元禄赤穂事件ゆかりの自治体が集う第2回「吉良サミット」が2015年12月13日、西尾市文化会館大ホールで開かれ、市民をはじめ友好都市提携を結んでいる山形県米沢市など県外からも多くの関係者が参加しました。第1部で鼎談(ていだん)や第2部でパネルディスカッションが行われるなど、それぞれの立場から事件の真実に迫りました。当時の報道に基づいて再録します。

 

  

 

地元で名君として慕われながら、脚色が加わった「忠臣蔵」では悪役として描かれた吉良上野介義央(よしひさ)公の汚名を晴らし、実像を全国に発信しようという企画。2014年に米沢市で第1回が行われました。

 

開会にあたり、榊原康正西尾市長(当時)が「昨年12月に米沢市で第1回が開催されている。歴史上、最大の被害者で悪役として描かれてきた義央公の真実の姿を明らかにし、名誉を挽回する催し。元禄赤穂事件を問い直すとして、それぞれの立場から熱く語っていただく。史実に基づく真実の姿を西尾市から全国に発信したい」とあいさつしました。

 

愛知県の石原君雄副知事が大村秀章県知事の祝辞を代読した後、アトラクションとして吉良町内の小学生による「吉良さん学習発表」行われました。吉田小は吉良という地名になった理由、津平小は吉良流礼法、横須賀小は黄金堤、荻原小は赤馬、白浜小は真正寺や富好新田などについて発表し、会場から「よく分かったよ」などと声が掛けられていました。

 

  

 

続くプロローグでは、西尾市岩瀬文庫学芸員の林知左子さんが登壇。「おさらい『忠臣蔵』~三十分でわかる元禄赤穂事件~」と題して話しました。林さんは元禄赤穂事件について、元禄14(1701)年3月14日に発生した「松の廊下刃傷事件」から翌年12月14日の「吉良邸討ち入り事件」、さらに翌年2月の吉良義周(よしちか)が諏訪(長野県諏訪市)へ流罪となるまでをあらためて紹介。「これが理由だという決定的なものはない。事件後にさまざまな憶測を呼んでいるが、無責任なうわさに過ぎない」と述べ、世間で取りざたされている事件の理由などについて史実をもとに次々と否定しました。

 

「元禄15年12月14日に吉良邸討ち入り事件が勃発した。元禄16年2月4日は赤穂浪士に切腹の裁定があり、2月11日に義周が諏訪へ流され、吉良家が断絶した。これに脚色されていくのがいわゆる忠臣蔵。奇しくも47年後、1745年には仮名手本忠臣蔵が上演された。波乱万丈のストーリーになっていて、多くの人たちに受けた。これ以降、元禄赤穂事件というものは、歴史上の真実よりも物語をもって日本中に記憶されていく。現代まで、嫌なやつだと毎年続くネガティブキャンペーン。毎年、そういった風評被害が続く」と述べました。

 

さらに、「手放しで討ち入りを承認するばかりではなかった。盲目的な忠義は武士道ではないという批判があった。明治のころまで事件を検証しようという動きがあったが、それ以降、検討、総括することをやめた。吉良の人たちは耐えに耐え、ただただ耐えてきた。そろそろ声を上げていきたい。今こそ、冷静に資料を検討し、悲惨な事件を美談ととらえて思考停止する現代に一石を投じるべき。彼らの名誉回復はもちろん、目的は手段を正当化することはあってはいけない」と、史料をもとに事件の背景などを分かりやすく解説。西尾市として“忠臣蔵史観”に宣戦布告する形になりました。

 

第1部の鼎談には、司会者に東京大学史料編纂所教授の山本博文氏を迎え、德川宗家十八代当主・德川恒孝(つねなり)氏、上杉家第十七代当主・上杉邦憲氏と榊原康正西尾市長が登壇し、「元禄赤穂事件を問い直す」をテーマに話し合いました。

 

 

