中世の吉良氏を見ると、尾張などの守護だった斯波(しば・しわ)氏との関係が存在します。斯波氏は足利一門で重きをなした鎌倉~室町時代の動きが注目されていますが、戦国時代に没落したため、応仁・文明の乱以降の動きは研究対象とされることが少ないようです。このブログでおなじみの東京大学大学院の谷口雄太さんが、「戦国時代の斯波氏は幕政上重要な役割を果たすなど無視できない動きをしていた」ということで、戦国時代の活動について研究してくださったので、谷口さんによる静岡県地域史研究会報告「戦国期斯波氏の基礎的研究」(2013年6月)の一端を紹介したいと思います。

 

 

【斯波義敏】中央で復権の足がかり築く


戦国時代に突入した画期の一つである応仁・文明の乱(1467~77年)で、斯波氏は守護職をめぐる争いも絡んで義敏が東軍、義廉が西軍に分かれて戦い、義敏が勝利すると、越前・遠江・尾張3国の守護職は義敏とその子・義寛のものとして再確定しました。義敏は在京して中央での貴顕との関係・交流を主とし、義寛は京都と領国を往来し、各地での転戦を主として斯波氏の復権を目指していました。

 

越前を見てみると、応仁・文明の乱で斯波氏の家臣である朝倉氏と甲斐氏が激しく対立し、勝利した朝倉氏が越前の実権を掌握します。朝倉氏が斯波氏に対して反抗的な態度を取り始めると、在京していた斯波氏は朝倉を征伐しようと1479年、義敏・義寛・義孝(義敏弟)が家臣団と共に尾張へ下向し、越前に進撃します。が、義廉の子を擁して抵抗する朝倉氏に勝てず、83年、尾張に撤収します。

 

9代将軍足利義尚が六角征伐を始めた1487年、斯波義寛は尾張から軍勢を率いて近江に向かいましたが、義寛は六角征伐の総大将を務めていました。90年に将軍病没で征伐は中断されますが、91年に新将軍義材が征伐を再開すると、義寛は対六角戦の先陣を拝命し、92年には総大将として近江に出撃しました。この年には次期管領候補にも挙げられていました。

 

【斯波義寛】将軍の政治・軍事的名代に

 

戦国期の史料には斯波氏が「将軍の御名代」との自負を持っていたとあり、義寛を「副将軍」と記すものもありますが、「総大将」「管領(候補)」との記述で実際に義寛が将軍の政治的・軍事的代理人だったことが、同時代史料から裏付けられました。斯波氏ら「管領家」が将軍の政治的・軍事的代理人であるのに対し、吉良氏ら「御三家」は将軍の儀礼的・血統的代理人だったと言えます。後に将軍足利義昭は織田信長に「管領」か「副将軍」を与えようとしますが、まさしくそれは斯波氏のポジションであり、実際、信長に斯波の家督を継承させようとしていることから、義昭が信長を斯波に代わる存在と位置づけようとしたことが分かります。

 

六角征伐のころ、義寛の父・義敏は1488年に「笙始(しょうはじめ)」を行い、91年には楽人・豊原統秋に名器「達智門」を持参させています。これらは足利氏が武家の長であることを表す儀式でしたが、武家では南北朝時代の斯波義将・義種兄弟のみが笙を学んでいたことから、義将らの子孫である義敏が子・義寛の総大将就任を機に、斯波氏の権威復活を大々的に吹聴するために行ったのではないかと考えられています。これより前の85年に義敏は「左兵衛督」「三位」という諸大名ではそろえがたい高官高位を得ており、これも斯波氏の威勢や栄光を示すのに十分でした。

 

斯波氏は戦国時代に入ると政治的にも経済的にも儀礼的にも徐々に後退していったと考えられてきました。この認識は事実として誤ってはいないものの、当時の斯波氏はその状況に甘んじていたわけではなく、何とかしてその状況を打開しようとしていました。とりわけ1486~92年にかけては名門復活の兆しすら認められ、そのことを軽視すべきではないということです。

 

【斯波義達・義統】尾張を固め旧領奪還へ野心

 

斯波義寛は1513年に死去し、子・義達が跡を継ぎます。義達は11年ごろ遠江に出陣しますが、今川軍に敗れて13年には尾張に帰国。16年に再び遠江に向かいますが完敗を喫し、17年に尾張へと送還され、領国だった遠江を失います。『言継卿記』からこのころ、斯波一族全員が尾張に在国していたと考えられています。また、30年代ごろには尾張国内の有力者である今川名古屋氏や石橋氏との姻戚関係を構築したとする史料もあり、尾張で地盤を固めようとした姿勢がうかがえます。

 

義達は1533年を最後に史料から姿を消し、37年には子・義統が尾張妙興寺に寺領安堵の書下を与えているので、そのころに代替わりがあったと思われます。尾張にあった義統は従兄弟違いの斯波義信を加賀に送り込み、旧領である越前の奪還計画を立てて本願寺へも門徒動員を働きかけますが、本願寺側の協力が得られず、越前奪還の悲願は達成されませんでした。斯波一族が広域的に連携して旧領奪還を図ろうと野心的にうごめいていた点が興味深いということです。

 

旧領回復や勢力拡大を目指す義統の野心は尾張の周辺にも向けられました。1549年以前、義統は娘を吉良義安に嫁がせ、吉良氏を反今川へと傾ける政治工作を行いましたが、結局失敗に終わりました。義統はその後、織田信友らによって尾張で殺害されます。義銀が家督を継承しますが、信長によって尾張を追放され、斯波氏は領国のすべてを失いました。義銀はこれまで『信長公記』などから父が義統とされてきましたが、「東庵法語」では義達とされており、義統と義銀が親子か兄弟か今後の検討課題とされています。