氏の2度目の敵対になるが、もしかすると吉良氏は渡の合戦以降、何度も小さな敵対をしてきたのかもしれない。この史料の宛て先が吉良氏当主ではなく、重臣団に当たる『西条諸老』になっているのは、起草した太原雪斎が吉良氏から見ると分家の家臣なので、直接吉良氏に手紙を出すことができない上、当主義安が幼少で、家臣団の分裂を家中で解決させようとする意図もあったようだ」と解説されました。

【吉良氏VS今川氏】弘治元年の3度目で衰滅へ

3度目の敵対を示す史料として、今川義元が荒川甲斐守(吉良氏の一族で八ツ面城主)とみられる人物に送った書状を紹介。「弘治元(1555)年2月、鳴海にいた織田方の山口教継が、今川方に転身した。その後、今川方の勢力は奥三河を経て、三河と美濃の国境にまで達していた。そうした中で、吉良義安は今川義元に対し、3度目の敵対をする。義元の書状によると、義安の弟・長三郎を人質として、尾張の緒河(東浦町)の水野氏に送った。緒河と苅屋(刈谷市)の水野氏の誰かが西尾城に入った。この首謀者は大河内氏と冨永氏で、荒河、幡豆、糟塚、形原を堅固に守っているという記述もある。緒河水野氏に人質を入れ、軍勢を西尾城に引き込んだことは、義安自身が挙兵しなくても今川氏への敵対行為になる。書状で義元は『義安様は何が不足というのか。理解できない』と厳しい口調で不満をぶちまけている。義元は吉良荘内をことごとく放火し、吉良氏は事実上の衰滅になる。義元は弘治元年閏10月15日に第二次川中島合戦の仲裁に動いているので、閏10月には吉良氏の敵対が落ち着いていたのではないか」と解説されました。

 

 

その後の三河について「吉良氏の敵対があったあと、特に東三河の領主が今川氏への反乱を起こした。今川氏を支えてきた太原雪斎が弘治元年、朝比奈泰能が弘治3年に亡くなり、今川氏の内部が不安定なのをみた織田氏が、火を付けたのだろう。三河に当時の織田の動きを示す文書は残っていないが、火種を要所に置きながら領主を反今川に傾かせるなど、織田は継続的な戦略が巧みだった。今川氏はそこに苦しめられていた」と述べられました。

 

今川氏から見た吉良氏について「吉良氏は生き残るため、今川氏への反乱をする。今川氏はたたくか残すか、選択を迫られ、残した方がよいと判断したものの、2度目の反乱を起こされた。3度目の反乱で吉良氏は衰退に追い込まれた。東三河の領主が反今川に傾くきっかけになったほどなので、三河における吉良氏の存在感は強い。吉良氏が衰退し、今川氏も不安定になる中、吉良氏重臣がどう考えたかが見えると、もっと面白くなる」と締めくくりました。