山本氏 赤穂事件、忠臣蔵といわれる話について思うことを話してほしい。

德川氏 戦う武士から政治の武士へと変わった。世界的に全く例のない250年余の平和な時代の真っただ中に起こった話。武家のルールがあるが、逆に新しい日本が作られるはざまで起こったのではないか。

上杉氏 刃傷事件は、明らかに犯罪であることは間違いない。殿中で刃物を振り回す、後ろから切りつけるというのは何を言っても申し開きのできない犯罪だ。

榊原市長 赤穂事件は美談ではなく、吉良家にとって悲劇。芝居としての忠臣蔵が非常によくできた物語で、大衆に受けた。真実は随分違う。その真実を見る目が必要かと思う。

山本氏 浅野内匠頭の行動をどう思うか。

德川氏 浅野内匠頭が非常に若い、精神的にも若いということだ。年齢、経験が若かった。周りについている人が、抑えられなかったのが残念なことだ。

上杉氏 原因がよく分かっていない。四十七士もよく分からずに討ち入りした。結局、何で起きたか分からないまま討ち入りまで行ってしまった。やり切れない思いがある。

榊原市長 落ち度は、吉良さんにはなかった。若いということだと思う。

上杉氏 やみ討ちはテロそのものだと思った。現代でも防ぐことは難しい。幕府側が、なかば容認していたのではと私も感じている。

榊原市長 浅野の敵役は幕府だと思う。吉良氏を殺害するのは、私は間違いだと思う。お年寄りを集団で惨殺したことは、義侠ではない。

山本氏 幕府の裁定については?

德川氏 当時、どうしようかと意見が分かれたと思う。それで良かったのかと言っているうちに討ち入りが起こった。ずい分、内部で議論があったと思う。

上杉氏 大変悩まれたと思う。どうしても納得いかないのは、義周公の処遇。罪人として、鳥かごに入れられて運ばれた。当時17歳で、病気になって20歳で亡くなった。けんか両成敗だが、いまだに納得いかない。

榊原市長 義周さんは、父のために傷だらけで戦って、諏訪へ流された。罪人のまま亡くなられたことが地元の者にとって非常に気の毒な気がする。

 

第2部のパネルディスカッションのテーマは「歴史輝くわがまち~過去、現在、そして未来へ~」。パネリストには浅野長矩の切腹が江戸一関藩邸で行われたことから岩手県一関市の長田仁副市長、米沢藩上杉家と吉良家が3度の縁組を行ったことから米沢市の安部三十郎市長、討ち入り事件が起きた吉良邸のあった東京都墨田区の金子明観光課長、義周の配流先で最期の地となった長野県諏訪市の高見俊樹教育部次長、西尾市の榊原市長=いずれも当時=が登壇し、同事件など歴史を生かしたそれぞれの自治体の取り組みを紹介しました。

 

 

翌12月14日には、吉良義央が眠る西尾市吉良町の華蔵寺で「吉良公毎歳忌」が営まれ、德川恒孝氏と上杉邦憲氏も参列しました。当時の報道によりますと、お二人は次のように述べられたそうです。

 

吉良公毎歳忌で吉良小唄の輪に加わる

德川恒孝氏(左)と上杉邦憲氏

 

德川氏 初めて吉良様の命日に参列できてよかった。いろいろな感慨があった。地元の皆さんが吉良様を慕っている様子がよく分かって感動した。後世では様々な見方があるが、当時の人々が平和な時代を築こうとする中、吉良様も素晴らしい人物で頑張られたし、当時の幕府の重役も総合的に考えてベストを尽くしており、悪意があったとは思えない。地元の人たちが無心になって顕彰することに意義がある。

上杉氏 毎年お参りできず申し訳ないが、今回は德川宗家や田村家当主も迎えて盛大に法要が営まれ、子孫の一人としてお礼申し上げたい。昨日の吉良サミットでは吉良様だけでなく、義周様のことも聞いてもらえるチャンスを頂き、厚くお礼申し上げたい。