【吉良荘】平安後期に現るで、吉良荘から摂関家に装束が進上されたことを紹介しましたが、吉良荘で織物が盛んだったとすると、思い出されるのが、西尾市天竹(てんじく)町の天竹神社に残る「799(延暦18)年7月、天竹の地に崑崙(こんろん)人が漂着し、綿の種のまき方や栽培方法を教え、日本に初めて綿を広めた」という伝説です。江戸時代から近代にかけて西尾市は、木綿の一大産地で織布業が盛んだったことから、広く信じられています。天竹神社は日本で唯一、綿の神「棉祖神」を祭る神社として知られ、毎年秋には綿打ちの儀を行う「棉祖祭」が行われています。

 

 

天竹神社と棉祖祭

 

西尾市の『新編西尾市史研究』第1号(2015年3月・完売)にある田島公さん(東京大学史料編纂所教授)の論文「延暦十八年の崑崙人(天竺人)の参河国漂着と綿種の伝来」では、崑崙人がどこからやってきたどのような人物で、どう活動し、地元側がどのように応対したのかが考察されています。また、地元に残る伝承について3人の岩瀬文庫学芸員が考証しています。今回はその内容をかいつまんで紹介したいと思います。

 

 

【史実】799年に三河へ漂着

 

田島さんによると、崑崙人の漂着に関する一次史料は史書「日本後紀(にほんこうき)」「類聚国史(るいじゅこくし)」で、「延暦18年7月、小舟に乗った異国人が参河国に漂着した。袈裟のような紺色の布を左肩に着け、袴ではなく、ふんどしのようなものを着けていた。年齢は20歳くらいで、身長は5尺5分(約153cm)と小柄だが、耳の長さは3寸(約9cm)余り。言葉が通じず、出身国が分からなかったが、唐の人たちは『崑崙人』だと言った。その後、中国語を習って自分から『天竺人(インド人)』だと言った。船に乗せて持ってきたものを調べると、草の種のような物があった。これを綿の種という。本人の希望で『川原寺』に住まわせた。ただちに身に従えたものを売って、屋を川原寺の西の郭の外側の路のあたりに立てて、困窮者を休息させた。その後、近江国の国分寺に移り住んだ」といった内容が書かれているそうです。

 

 

【国籍】東南アジア出身

 

崑崙人の漂着場所は「参河国」とのみあり、三河湾内なら幡豆郡になる公算は高いものの、詳しい漂着地点は不明だそうです。文中に「中国語」とありますが、これは今のChina(当時なら唐)の言語ではなく、「日本書紀」に日本人が自国を「中国」と呼ぶ用例が複数あることから、崑崙人が日本語を学んで自分を「天竺人」だと名乗ったという意味になるそうです。ただ、「旧唐書(くとうじょ)」「続日本紀(しょくにほんぎ)」などからみて、崑崙人は東南アジア(インドシナ半島~マレー半島)の人だと推定されています。

 

【対応】国司が天皇に報告

 

古代では、異国人が漂着した場合、「養老公式令(くしきりょう)」の遠方殊俗条という規定で、着岸した国の国司・郡司による天皇・太政官への報告が義務付けられていたようで、「日本後紀」に書かれた崑崙人漂着の記事は、参河国司らが桓武天皇に報告した内容に基づいていると考えられています。そのため、崑崙人の風貌などが詳しく記され、所持品検査も行われていたということです。

 

【生活】矢作川上流の北野廃寺?

 

自ら願い出て崑崙人が住んだ「川原寺」については、通説だと奈良県明日香村の川原寺(かわはらでら)を指すといわれているようですが、そこへ行く理由が分からないため、当時の史料で「川原寺」を探すと、川原(かわら)にあった寺も指すことが分かったそうです。崑崙人漂着伝説がある三河国幡豆郡には矢作川があることから、上流の岡崎市北野町にあった国指定史跡・北野廃寺が「川原寺」だった可能性を指摘しています。さらに、宮廷歌謡「催馬楽(さいばら)」に見える「矢矧(やはぎ=矢作)の市」で、崑崙人は身に着けていたものを売り、発掘調査で北野廃寺の西側にあったとされる板塀の外側の道に「屋」を建てたとの見解を示しています。

 

 

【伝説】東三河で「天竹発祥説」誕生

 

さて、この日本後紀の史実が、どのようにして西尾市天竹町と結びついていったのでしょうか。田島さんの論文の付録論考3編のうち、神尾愛子岩瀬文庫学芸員の「天竹町天竹神社と崑崙人漂着伝承に関する史料について」によると、17世紀半ばの「西尾草創伝」に「天竹村より綿の実出たり」とあるのが最古の記述で、当時すでに「天竹村=綿の発祥地」という伝承が存在していたようです。ただ、崑崙人の漂着について触れられていないそうです。

 

18世紀になると、新城の俳人・太田白雪著「はるさめはなし」や吉田(豊橋市)の林自見著「三河刪補松(みかわのさんぽのまつ)」に、「綿の種を初めて植えたのは天竹村」「延暦18年の蛮人船漂着地は天竹」と記されました。両書の記事はさまざまな文献に引用され、19世紀になると、逆輸入のような形で寺津八幡社(西尾市寺津町)の神官・渡辺政香(まさか)の著書に繰り返し採り上げられるようになったそうです。

 

近代になると、「国家ニ有功ノ神霊ヲ神社ニ祭ラシメ玉フ盛時」(三河国天竹社記)となり、1883(明治16)年に綿祖神(新波陀神)を祭神とする天竹神社が建立されました。これを機に、従来の伝承を整理すると共に、幕末期に矢作古川堤防から出土した「古代の壺」を、崑崙人の綿壺と結びつける要素を加えた『三河国天竹社記』が版行されたことで、現在に伝わる「天竹=崑崙人漂着地・綿発祥地」説が一般に広まったそうです。

 

 

【綿壺】崑崙人漂着とは無関係

 

「古代の壺」については、付録論考のうち、三田敦司岩瀬文庫学芸員の「天竹神社所蔵の須恵器壺」によると、現在の西尾市天竹町堀内の矢作古川堤防沿いで、幕末の1852年2月に天竹村の安藤治助が耕作中に発見したとの記録があるそうです。記録では、1881年に県令が三河を巡視した際、治助の長男が壺の破片を見せたところ、「天竹村の地蔵堂に祭る棉祖神が綿の実を入れて持ってきたものだろう」と言ったため、1883年、村人たちが崑崙人を祭る天竹社を建て、割れていた壺を名古屋の名工・中村又斎に復元してもらい、神宝になったということです。

 

論考によると、壺(考古学的な分類では甕)は日本三大古窯の一つ、猿投窯(さなげよう)産とみられ、7世紀初頭を中心に6世紀後葉から7世紀前葉の製作と推定されています。完形品で出土していることから、内容物を入れて埋納したか、据え置かれたものが埋没したと考えられています。ただ、壺は古墳時代の所産なので、残念ながら、799年の崑崙人漂着に結びつくものではないそうです。とはいえ、7世紀初頭ごろの天竹村周辺は人が住める場所だったので、平安時代初めに異国人の漂着可能な海岸が近くにあったとの想定は可能だということでした。