室町幕府は織田信長が1573年、15代将軍足利義昭を京都から追い出して滅亡したと、かつて学校で習いました。とはいえ古今東西、「組織」というものは外圧ではなく、内側から腐敗して滅びるのが理(ことわり)のようです。室町幕府も同様で、信長に倒されたというより、将軍自身が招いた結末だった――とみるのは、このブログでおなじみの東京大学大学院博士課程の谷口雄太さんです。今回は吉良氏と直接関係ありませんが、興味深い発表だったので紹介させていただきます。

 

足利一門の家紋「丸に二引両」

 

キーワードは「足利一門」。ということで、足利一門については「どこまでが一門か明確に示しているものは確認できない」とされていたようですが、「実はそれを示す中世史料が存在する」そうです。『公武大体略記』『見聞諸家紋』『三議一統大双紙』などから、「畠山・桃井・吉良・今川・斯波・石橋・渋川・石塔・一色・上 野・小俣・加子・新田・山名・里見・仁木・細川・大館・大島・大井田・竹林・牛沢・鳥山・堀口・一井・得川・世良田・江田・荒川・田中・戸賀崎・岩松・吉見・明石」らを足利一門としています。


足利一門とそうでない武家との間には大きな格差があったそうです。何が違うのでしょうか。谷口さんが拾った中世史料の記述によると、足利一門だと、武家御旗(公方御旗・御所御旗)を授かることが許され、奉公衆を相手に下馬する必要はなく、名前を書く場合は下に「殿」が入るのだそうです。例えば、将軍が大名に送る文書でも、宛名は今川氏に対して「殿」を付け、武田氏には「とのへ」と区別しています。これ以外についても足利一門を特別視し、全国の武家もそのことに疑問を差し挟まなかったということです。

 

【力の重視】出自を問わぬ守護登用

 

京都将軍の足利氏、鎌倉公方の足利氏だけでなく、奥州には有力一門の斯波氏、九州には御一家の渋川氏が君臨し、日本の東西南北を足利氏と有力一門で固めるまさに“足利の天下”で、一般武家が足利一門に入る余地はありませんでした。ところが、15世紀半ばに入ると、上杉・種村氏に一色氏、佐々木大原氏に細川氏、木阿弥息幸子に畠山氏と、側近化するに当たって将軍が一門の名字を与え、一般武家が足利一門化するケースが散見されるようになるそうです。

 

上杉家の家紋

 

16世紀半ばごろになると、足利一門化を拒絶する家が現れます。1553~58年に三好長慶が将軍・上意を必要としない体制を構築し、55年には足利一門であるはずの今川義元が足利氏御一家である吉良氏を駿河に護送。同年ごろには織田信長が御一家の石橋氏と有力一門の斯波氏を追放し、73年には将軍さえも追放します。一門を特別視する足利的秩序は無視され、破壊していく動きが目立ち、「武家の権力は足利的秩序という“呪縛”から決定的に“解放”された」と見られています。

 

三好氏の家紋

 

さて、ここで考えなければならないのは、“呪縛”とも形容された足利的秩序を破壊する動きがなぜ生まれてきたのか、ということです。谷口さんは15世紀半ば以降を見ると「興味深い兆候」が見えてくると言います。まずは応仁・文明の乱で西幕府も東幕府も、国人など出自を問わず守護に登用したこと。実力さえあればどんな出自の者でも一国の主になれるという「“力”の重視」が“将軍”によって宣言され、裏返せば“家格破壊”が将軍公認のもとで進行したことが指摘されています。

 

その後も将軍は従来の出身階層や職制の枠にこだわらず、自分の信任する人材に足利一門の名字を与え、政権の中枢へ積極的に登用します。次第に名字を与えるという手続きさえ省略されたそうです。これは将軍によって足利一門と非足利一門の間にある壁が無力化され、「“血”の軽視」が進行したと指摘されています。16世紀前後になると、幕府の御相伴衆や御供衆に各地の実力者が入ることを将軍が許し、栄典授与の基準もあいまいになり、将軍の「“力”の重視」が進展するそうです。

 

【血の軽視】非足利一門の重職任命

16世紀半ばになると、将軍による「“血”の軽視」が中央や地方の人事に波及します。1546年には将軍が六角氏を幕府管領として元服させ、非足利一門である六角氏は先例がないとして固辞しますが、将軍は“上意”として管領役を引き受けるよう下命。こうした管領級人事は58年ごろ武田氏に対しても行われます。さらに、59年には非足利一門である伊達氏を奥州探題、大友氏を九州探題に任命しました。将軍が力を重視したため、足利一門の敷居は低くなっていきました。

 

六角氏の家紋

 

足利的秩序はなぜ破壊されたか――。将軍が「血」よりも「力」を重視した結果、「実力さえあれば必ずしも“足利”である必要はない」「“足利”を上と見る必要はない」ということを実力者に気付かせる契機になり、足利的秩序を中心とする“足利イデオロギー”(呪縛)は相対化され、そこ からの解放につながり、その波が最終的に将軍本人のもとに還流して足利的秩序は崩壊した――と導き出しました。つまり「三好氏や織田氏の登場を準備したのは将軍自身だった」という見解だそうです。

 

谷口さんによると、従来、室町幕府の滅亡と言えば、戦国大名や実力者らによる「下」からの突き上げの結果というイメージが強く、当時の武家は“足利イデオロギー”にとらわれて行動しており、そこからはイデオロギー批判は出てきにくい。これに対して、動乱期的状況に対応しようとイデオロギーに改変を加えたのは将軍自身で、そうした将軍による「上」からの改革こそが体制崩壊への決定的な引き金になったのではないか――と結論付けてみえます。

 

徳川氏の家紋


蛇足になりますが、京都の幕府が自壊したのに対し、鎌倉公方は東国諸氏の厚礼化を制限し、自らの社会的地位低下を回避したため、内部自壊ではなく豊臣秀吉によって最期を迎えます。また、足利一門の権威が低落する16世紀半ばでも、“足利一門化”した人々や追放後の将軍を支え続けた毛利氏など、“足利”を重視する人も数多く存在したそうです。1574年には島津氏が石塔氏に対する恩賞として「吉良」の名字を与えました。三好、織田、豊臣氏によって破壊された将軍を頂点とする武家の秩序は、足利一門の名字である「世良田」「徳川」を名乗った徳川氏が再編・再起動させます。