複数の報道によると先日、守護・戦国大名である今川氏の子孫という男性が、西尾市今川町にある「今川氏発跡地」を訪れ、今川了俊の墓に手を合わせたということです。男性のご尊父が作成された系図によると、有名な今川義元の祖父・義忠の兄弟である範頼から続く子孫だそうです。男性が駐カンボジア大使だったことで縁のあった幸田町の関係者から、今川氏発跡地の存在を知られたとのことです。

 

  

西尾市今川町にある「今川氏発跡地」(左)と「今川了俊の墓」

 

さて、報道をご覧になった郷土史家の先生方から、「系図が通説と異なる」という指摘を聞きました。通説だと範頼が義忠の兄弟ではなく従兄弟だと言うのです。調べてみると、小和田哲男さん(静岡大名誉教授)が作成された系図だと、義忠の父・範忠の弟・範慶の子が範頼で、確かに従兄弟ですが、有光有學さん(横浜国立大名誉教授)による系図だと、義忠の父・範忠の弟が範頼になっており、義忠の叔父になっています。

 

 

 

 


範頼の系統は「小鹿(おしか)氏」を名乗るそうですが、範頼の子・範満が伊勢新九郎(北条早雲)に討たれ、小鹿氏は滅亡したと考えられていました。しかし、小和田さんが2003年、上田城・神川の戦い(1585年)で岡部長盛の家臣の「小鹿又五郎」という人物が戦功をあげたことを記した史料を見つけられました。史料には「この小鹿は駿河衆で、今川範忠の次男小鹿又五郎範慶の後胤らしい」と書かれています。

 

   

 

小鹿範慶という人物は、小和田さんが示された系図だと、小鹿氏祖の範頼の父親と、義忠の弟の2人あります。小和田さんは「(2人の)範慶を同名異人とみるのか、系図上の単なる混乱にすぎないのかをみきわめていく必要がある」としながらも、「(攻め滅ぼされたものと考えられてきた)小鹿氏が近世にまで存続したことは明らかだ」としています。

 


男性が所持していた系図をご覧になった方によると、「範慶」が存在していなかったということです。伊勢新九郎に討たれた範満が「範清」になっていたようですが、小和田さんが示された系図の「範満」を見ると、脇に「新五郎 範清」とありますので、初名か別名でしょうか。男性の系図は範清以降、範信、信勝と続いて江戸時代に入り、「御鷹匠同心」「仙洞御所同心」などを務めた人物が続くそうです。

 

小林輝久彦さんのご助言を仰いだところ、範頼から続く男性の祖先は江戸時代、幕府御家人の家柄だと分かるそうです。将軍への拝謁「御目見(おめみえ)」が許されない御家人身分の武士の系譜は、御目見できた旗本以上の系譜である「寛政重修諸家譜」のように官選で編さんされなかったため、明らかでない部分が多いということです。

 

 

今川氏の子孫が父祖の地を踏んだというだけでも驚きですが、研究者にとってはその子孫が実は不明だった小鹿氏の系統だった、という別の意外性があったようです。今川氏発祥の地で明らかになった新出の系図が、今後どのような波紋を広げることになるのか、注視する必要がありそうです。

 

 

※系図画像は筆者が作成したものです。