西尾市上町に「実相寺」という臨済宗のお寺がありますが、このお寺を鎌倉時代の1271(文永8)年に創建したのが足利満氏という人物で、吉良氏の始祖・足利長氏の嫡男、つまり吉良氏の2代目であります。生まれた年は分かっていませんが、1252(建長4)年と54(同6)年に鎌倉将軍(宗尊親王)の随兵を務めたことが分かっています。

 

西尾市上町にある実相寺の釈迦堂

 

当時の満氏は足利氏の庶子家(分家)でしたが、叔父で足利惣領家(本家)の泰氏が51(建長3)年に突如出家して幕政から姿を消し、54年には祖父・義氏が死去し、62(弘長2)年には幼少だった惣領家の当主・頼氏も死去してしまい、惣領家そのものが衰微していきました。これに替わって足利氏の活動を担ったのが庶子家でした。

 

庶子家の中でも、後の斯波氏になる「足利尾州家」の家氏の活動が顕著だったことは、小川信さんの『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館・1980年)で解明されていますが、後の吉良氏になる「足利総州家(満氏父子が「足利上総」と称されているため)」も活発に活動していたことを、谷口雄太さんが東京大学大学院時代の修士論文「中世吉良氏の研究」(2009年)で解明しています。

 

それによると、満氏は泰氏の娘を正室としていましたが、1275(建治元)年の異国征伐計画の中で、唯一の足利氏勢として登場していることは注目に値するそうです。また、71年に三河国吉良荘で実相寺を建立するのに際し、吉良荘領主だった九条家を通じて聖一国師(円爾弁円)を招請し、以後、聖一国師の弟子たち(臨済宗聖一派)との間に緊密な関係を築いていく基盤を形成するなど、寺社との間に独自のパイプを構築していたということです。また、満氏の妹は土御門顕方の正室となるなど、公家との間にも独自の関係を持っていたことがうかがえるそうです。

 

実相寺にある聖一国師像

 

このことから谷口さんは「当時、総州家もまた、非常に大きな勢力を有していたことがうかがえる。つまり、尾州家のみならず総州家も含めた庶子家全体が、この時期の足利氏を代表する勢力だったことが想定される」としています。

 

ところが、やがてその足利庶子家にもまた、陰りが見え始めてきます。1284(弘安7)年4月に北条時宗が出家、死去したのと時を同じくして、満氏が出家しています。その年の後半、安達泰盛と深い関係を持っていた佐介流北条時国が殺害され、足利惣領家の家時が自殺するという事件が起きました。時国の正室こそ満氏の娘でありまして、翌85(同8)年の霜月騒動では「足利上総三郎」が誅殺されてしまいます。

 

霜月騒動は幕府創設以来の有力御家人だった安達氏と、執権北条氏の勢力が争った内乱ですが、『愛知県史通史編2・中世1』(愛知県・2018年)では、「足利上総三郎」を満氏だとして、満氏が吉良荘内今川の地をめぐり、隠居の父・長氏やその孫の今川基氏と対立しており、安達派の有力与党だった満氏に対抗するため、長氏・基氏は北条氏派に属したことから、満氏の誅殺で没収されるはずだった吉良荘は吉良氏(足利総州家)の手中に残された――との見解が示されています。

 

一方、谷口さんは「足利上総三郎」を満氏の子・貞氏だとしています。騒動時に満氏が出家していたとすれば、誅殺された「足利上総三郎」は満氏の嫡子でしょうし、長氏・基氏との対立も「今川家譜」によるものであり、同時代史料から明らかにする必要がありそうです。また、満氏の妻には泰氏の娘のほか、騒動で北条氏派だった佐々木氏信の娘もおり、満氏が誅殺されたと考えるには疑問が残るところです。このあたりは『新編西尾市史』の中世を含む通史編発刊(2021年度末)を待ちたいと思います。

 

 

ともあれ、その後、13世紀末における足利氏の活動はいったん、歴史上から見えなくなります。満氏についても記録はなく、いつ亡くなったのかも分かっていません。満氏が創建した実相寺はその後、中世吉良氏の菩提寺として栄えていきます。