【創建】吉良満氏が聖一国師を開山に

先日、郷土史家の先生たちと西尾市上町の実相寺を訪れました。実相寺は吉良荘を統治していた足利満氏(吉良氏始祖・長氏の子)が鎌倉時代中期の1271年、京都東福寺の開山である聖一国師(しょういちこくし)=本名・円爾(えんに)=に1日だけ立ち寄ってもらって開山とし、吉良氏の菩提寺として創建したと伝わります。741年の歴史を誇る大禅刹で、三河では最古の臨済宗寺院だったそうです。

 

実相寺開山・聖一国師

 

聖一国師は実相寺二世に応通禅師(おうつうぜんじ)=本名・無外爾然(むがいじねん)=を推しました。応通禅師は若くして円爾に師事し、東福寺で経蔵を管理する蔵司でしたが、渡宋して諸寺を歴訪していたそうです。応通禅師は1274年から84年まで実相寺にいたことが分かっています。1318年に応通禅師が亡くなると、応通禅師に従って13歳で得度した可菴円慧(えんえ)が三世になりました。

 

実相寺2世・応通禅師

 

四世が今川氏の政所職にあった高木入道の伯父に当たる一峰明一、五世が幡豆郡須美保山園村生まれだった太山一元と続き、四世以降は吉良荘やその周辺生まれの僧侶が実相寺の住持になりました。1346年には、一峰に帰依した小間ヶ淵の龍神麻珂阿弥から千手観音画像と八葉宝鐸型梵鐘(県指定文化財)が寄進されたと伝わり、実相寺と地域との親密さを示す伝承として知られています。

 

八葉宝鐸型梵鐘(県指定文化財)

 

【繁栄】諸山認定と安国寺指定を機に

 

1321年から始まった格式のある寺を「諸山」として認定する制度で、三河では実相寺と加茂郡高橋荘の長興寺が認可され、44年には実相寺が一国に一つの利生塔を建てる「三河安国寺」に指定されたと伝わります。これを契機として、実相寺の大規模な整備が吉良氏によって行われ、京都と地方を結ぶ交流拠点として、吉良氏の発展と菩提を祈る寺になったと考えられています。

 

南北朝時代の1362年には、現在の釈迦堂(県指定文化財)に安置されている釈迦三尊像(県指定文化財)が造られました。この時期までの吉良氏は満義・満貞父子が南朝(足利直義)方で、満義は55年に北朝(室町幕府)に帰属し、翌年死去します。間もなく、満貞の被官層の一部が満貞の弟・尊義(義貴などとも)を吉良氏当主に担ぎ上げて北朝に帰順しました。

 

県指定文化財の釈迦三尊像(イラスト)

 

満貞は1360年まで南朝方でしたが、61年に幕府への帰参が許されました。釈迦三尊像は帰順を認められた満貞が父親の七回忌供養を兼ねて行った「在地復帰」の宣言だと考えられています。63年に幕府の重要機関引付方の頭人となった満貞がある時点で吉良氏当主に返り咲き、当主だった尊義が東条吉良氏として独立して東西吉良氏対立の時代を迎えたと、いう見方もありますが、東西吉良氏の対立を示す一次史料は今のところ見つかっていません。

 

【戦火】雪斎中興も信長によって焼亡

 

実相寺住職は六世、七世と続き、その後は輪住になったそうです。15世紀半ばには五山文学僧の詩文に実相寺や吉良荘がしばしば現れ、その繁栄の一端が知られるということです。中世実相寺の寺域について『西尾市史2』は、現境内を中心に南北2㌔、東西数百㍍と想定していますが、確たる根拠は見つかっておらず、「計7千石」と言われる中世の寺領についても不明と言わざるを得ない状況です。

 

現在の実相寺山門

 

戦国時代に入った15世紀後半になると、実相寺をしのぶ史料は皆無に近くなります。今川義元の軍師として知られる太原雪斎は、吉良氏出身の琴渓承舜に師事し、妙心寺三五世を務めた高僧 でもあり、今川氏が1550年代に吉良荘を支配下に置く過程で、実相寺への寺領寄進など積極的な保護を行ったと思われ、「中興の祖」とされています。これに伴い、実相寺は東福寺派から妙心寺派に転じたということです。

 

1560年5月5日、織田信長による吉良進攻で実相寺は戦火に遭い、全山焼亡に近い状況に見舞われました。寺伝では1561年5月とされていますが、周辺の寺も1560年5月に焼かれていますので、1560年としておきます。桶狭間の戦いの前哨戦と考えられ、創建以来の聖教や古文書は焼失し、釈迦三尊像など諸仏は僧侶や村人によって運び出されたと伝わっています。天正年間(1573―1592)に徳川家康の家臣・鳥居元忠が遠江国宇布見村の弘忍寺仏殿(現在の釈迦堂)を移築し、実相寺が再興されました。

 

    

実相寺の1560年焼亡を伝える史料

 

【散策①】吉良氏始祖の隠居地「丸山御所」

 

