吉良氏といえばふつう、源氏の流れをくむ鎌倉時代の足利長氏(おさうじ)を始祖とする一族を指しますが、【吉良氏起源】 でこれとは全く異なる平氏の流れをくむ吉良氏「平姓吉良氏」の存在を紹介しました。町田有弘さんの研究によると、長氏が入る前の吉良荘の開発領主が平姓吉良氏で、鎌倉時代の史書「吾妻鏡」にある「吉良氏」はすべて平姓吉良氏だということです。

 

「太平記」の巻九「越後守仲時已下自害事」では、1333(元弘3)年5月7日、糟屋宗秋が京都を脱出した六波羅北方探題の北条仲時に、「吉良ノ一族モ度々ノ召ニ不応シテ、遠江国ニ城郭ヲ構テ候ト、風聞候シカバ、出合ヌ事ハ候ハジ」と進言する記述があり、研究者の間ではこれまで、この吉良氏が足利の支族と考えられてきたそうです。

 

 

 

しかし、このブログでも何度か示してきたとおり、足利系吉良氏は南北朝時代まで「足利」を苗字としています。それから、足利系吉良氏は鎌倉時代を通じて足利宗家とは独立した関東御家人として将軍に奉仕しており、北条氏の御内人(直臣)ではないため、六波羅探題の召集に応じること自体が考えられず、加えて足利系吉良氏の遠江支配は1341年以降であることが分かっています。

 

 

【遠江吉良氏】執権北条氏の直臣?

 


遠江国に城郭を築いたと風の便りに聞こえた吉良氏とはどのような存在だったのでしょうか。太平記の時代に吉良氏の登場する史料を次に掲げます。①1335年11月10日に足利直義が吉良右衛門二郎入道跡ほかの遠江国富士不入斗(静岡県掛川市入山瀬)の地を富士浅間宮に寄進した「足利直義寄進状」②1345年11月に地頭代覚舜・領家使定祐が領家年貢と佃米を注進する中に「吉良次郎跡」がある「遠江国原田庄細谷郷領家年貢并佃米注文案」 ③1347年11月に作成された年貢・佃米徴符の中に「木良次郎代」がある「遠江国原田荘細谷郷領家年貢細々物徴符」④1362年10月に地頭代大森師益が領家年貢と佃米を注進する中に「木良次郎跡」がある「遠江国原田荘細谷郷領家年貢・佃米注文案」―の4件です。

 

 

小 林輝久彦さんは「以上の史料に登場する吉良氏が前出の太平記にも登場する遠江吉良氏であり、『次郎』『右衛門二郎』などの仮名・官途の一致から、三河の平姓吉良氏に出自を持つものと推定する。平姓吉良氏が遠江を領するようになった経緯は明らかでないが、1275年5月の『六条八幡宮造営注文』に掲げる遠江の御家人に平姓吉良氏の名が見えないことから、このころすでに得宗御内人(執権北条氏直臣)だったと考えられ、関係の深かった北条時房が遠江守護で、その後も鎌倉幕府滅亡に至るまで北条一門の大仏氏が代々守護職を継承したことと関係があると推定する」と考えてみえます。

 

 

 

【中先代の乱】平姓吉良氏・時衡が鎮圧へ

 

 

1335年には鎌倉幕府最後の執権北条高時の次男・時行が、建武政権に対する反乱「中先代の乱」を起こします。時行は北条一門の勢力が強い信濃国で蜂起しますが、同年5月に乱を鎮圧しようと京都から信濃に下向した軍事指揮者として「吉良時衡」の名が「市河文書」にあるそうです。北原正夫さん はこの時衡を足利系吉良氏の満義の一族で代官だとされました。また、1340年に吉良時衡が信濃国守護代として再登場し、この当時の信濃国守護職が満義だと考えられました。

 

 

小林さんは「吉良時衡が足利系吉良氏の一族ではなく、平姓吉良氏の一族であることは、その実名の通字『衡』から推定される」としながらも、「足利系吉良満義と吉良時衡が主従関係だったことは肯定できる」との考えを示しています。だとすると、足利系吉良氏が吉良荘に入部した当時、平姓吉良氏とはどのような関係を築いたのでしょうか。

 

 

【足利系吉良氏】長氏は平姓吉良氏の女婿?

 

 

平姓吉良氏が吉良荘の開発領主だったことと同時に、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱(1221年)で上皇側の兵力に「三河国ニハ駿川入道・右馬助・真平・滋左衛門尉…」(慈光寺本承久記)とあるうち、不詳とされている「真平」が平姓吉良氏と考えられることなどから、乱で上皇側として戦って吉良荘が没収地になった可能性が指摘されています。その後、足利系吉良氏が“承久没収地”の吉良荘に入りますが、在地勢力である平姓吉良氏と友好的関係をどう樹立したのかは分かっていません。

 

 

 

小林さんは「ただ、足利系吉良氏の始祖長氏が足利家惣領義氏の長男でありながら、母親が『家女房』であるために惣領を北条泰時の娘を母に持つ弟・泰氏に譲ったとされている。しかし、足利一門で庶子だったために他姓を名乗って宗家の家臣になる例はあっても、宗家と並立して足利を姓として独立した関東御家人として鎌倉幕府に出仕したという例は斯波氏以外にない。長氏は平姓吉良氏の女婿ではなかったか。そうなら義氏は泰氏を惣領にすることで、北条氏との関係強化を図り、長氏を平姓吉良氏と同格の関東御家人として勤仕させることで、平姓吉良氏との融和を図った。平姓吉良氏は女婿である長氏が吉良荘を支配することを容認し、その一部は長氏の子孫の家臣になっていったのではないか」と興味深い仮説を示してみえます。

 

 

遠江吉良氏のその後については、前出の史料4件から遠江吉良氏の所領がすべて「~跡」とあるため、吉良氏がその所領を没収されているか、遺跡の継承者が不明であることが分かるそうです。小林さんは史料①の時期が中先代の乱の終結後であることから、「遠江吉良氏は中先代の乱に際して北条方に与し、乱後その所領を没収されて没落したのではないか」との見方を示してみえます。

 

 

【空白の100年】平姓吉良氏はいた!

 

 

一方、町田さんと小林さんの研究からは、鎌倉時代後期に当たる1240~1333年の約100年間にわたる平姓吉良氏の存在が確認できないとして、谷口雄太さんが論考「足利氏御一家補考三題」(2013年10月・「十六世紀史論叢」収録)で、この間の動向を埋めてくれる史料「御的日記」(内閣文庫本)を紹介しています。中世の幕府における弓始の儀に関する記録だそうです。

 

 

それによると、弓始の射手として「吉良」という人物が1307~32年に計12回登場します。「吉良孫次郎信衡」「吉良彦次郎介衡」「吉良彦三郎朝衡」の3人が見えるということで、「衡」の一字と弓始の儀で活動していることから、いずれも平姓吉良氏の人物とみられるそうです。

 

 

※【空白の100年】は2014年4月13日追記

 

 

【出典】「遠江の吉良氏~平姓吉良氏の消長~」(2007年・小林輝久彦)、「足利氏御一家補考三題」(2013年・谷口雄太)