【武蔵吉良氏】強豪ならずも放置できず


中世の吉良氏を調べていると、『吉良氏の研究』(名著出版・1975年)という本を書かれた荻野三七彦さん(おぎのみなひこ、1904―92)に突き当たります。日本古文書学の大家として有名ということで、早稲田大学文学部史学科を卒業後、法隆寺国宝保存事業部や東京大学史料編纂所勤務を経て、早稲田大学文学部教授に任じられ、日本歴史学協会委員長や早稲田大学図書館長、文部省学術審議会専門委員などを歴任されたそうです。

 

戦国時代の武蔵吉良氏の頼康と伝わる画像(『吉良氏の研究』から)

 

『吉良氏の研究』は戦国時代の武蔵国世田谷に本拠を置いた吉良氏について「強豪な武将ではないが、後北条氏の支配関係を考察するうえで放置できない」ということで、吉良系図の考察を中心に後北条氏との関わりなどを探ってみえます。この中ではわずかながら、三河の吉良氏についても触れられており、平安時代の吉良荘の在りようや鎌倉時代の足利義氏による領有、義氏の子らによる支配について、確実な史料が少ない中で精査されています。

 

武蔵の吉良氏について荻野さんは同書のはしがきで、「研究が遅れているために吉良氏に関する知識の多くは江戸時代から進んでいないのが現状」と述べています。研究が遅れている理由については「研究の必要性・重要性というものが乏しいこと」と「吉良氏関係史料の未整理によること」と分析。中でも9本あるという「吉良系図」について、「どれも信頼し難いもの」なのに「無批判に引用せられ、そのまま通用せられて」いることを嘆いてみえます。

 

【地名吉良】上代の史実にある起源
 

三河の吉良氏について荻野さんは『吉良氏の研究』出版後、『歴史手帖』(1978年7月号・名著出版)の「特集・三河地方史の展望」で、「吉良氏の三河支配について」と題した論稿を寄せてみえます。吉良荘が平安時代から鎌倉時代前期まで公家領だったこと、その後に足利氏が領有したことやその意義などについて書かれており、主要部分は『吉良氏の研究』の記述とおおむね一致します。

 

「歴史手帖」の表紙


荻野さんは執筆の何年か前、三河吉良氏関係の史跡などを調査する中で、西尾市の八ツ面山(67.4㍍)を訪れたそうです。当時は「松、杉が全山に繁茂し、至るところに雲母の露天掘りの廃坑が今も残存しているので、登山者には危険な箇所もある。今も ってこれらの廃坑には雲母の残片が光を放って散乱している」状態だったそうです。

 

現在の八ツ面山

 

荻野さんによると、雲母は「吉良里(きらり)」「紀羅良(きらら)薬」と称して、上代医書である『大同類聚方』には薬用として記され、『続日本紀』の和銅6(713)年5月の条には「三河国雲母を献ず」とあるそうです。そのうえで「これが地名吉良の起源であって、一般の地名伝説の類は大半は牽強付会(けんきょうふかい)のものであるが、それよりははるかに事実に即した地名である」としています。


【女院領吉良荘】平安後期に「西条」「東条」

荻野さんは吉良町に足を運び、県内有数の国宝として知られる金蓮寺弥陀堂や西三河最大の前方後円墳で知られる正法寺を訪ね、「公家文化の影響のあった地方としての観を深くした」と言います。このブログの【平安時代】 などでも触れましたが、吉良荘で判明している最古の領主である皇嘉門院の後、平安後期から鎌倉前期まで所有権は藤原氏一族の九条家や一条家などに譲り継がれていきました。

 

西尾市吉良町にある国宝金蓮寺弥陀堂

 

荻野さんの研究によると、吉良荘は皇嘉門院による女院領でしたが、治承元(1177)年に「吉良庄西条」の預所職(あずかりどころしき)が皇嘉門院 のめいである藤原参子(せんし)に譲られ、ここに吉良荘が西条と東条に分かれていたことが判明します。また、「九条家文書」にある「皇嘉門院惣処分状」には「みかは き良」として九条家所領としての吉良荘が散見されるそうです。

 

「皇嘉門院惣処分状」(『西尾市史2』から)

 

九条兼実の日記『玉葉』には、同5(1181)年3月の条で九条家領吉良荘訴訟に関することのほか、坂東武士が三河国まで攻め上ってきたので、官兵は退散して京都に逃げ帰ったが、兵糧不足の間げきを突破して頼朝の軍勢が京都を目指して進撃してきたとのうわさが記録されているそうです。兼実は家領吉良荘が荒らされないか不安だったようですが、その危険は回避されたということです。

 

【公家領吉良荘】饗庭御厨の「角平」「寺島」


その後、元久元(1204)年4月の「九条兼実置文」から、九条家領としての吉良荘が東西両条に分割されているのは変わらないものの、すでに領家の手を離れて実質的な荘園経営が全く履行されていないことが明確になります。さらに、建長2(1250)年11月の「九条道家処分状」などから、東条が九条家領から消え、西条は地頭の実権が強まった様子が見えるそうです。

 

吉良荘の所有者の変遷(『吉良の人物史』から)

 

荻野さんは金蓮寺にある文治2(1186)年造立と伝わる弥陀堂に「公家文化の影響」を見いだし、正法寺では薬師堂の軒先につられた鰐口(わにぐち)に刻まれた文明16(1484)年12月の銘文に「三川国幡豆郡饗庭郷正法寺常住金鼓」とあるのを見て、饗庭御厨(あいばみくりや)が大神宮外宮神領であり、金蓮寺もまたその御厨内の寺であることを示しておられます。

 

左大臣源俊房の日記「水左記」の承保4(1077)年11月の条に、この饗庭が俊房の所領だと記されているそうです。一方で中御門右大臣藤原宗忠の日記「中右記」の長承元(1132)年11月の条に、饗庭御厨内の「字角平(つのひら)」「寺島郷」などが「代々国司奉免」だと記されているそうです。つのひら(津平)や寺島(寺嶋)は旧吉良町の大字として現在も残る地名であることを紹介してみえます。

 

【武家領吉良荘】東国と京都結ぶ中継基地

 

荻野さんによると、三河国は鎌倉時代初期に安達藤九郎盛長が守護でしたが、暦仁元(1238)年には足利義氏が替って守護になり、以来、元弘の戦乱期に至るまで足利氏が引き続いて守護職にあったそうです。義氏は北条時政の娘が母で、自身は北条泰時の娘を妻に迎え、鎌倉幕府内にあって大きな権力を持っていた人物であることが知られています。

 

足利義氏画像(同)

 

鎌倉時代の史書「吾妻鏡」には、将軍頼経が同年2月の上洛途中に東海道の矢作宿にあった義氏の亭(別邸)で宿泊したことが記されています。前出の「九条道家処分状」で見られた実権を強めた地頭は義氏を指すのだそうです。三河国守護であり、吉良荘地頭でもあった義氏は、守護として駅路行政事務をつかさどり、東海道を通る貴人の接待もしたとのことです。

 

三河地方歴史地図(「歴史手帖」から)

 

吉良荘を「東国と京都を結ぶ中継基地」と位置付ける荻野さん。時代が下り、足利尊氏が軍事行動で京都・鎌倉の間を往復する際には、「その都度吉良荘を利用することを忘れなかった」ということです。建武2(1335)年の中先代の乱では、吉良荘が鎌倉を逃れた足利直義の敗走先だったことや鎌倉に向かった尊氏と直義の合流地だったことを示し、「豊かな穀倉地帯が兵糧補給に役立った」としています。