実相寺の山門に集まった私たちはまず、南に向かって歩きました。『西尾市史2』に「現境内から南へ200㍍のところに『南陽丘跡』という小堆土がある。竜門寺跡は南へ400㍍離れている」とあります。実際に足を運ぶと、確かに2~3㍍ほど盛り上がって樹木の茂っている所がありました。市史では「往時の実相寺の庭園の遺構と伝えられる」とされています。さらに南へ歩いた所に広がる空き地を見て、「ここに吉良満貞の子・俊氏の法名である竜門寺があったのだろう」と思いを馳せました。

 

南陽丘跡


そこで引き返し、今度は山門から東に向かいました。傾斜を下ると、左に西野町保育園、右にみりん製造会社がある道に入ります。道の北が「上町丸山」、南が「下町丸山」という地名です。この一帯には、吉良氏の祖である長氏(おさうじ)の隠居地とされる「丸山御所」があったと言われています。丸山の東には「御所ノ下」という地名もあります。先生の一人が持参された史跡地図には、丸山御所推定地の南に「丸山塚」が示され、その場所に行ったところ、それと思しきものは見当たりませんでした。

 

丸山御所推定地

 

上町丸山の北にある御向(おむこう)地内にあったとされるのが「道興寺跡」です。市史によると、道興寺は実相寺の塔頭で、創建については不明ですが、1895(明治28)年に実相寺境内へ移された後、廃絶されたそうです。現在は旧跡として墓地があるのみです。墓地を見てみると、奥に一つ、宝篋印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔が混ざったような供養塔がありました。吉良満貞の法名が「道興寺殿」なので、きっと災害で崩れた満貞の墓の一部を住民が組み直したものなのかも知れません。

 

道興寺跡

 

【散策②】中世実相寺はどこに

 

上町と下町を南北に結ぶ県道米津平坂線は、普通乗用車がようやくすれ違うだけの幅員しかないのに、多くの市民が抜け道としてなかなかの速度で使用しています。その道を北に向かいました。付近は垣外屋敷、横町屋敷、善兵衛屋敷など「屋敷」の付く地名がたくさんあります。市史は「屋敷の付く小字は室町から戦国期にかけての武士の居住を、さらに江戸時代初期の武家屋敷の性格を物語っているのであろうか」としていますが、吉良氏研究の先生は「中世は関係ないでしょう」とバッサリ。

 

横町屋敷の交差点を越えて130㍍ほど北に行ったところで、案内してくれた先生の一人が右斜めの道に入っていきました。目的地は応通禅師の墓。元禄ごろの実相寺絵図には東門があり、そこから斜めに応通禅師の墓に通じる作道(つくりみち)と名付けられた道が描かれているそうです。確かに実相寺の北東 には「作道屋敷」という地名がありますが、先生の案内してくれた道はそこから離れています。ともあれ、実相寺から約700㍍北東の上町塔頭地内の私有地に応通禅師の墓はありました。

 

応通禅師の墓

 

市史の中で気になる記述があります。新渡場町の地名「二ツ堀」が実相寺の堀の一部で、伊藤町の貴布禰神社に実相寺の「大門」があったとの伝承から、「永禄3(1560)年に焼亡する以前の実相寺が鶴城町浄念塚付近にあったとする説がある」というものです。場所はともかく、先生たちの間では中世実相寺が現在地とは別の場所にあったという考えが根強くあります。そう思わせるのが現在地から遠く離れた所にある応通禅師の墓であり、「かつてはこの付近に実相寺があったのではないか」と考えると、私たちの間で墓のすぐ北にある金石神社がその候補地に挙がりました。金石神社の創建は伝承の域を出ません。

 

金石神社

 

【見学】瓦の宝珠に見る心意気

 

余談ですが、金石神社は毎年暮れに行われる「管粥(くだかゆ)神事」が有名です。「お金石のおためし」と呼ばれ、500年以上前に農作物の不作が続いたのをきっかけに始まったと伝わります。釜の中にその年収穫した新米2合と水8合、農作物に見立てた長さ約10㌢の竹筒13本を入れ、約15分後にでき上がったかゆから竹筒を取り出します。神職が竹を割って中の米粒を数え、その多さで茶や稲、麦など13種類の作物について来年の豊凶を占います。

 

実相寺に戻った私たちはご住職とお会いして、本堂などを見せていただきました。本尊の向かって右に聖一国師、左に応通禅師の像がありました。玄関の土間には釈迦堂の屋根の頂点にあった瓦の宝珠がありました。江戸時代後期の1808年に造られたとみられ、1975年の解体修 理でお役御免になったそうですが、特に私たちは吉良氏の家紋である「丸に二引両」があることに驚きました。江戸時代は徳川幕府の保護を受けた実相寺であるだけに、何か“心意気”のようなものを感じました。

 

吉良家の家紋「丸に二引両」が入った宝珠

 

釈迦堂は毎年4月の第2日曜日に開かれる縁日「お釈迦さん」に合わせて開かれ、安置されている釈迦三尊像や四天王像が公開されます。また、堂内に誕生仏も設けられ、善男善女が甘茶をかけて願い事をします。ご住職の話では高さ1㍍余もある釈迦像は国内でも珍しいとか。また、両脇を固める四天王像(市指定文化財)も160㌢前後の高さを誇り、伊勢湾台風で損なわれたという豊かな彩色がよみがえると、西尾の中世がひときわ輝きを増すと思います。

 

実相寺の墓地にある鳥居元忠の墓